第26.5話 七瀬小春は
お父さんは、私がまだ小さい頃に亡くなった。
赤のランドセルを背負い始めた姿くらいは、見せることが出来たのを覚えているけれど。
私の家はお父さんもお母さんも、職業柄なのか常に忙しそうにしていて。
私は小さい頃からおばあちゃんの家で一緒にごはんを食べさせてもらうことが多かった。
別に寂しくなんてなかった。それが当たり前なのだと、そういうものなのだと思っていたから。
でも、そんな忙しそうなお父さんとお母さんが、たまの休みの日に作ってくれる晩ごはん。それが私はとても好きだった。
一番好きなのはエビフライ。あと、唐揚げも好き。カレーも、ハンバーグも好き。
ううん、きっとお父さんとお母さんが作ってくれたものなら、私はなんでも好きだったんだと思う。
――お父さんがいなくなったのは、その年で一番暑い夏の日だった。
それまでも仕事ばかりだったお母さんは、もっと仕事にのめり込む様になった。まるで、何かを忘れようとするみたいに。私のことも、忘れているんじゃないかと思うくらいに。
お母さんは、私のことは好きじゃないのかもしれない。私はお母さんにとっての、お父さんの代わりにはなれないのかもしれない。
そんなことを思って、小さい頃はよく泣いていた気がする。私のことを見てくれないお母さんと、すぐに泣いてしまう自分のことが大嫌いだった。
最後にお母さんの手作りのごはんを食べたのはいつだっただろう。なんて考えてしまうくらいには、二人でゆっくり食卓を囲んだ記憶がないことを思い出して、少し寂しくなる。
でも弱音を吐いてばかりではいられない。お母さんだって辛いんだ。お母さんも頑張っているのに、私だけが甘えてちゃだめ。
お父さんがいなくて、お母さんが働いている家庭なんてこの世の中にいくらでもある。その人たちだってきっと頑張ってる。だから、私だってちゃんとしないといけない。
お母さんに、迷惑をかけないように。
私は多分、嘘をつくのが上手になった。
人に対しても、そして、自分に対しても。
私とお母さんの間には、目には見えない水の塊みたいな、それ以上踏み込んではいけない透明な壁のような。そんなものがずっと、ずっとある気がする。
――いつからか、決めていたことだった。
高校生になって、私は一人暮らしを始めた。
お母さんは少し悩んでいたみたいだったけれど、それを認めてくれた。
私にしてみればこれまでも半分一人暮らしみたいなものだったから、特に何が変わるということもない。
おばあちゃんも、葵ちゃんも心配してくれたけど、私は大丈夫。ひとりでも、大丈夫だから。
朝ごはんは平気。お昼ごはんも平気。
でもやっぱり、一人で食べる晩ごはんだけは。ほんの少しだけれど、寂しいな。
でも私はもう、誰かに晩ごはんを作ってもらうような小さな女の子では無くなったんだ。
そして高校に入学して、すぐ。
学校からの帰り道の途中。ちょっと遠回りして、小さな頃にお父さんとお母さんと何度か来たことのある高台の公園に寄り道してみた。
やっほー、なんてお父さんと向こう側の山に向けて叫んだりして、お母さんもそれを見て笑ってたなあ、なんてことをふと思い出して。また少し泣きそうになった。
そんな私のどうしようもない感情は、その後響き渡ったあの一言で、どこか遠くへと飛んでいってしまった。
『――潮凪さん、君のために、一生味噌汁を作らせてくれぇ!!!』
バカだと思った。
夕陽が照らす高台の公園で、そんな言葉を大きな声で叫んでいる人がいたのだ。
私と同じ高校の制服を着たその人は、私のいとこの潮凪葵に向けた告白を、いや、もうプロポーズじゃないかと思うようなことを叫んでいた。
本当に驚いて、二度言うけど本当にバカだと思った。なにそれ、なんでここで言うのって。本人に言えばいいのにって。
……でも、夕陽に向かうその背中はどうしてか分からないけれどカッコよくて、ちょっぴりドキドキした。
その人がこっちを振り返って、目が合って。心臓が飛びでちゃうかと思った。
聞いてしまったことを謝ろうか、それとも聞こえてないふりをして微笑みでもしたほうがいいのか悩んでたら、その人膝から崩れ落ちちゃうし。
何も聞いてないって言ってるのに、勝手に勘違いして自らを追い込んでいくし。やっぱりバカなのかもしれない。
公園からの帰り道、ずっと私はドキドキしてた。知らない人の、知ってはいけない秘密を知ってしまったから。
すごい告白を夕陽に向かってしている人を見て、その告白の相手が私のいとこだなんて、そんな偶然、なかなかないよ!
