第三章

第27話 勘違いじゃないです


『――もし嘘が、嘘じゃなかったら。その時は、どうなるんでしょう?』


 昨日から壊れたスピーカーのように脳内で繰り返されるその言葉は、目を開いた今も鳴り続けていた。


 スマホから響くアラームを止めると、俺はボサボサになった頭を掻きつつ起き上がる。


 そもそも俺は、眠ることが出来たのだろうか。それすらも分からないままに夜は明けて、カーテンの隙間からは朝日が差し込んでいる。


『――それでもせんぱいは、晩ごはんを作りすぎちゃって。私と一緒に晩ごはんを、食べてくれるのかな』


 あの時の七瀬はどんな顔をしていたのだろう。声をかける間もなく、彼女はすぐに走り去っていってしまった。

 追おうとしたけれど、その姿は夜の闇の中へ消えていってしまって。


 残された俺は、案の定青ちゃんと千歳に問い詰められた上にジュースまで奢らされたわけだが。七瀬については何も答えることが出来ないまま、帰路に着いた。


 ……千歳は『明日絶対話してもらいますからね』と言って俺を睨んでいたので、逃がしてはくれないだろうなあ。


 色々と言われるであろうことを想像して、ため息をつく。俺じゃなく、七瀬に聞いた方がいいぞなんて思いながら。


 ――もし嘘が、嘘じゃなかったら。


 七瀬の言葉だ。俺がついた嘘は、七瀬が俺を好きだというもの。それが、嘘じゃない?

 つまり、七瀬が、俺を……?


 あり得るの、だろうか。

 俺はまた、からかわれているだけなのか? でも、あの時の七瀬の態度は……。

 

『そういうの、やめたほうがいいですよ』

 

 ふと、渡の言葉が思い返される。


 ……俺は、潮凪さんのことが好きだ。それは今でも変わらない。

 じゃあもし、七瀬が俺のことを好きだとしたら。俺は、どうしたらいい?


 顔を洗う。寝癖を直す。歯を磨く。

 答えは出ない。当たり前だ。あれがもし、こ……告白だとしたら俺は人生で初めて告白されたことになるのだから。


 俺はコップに注いだ牛乳を飲む。

 どうしてか、七瀬が美味しそうにごはんを食べる姿が浮かんだ。

 それをごくんと、最後の一口と共に飲み込んで。


 ……分からないことは、聞くしかない。

 

 制服に袖を通し。靴を履いて。大きく息を、吐いてから。


 俺は、覚悟を決めて扉を開く。


 ――隣で、ガチャリと扉が開いた。


 まぬけな猫みたいな顔をした七瀬と目が合う。きっと俺も、人のことは言えない顔をしていたことだろう。


「……よ、よお」

「……おはようございます」


 七瀬はふいっと顔を逸らしてそれだけ言うと、こちらを見ることもなく先々階段を降りていく。特に慌てた様子もない。

 ……な、なんだよ。まさか、気にしてたのは俺の方だけなのか?

 

 後を追うように俺も階段を降りる。いつもよりかなり早い時間に家を出る形になったが、まさかここで出会うとは。


 階段をひとつ降りるたびに揺れる七瀬の黒のデイバック。彼女の艶のある髪は、今日もいつもと変わらずさらさらと風に揺れている。


 そんないつも通りの七瀬を見ながら、ぼんやりと思う。

 俺は、とんだ勘違い野郎なのかもしれない。

 何が告白だ。自惚れるのも大概に……。


 階段を降りて何歩か進んだ七瀬が、急に立ち止まる。俺も数歩遅れて足を止めた。


 七瀬はゆっくりとこちらを振り返る。いつの日か見たのと同じ、ひどく不満そうな顔。

 ついてこないでください、とでも言われるのかと俺が身構えると。


「い」

「……い?」


 首を傾げた俺を見て、なぜか頬を朱に染めた七瀬は、ぎゅっと目をつぶったまま言った。


「い、一緒に。行きますか……?」

「…………」


 か、勘違い、じゃないだと……!?



***



「――とりあえず渡の件は、俺と七瀬の間だけで留めておこう」

「わ、私とせんぱいだけ、ですか」


 ……七瀬の様子が、おかしい。

 一緒に学校に行きますか、なんて言い出したものだから変だとは思ったものの、もうかれこれ十分程度は歩いたがやっぱりおかしい。


「問題は千歳になんて説明するかだ」

「わ、私とせんぱいのことをですかっ!?」

「……違うだろ。渡の話だ」


 睨むな。何をどう聞いたらそうなるんだ。


「千歳は渡が好きな訳で、渡のことをありのままを話すのはちょっとアレかと思うんだが」

「私ががつんと言ってやった、ってことでいいんじゃないでしょうか」

「雑だなあ……」


 まあ、千歳にはそれくらいの説明の方がちょうどいいのかもしれない。


 俺と七瀬は二人分くらいの距離を保ちながら進んでいく。まだ朝早いせいもあってか、いつもの河川敷の道は人もまばらだ。


 毎朝見るこの景色も日に日に変わっていく。来週には衣替えだ。夏はゆっくりと、けれど確実に近づいてきている。


 お互いに喋らない時間が少し続いて、俺は間をつなぐように伸びをする。昨日あまり寝れていないせいか、肩も首も凝っている気がする。


「――せんぱいって、葵ちゃんのどこが好きなんですか?」


 今日は早く家に帰って寝よう…………ん?


 まるでそよ風のように自然に流れていったその言葉。俺はゆっくりと左隣を見る。


 驚いたように口を開いて七瀬がこちらを見ていた。


「え……? な、なんて?」

「…………言ってません」

「い、いや。今潮凪さんのどこがとか」

「言ってません! か、勘違いです!!」

「な、なんだ勘違いか……んなわけあるか!」


 言い返した俺を、七瀬は置いて歩き出す。

 昨日からこいつは一体なんなんだ……人を振り回しておいてこの態度。

 

「おい七……」


 俺が七瀬を呼び止めようとすると、彼女はま

た足を止める。小さく首を振ったかと思うと、七瀬は諦めたように肩を落として、ため息をつく。


 そして、俺の方をじとりと見て。


「……やっぱり、勘違いじゃないです」


 拗ねたように、言った。


「か、勘違いじゃないってのは。さっきの、質問のことか? それとも……」

「ぜんぶです」


 七瀬は俺の方へと一歩踏み出す。地面がざり、と音を立てた。


「ぜ、全部? 全部ってのは」

「これまでも昨日のことも今日のことも多分これからのこともぜんぶです」


 さらに彼女は俺の方へ一歩、一歩と歩み寄る。だんだんと七瀬の白い肌が、頬が、とうに過ぎ去った春の桜のように染まっていく。


 そうして俺のすぐ手前まで来た七瀬は、何かに耐えるようにふるふると口角を震わせながら、わずかに潤んだ瞳で俺をまっすぐに見上げて。


「――だ、だから覚悟してくださいね? せんぱい?」


 俺は息を呑む。

 そんなに恥ずかしいなら、言わなけりゃいいじゃないかと思いつつ。


 すぐに駆け出していってしまった彼女の背中を見ながら、この素直じゃない後輩とのまた新たな戦いが始まる。そんな予感がした。




 

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