第28話 朝と昼、放課後と彼女

 七瀬のせいでいつもより随分と早く学校に着いた俺は、まだ朝の静謐な雰囲気の教室の中、自らの席に腰掛けて文庫本を開く。


 ここ最近は色々ありすぎて、ゆっくり本を読むことさえ出来ていなかったことを思うと、久しぶりに落ち着いた時間だ。


 自然と漏れた息と共に、遠くで誰かの笑い声が聞こえた。そうして、いつ買ったかも覚えていない青春ミステリの一行目を……。


 ……勘違いじゃ、ないんだよな。


「……っ!」


 突然浮かんだあいつの顔を消し去ろうと、俺は何度か首を振る。落ち着け俺、集中だ。文字を読めば落ち着くはずだ。ただ目の前の本に意識を向けるだけの簡単なことじゃないか。


 俺はもう一度文庫本を開き、書き出しの一文に目を走らせる。


『――今日の夕飯、いらないから。これが、彼の残した最後の言葉になった』


「…………」


 ゆっくりと本を閉じる。同時に目も閉じた。


 だ、駄目だ! ごはんにまつわる文字を見るとどうしてもあいつの美味しそうにごはんを食べる姿が目に浮かんで集中出来ない。

 てかどんな書き出しだよこの本。いやむしろ気になるけど今はマジでやめろ。


 俺は文庫本を机の上に置き、その灰色の表紙を眺める。……この本を何事もなく読み終えることが出来る日は、来るのだろうか。


 誰かが開けたらしい窓から、風がゆるやかに吹き込んでくる。来週には六月、梅雨もど真ん中のせいか、やけにぬるい風だった。


「――相馬くん、おはよう」


 肘をついてぼんやりと外を見ていた俺の視界に、整った綺麗な顔が映る。俺は慌てて身体を起こしたせいで、危うく椅子から転がり落ちるところだった。


「お、おはよう」


 潮凪さんは動揺する俺を見てふわりとした笑みを浮かべると、席に着く。鞄を膝の上に置いた彼女から可愛らしくふう、と息が漏れた。


「朝なのに暑いね。私、歩いてくるだけでちょっと汗かいちゃった」


 困ったように彼女はブレザーのボタンを外すと、シャツの胸元をぱたぱたと揺らす。思わず目でそれを追ってしまった自分に気づき、誤魔化すように俺は言った。


「潮凪さん、今日は早いね」

「そうかな。私、いつもこれくらいだよ? 相馬くんこそ今日は早いけどどうしたの?」

「あー、ちょっと寝れなくて」

「ふうん? あ、変なこと考えてたんだ〜?」


 冗談混じりの顔でこちらを見た潮凪さんに、よく分からない笑顔を返す。まさか七瀬のことを考えていて寝れなかったなんて、口が裂けても言えない。


「そういえば相馬くん、こないだも授業中寝てたよね」

「……そ、そうだっけ」


 み、見られていたのか……。不覚。

 それもこれも大体七瀬のせいだと思うと、俺がいかに彼女に振り回されていたかが分かる。

 

「なにか悩みとか? 気になることとかあるの?」

「いや、別にそんなんじゃ……」


 今日の潮凪さんはやけにぐいぐいくるな、なんて思っていた俺は、続く言葉に耳を疑うことになる。


「そ、そうだ。気になることといえばさ」


 潮凪さんはわざとらしくぽむ、と手を叩くと。


「その……相馬くんって今、気になる人とか、いるの?」


 こしょこしょと俺にだけ聞こえる声で、彼女はささやいた。


「へ?」


 思わず潮凪さんの方を見る。どこか恥ずかしそうな、けれど真面目な顔だった。


「ほ、ほら。こないだも後輩の女の子に」

「あれは違うから! 全然なにもなかったから!」

「そ、そうなんだ」


 納得いかないように呟く潮凪さん。

 気になる人? 今俺は、潮凪さんに気になる人を聞かれているのか?


「……じゃあ、他に気になる子が、いるの?」


 彼女は上目遣いでこちらを見る。綺麗な大きなその瞳に吸い込まれそうな気分になる。


 本来なら目の前にいる潮凪さんこそ俺の気になる人だというのに、どうしても今、もう一人気になってしまうやつが浮かんでくる。


「――ま、まあ。いるといえば、いるけどさ」


 どうにか言い切った俺は思う。

 なんだこれ。これが、モテ期か?



