第35.5話 七瀬小春と、潮凪葵
――私はぶくぶくと、湯船のお湯を揺らす。
葵ちゃんの家のお風呂に入るのはいつぶりだろう。昔はよく一緒に入っていたけれど、高校生になってからはそういう機会もなかったな。
久しぶりに浸かるお湯は温かくて。葵ちゃんの家のお風呂は懐かしくて。じわ、と目元が熱くなるけど。……これは、湯気のせいだから。
ざぶん、となにかをリセットするように、私はお湯の中へと潜る。音のない世界で、いつも潜っちゃダメって葵ちゃんに怒られていたことを思い出す。
お湯から顔を出して、大きく息を吸う。
濡れた髪からぼたぼたと落ちる水滴を見つめつつ。何度呼吸を繰り返しても、私は息苦しいままだった。
その理由を、私は知ってしまっている。
葵ちゃんは、せんぱいのことが好きなんだ。
これはきっと葵ちゃんなりの、宣戦布告。
たしかに葵ちゃんは私よりもずっと先にせんぱいを知って、好きになったのかもしれない。
私よりもずっと可愛くてやさしい。む、胸だって大きくてスタイルもいい。多分誰に聞いても葵ちゃんを選ぶべきだと言うと思う。
…………だから、なんだ。
誰に聞いてもそうだったとしても。
せんぱいだけが、私を選んでくれればそれでいい。
葵ちゃんは、せんぱいの晩ごはんを食べたことないもん。朝一緒に登校したこともない。仮に事故でも押し倒されたことはないだろうし、せんぱいが告白する所も見たことがない。
そんな私だけの特別を集めて、私は、せんぱいにとってのとくべつにならないといけない。
じくじくと傷口のように胸は痛んで、息はやっぱり苦しいけれど。
葵ちゃんの後ろをついて歩く小さな女の子だった私にさようならをして。私は、走り出さないといけない。
私もせんぱいのことが好きなんだよと、葵ちゃんに伝えなきゃいけない。
***
お風呂から出て、葵ちゃんの導入液と化粧水と乳液を順番に塗る。葵ちゃんのパジャマを借りて、葵ちゃんのヘアオイルを塗って、葵ちゃんが髪を乾かしてくれる。「髪、綺麗だね」なんて言われて、私はちょっぴり嬉しくなる。
葵ちゃんみたいになりたくて、真似してたから。……覚悟を決めたはずなのに、なんだか全部を葵ちゃんに染められていく気分だ。
問題は下着。家に入れないのだから勿論無い。お店も開いてない。履かないわけにもいかないのでとりあえず下は葵ちゃんが貸してくれたけど……。
上は、うん。……私はこれからだから。
ドラム式の洗濯機の中で回る私の下着の事を思いつつ、そんなことを考える。
そうしている間も、葵ちゃんはいつも通り。ついさっきのことなんて夢だったみたいに、いつもの優しい私のお姉ちゃん。
使い捨ての歯ブラシで歯磨きをして、葵ちゃんの部屋へ。
最近は私の家に来てもらってたから久しぶりに入るけど、何も変わってない。
ふわふわした女の子らしい部屋じゃなくて、ずらりと本の並ぶきっちり整理整頓された部屋。所々に小さな変な置物。私は葵ちゃんの、こういう所がすごく好き。
そんな、いつもは安心する場所なのに。
今日だけは、どうしてか分からないけど心臓がドキドキして仕方ない。まるで、せんぱいの家に初めて入った時みたい。
お互いが気を遣ってなのか分からないけど、せんぱいのことには触れずに色々と話をした。学校のこと、一人暮らしのこと、最近あった面白いこと。
どれを話していても私のそばにはあの人がいて、それをきっと葵ちゃんもわかってて。それでも優しく笑ってくれる葵ちゃんは、ずるい。
時計の二つの針が真上を指し示そうとするころ。明日ハルちゃんはバイトだし、その前に鍵を探しに行かなくちゃいけないからね、って言って葵ちゃんが電気を落とす。
葵ちゃんのお母さんが持ってきてくれた布団に私はもぐりこむ。胸のあたりがドキドキする。あのね、葵ちゃん。って言葉がどうしても私の口からは出てくれない。
ごろんと寝返りを打って、私がぎゅっと目をつむったとき。
「……は、ハルちゃん。一緒に寝よう?」
そんな、ちょっとだけ震えた声が聞こえた。