 ***



 ――そして、昼。


「悪い、今俺は考えることが多くて忙しいんだ。お前のことを気にしている暇がない」

「ひどくないですか!? 私への対応!」


 昼ごはんを青ちゃんと食べ終えた俺は、図書室で一息つこうとしたところを千歳に捕まえられた。聞きたいことは分かっている。


「渡の件はまあ、あれだから」

「あれってなんですか! なんで私だけ秘密なんですかっ! 結局ナナちゃんもだんまりですし!」

「男の約束ってやつだよ」


 頬を膨らませて俺を半目で睨んだ千歳は、ぼそりと漏らす。


「ナナちゃんと、なにかあったんですか?」

「……なにも」

「あの子、渡くんのことを聞いたら、上手くやっておきましたって言うくせに、相馬先輩のこと聞いたら逃げるんですよ? ……おかしいですよね?」


 俺は逃げた。七瀬に噂を流されたと勘違いしたあの日、教室から飛び出した時くらいの速さで。


「やっぱりあった! あったんでしょお!?」


 千歳の叫び声は、のどかな昼の陽気に混ざって消えた。



 ***



 ――俺、相馬遼太郎が一番強いのはいつかと問われれば。きっと金曜日の放課後と答える。


 そんな放課後の帰りがけに靴箱で出会ったのは、件の渡冬馬だった。

 渡はこちらに気づくと、はあ、とわざとらしくため息をつく。


 俺に会ってため息つくやつ多すぎるだろ。むしろ吸え。幸せが逃げるぞこら。


「なんで、こんなところにいるんですか」

「別の学校の生徒みたいに言うな。ここの生徒だ俺は」


 渡は嫌そうにこちらを見やる。


「……青山さんには、言わなかったんすね」


 きっと、噂のことだろう。


「そっちこそ、言わなかったんだな」

「僕は七瀬さんが好きって言ってるでしょう。そんなことしませんよ」

「……七瀬の家とか、覗くなよ」

「……す、するわけないでしょ」


 なんの間だよ。大丈夫なんだろうな、おい。


「相馬さんこそ、七瀬さんに酷いことしないでくださいよ。……あ、いや。酷いことして早く嫌われてもらっていいですか」

「余計なお世話だ」

「ほんと、相馬さんなんかのどこがいいんでしょうね」


 渡は大きなバッグを背負い直すと、顔だけをこちらへ向けて言った。


「七瀬さんを泣かせたら怒りますから」


 それだけ言い残して、彼は去っていく。

 ……何故だか分からないが、一度泣かせたことがあることは黙っていようと、俺は一人心に誓った。



***



 帰り道。

 ふらふらと本屋に寄ってまた本の山に積み上がるであろう文庫本を手に入れた俺は、まだ青々とした空に向かってあくびをする。

 

 まったく今日は大したことをしたわけでもないのに、ひどく疲れた。


 ふと、潮凪さんに気になる人はいるのかと聞かれたことを思い出す。誰かに話したい気持ちがもやもやと湧き上がる。


 とはいえ青ちゃんは部活だしなあ。こういう時に友達が少ない俺なんかはつらい。

 仕方ない、今日は一人寂しくカレーでも煮込んでみようかとぼんやり思う。


 カレーといえば。潮凪さんのグリーンカレーを食べたことを思い出す。つい先日のことなのに、まるで遠い昔のことみたいだ。


 ……今日、七瀬はバイトだろうか。


 七瀬の言葉が思い返される。

 俺はまた、彼女を晩ごはんに誘っても良いのだろうか。


 七瀬の気持ちを知って、それに答えを出せないままの俺が、彼女を誘うのは非常識なのだろうか。


 ……分からない。

 恋愛経験など皆無の男子高校生の俺には、その辺のルールやマナーなんて知る由もない。


 ――いつの間にか落ちていた俺の視線の先に、小さな黒のローファーが映った。


 顔を上げる。

 そこには、大きな白のビニール袋を持った七瀬小春が立っていた。澄んだガラス玉みたいな瞳が俺を捉える。がさりと、大きな袋が揺れて音がした。


「……具材、買いすぎちゃって」


 七瀬は袋を掲げて、はにかむように笑った。

 

「いや。買いすぎちゃってって」

「今日はですね。カレーですよ?」


 ……なるほど。こういう作戦で来るとは思わなかった。俺は呆れたように肩を落とす。きっと上がってしまっている口角を隠すように。


「誰が作るんだよ、誰が」

「せんぱい、です」


 ……悪魔みたいなこの後輩は。

 たまに、こんなふうに天使みたいな笑顔で笑うのだ。

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