私がゆっくりと身体を起こして振り向くと、暗がりの中で葵ちゃんが布団をぽんぽん、って
二回叩く。おいでおいで、って言うみたいに。
「……せ、狭くなっちゃうし」
「ハルちゃんは小さいから大丈夫だよ」
「私、もう子供じゃないし」
「……私が一緒に寝たいの」
表情はよく見えないけれど、葵ちゃんがちょっぴり恥ずかしそうに微笑んだのが分かった。
……そんなふうに、言われたら。
「……し、仕方ないなあ」
私は立ち上がると、葵ちゃんの布団におそるおそる身体を滑り込ませる。ほんのり体温を感じて、私は照れ臭くてもぞもぞと身を捩る。
ようやく暗さに慣れてきて、すぐ近くにある葵ちゃんの顔が見えた。無防備なその表情は、よく知っている私が見てもドキドキする。
「――えいっ」
「ちょっ」
急に葵ちゃんは私を抱きしめるようにして身を寄せた。柔らかさと温かさがパジャマ越しにじんわりとつたわってくる。
「あ、葵ちゃん、くるしいってば」
「ふふふ〜、ハルちゃんはやっぱりあったかいねえ」
葵ちゃんの満足そうな声が漏れた。
何度か抵抗してみるけれど、離してはくれそうにないので私は大人しく葵ちゃんに包まれる。今着ているパジャマと同じ柔軟剤のにおいが鼻腔をくすぐった。
……すごく、安心する。
「……まだねむたくない」
葵ちゃんは子供みたいにそう呟く。
「葵ちゃんが電気消したのに」
言い返すと、葵ちゃんはくすくす笑う。
「明るいと恥ずかしい話、出来ないから」
「……は、恥ずかしい話って」
私が見上げつつ訊ねると、葵ちゃんは少しだけ黙り込んで。
「……私はハルちゃんよりお姉さんだから、先にハルちゃんのお話から聞いてあげる」
そんなことを、言った。
「あ、葵ちゃんが恥ずかしい話するんじゃないの?」
「私は、あとで」
「な、なにそれ」
「ほらほら、はやくはやく」
葵ちゃんは急かすようにして私のお腹の横あたりをくすぐる。身体を縮こめた私は、お返しをする。葵ちゃんの弱いところなんて全部知ってるんだから。
そうして、ひとしきり笑いあった後。
ドキドキする心臓をおさえながら。
私の口は、ようやく言いたいことを形にしてくれた。
「――あ、葵ちゃんは。なんでせんぱいを好きになったの?」
「…………へ? わ、わたし?」
慌てたような葵ちゃんの声が聞こえる。
最後の方なんて少し裏返ってた。
「そ、それは私の恥ずかしい話なんだけどな」
「わ、わたしは後輩だから葵ちゃんが先」
葵ちゃんは困ったように目を逸らす。
「……ハルちゃんも、答えてくれたらいいよ」
わずかな月明かりに照らされた葵ちゃんの顔は、ほんのり赤くてとても真剣で。
質問の意味なんて分かっているけど、私は聞き返す。
「な、なにを?」
「そ、相馬くんのこと。……ハルちゃんだけ、ずるい」
「う……せ、せんぱいは」
私は声を詰まらせる。
真っ直ぐ見ていられなくて、葵ちゃんからゆるゆると目を逸らす。
言ってしまったら私は、ううん、私と葵ちゃんはもう後戻りできない。
ふわりと、葵ちゃんの手がまた私の身体を包む。私は誰にも聞こえないようにと願いながら、つぶやいた。
「………………ちょっとだけ、すき」
…………言えた。
ぼわっと、顔が熱くなる。心臓がはちきれそう。あ、葵ちゃんには、聞こえたのかな。
私がおずおずと葵ちゃんの方を見上げると、ぱちりと目が合う。葵ちゃんは結局何も言わなかったけれど。また私を、くすぐった。
「あ、葵ちゃん、ふふ、や、やめて!」
私はどうにか葵ちゃんを引き剥がす。
荒れた息を落ち着かせようと深呼吸をする。
どうしてか、もう息苦しくは無かった。
「……約束、だからね」
葵ちゃんはぎゅっと目をつむったまま、多分今の私よりも赤い顔をして、そうつぶやく。
「――ぜ、絶対、誰にも言わないって約束だからね」
そして、話し始める。
せんぱいと、葵ちゃんのことを。
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