しかも私の前を歩くその人は、どうしてか私のアパートと同じ方向に進んでいく。途中で遠回りしようとしても、何故かその人が先にその道の方へ進んで行っちゃう。
……もしかして、私に秘密をバラされないように弱みでも握ろうとしてるのかな。女一人だから、もしかしたら脅されるのかも。
そうしてアパートの前まで着いた時、私は驚きを通り越して怖くなった。なんでこの人私の家知ってるの、って。
でもその人、恐る恐る階段を登って、私の部屋を通り過ぎたと思ったら隣の部屋の鍵を開けるんだもん。本当に可笑しくて、つい笑っちゃった。しかもなんだか私よりびっくりしてるし。
その日の夜。どうしてか私は、一人なのに寂しくなかった。
そして、何日かが過ぎて。
隣の家に住むその人は、私と同じ学校の一つ上の先輩だということが分かった。名前は相馬遼太郎さん。
別に私は脅したりとか弱みを握ってるつもりなんてないのに、あの人は晩ごはんを食べさせてやるから秘密は守れ、とか言い出して。
……そんなに私、性格悪そうな顔してるのかな? ちょっと傷付く。
――でもそこからだ。そこから私と、せんぱいの変な関係が始まった。
ちょっと怖い顔してるくせに料理はびっくりするくらい上手で。初めて食べた日のことは、ぜったい忘れない。
毎回嫌そうに文句を言うくせに、私の好きなおかずとか聞いてきたりするし。食生活がどうとか言ってくるし。
たぶん、すごくお人好しなんだろう。
……少しだけ、葵ちゃんが羨ましくなった。
だからちょっとだけせんぱいに意地悪してみたり。からかってみたり。その度にすごく良い反応してくれるから私まで楽しくなってきて。
でも、邪魔はしないよ?
せんぱいの気持ちは、分かってるから。
私が好きなのは、せんぱいじゃなくて……そう。せんぱいの作る、晩ごはんだから!
そんな私とせんぱいの、有って無いような晩ごはんの契約が無くなった時、つらくて、すごく寂しい気持ちになった。
誰かと一緒に食べる晩ごはんが、誰かが自分のために作ってくれる晩ごはんが、こんなにも美味しくて幸せなものだと知らなかったから。
……ううん。きっと私は知っていた。忘れてしまっていただけで。
それを私に思い出させておいて、しかもあれだけ嫌々だったくせに。たまには、食べに来いよとか言うし。そういうところが…………よ、良くない。
私はいつか、せんぱいの所へ自分から晩ごはんを食べに行ってやろう思う。弱みだとか、変な理由なんかつけずに。ただ、晩ごはんを食べに。
今はまだ、ちょっと恥ずかしいから無理だけど。
……それと。もうひとつ、いつか。
料理の上手なせんぱいに、料理を教えてもらって。
お母さんに、作ってあげられたらいいな。作りすぎちゃったから、なんて言って。
誰かと一緒に食べる晩ごはんは、こんなに美味しいんだよって。教えてあげられたらいいな。それを私は、せんぱいに教えてもらったから。
――そして。私はそんなせんぱいに。
「っ…………ううう」
私、七瀬小春は枕にぼふっ、と顔をうずめる。
今日のことが鮮明に蘇ってくる。グラウンドの景色。きらきらした明かり。せんぱいの、驚いたようにこちらを見る顔。
私は、嘘をつくのが上手いんじゃなかったのか。
私は、せんぱいの邪魔をしないんじゃなかったのか。
私が好きなのは、せんぱいの、ごはんだったはずじゃないのか。
「ううう………」
ベッドの上で一人悶える。思い出すと、頬がかあっと熱くなって、胸が締め付けられて、叫びだしたくなる。
あんなこと、言うつもりは無かった。
ずっと嘘を突き通してやろうと、私にはそれが出来ると思っていたのに。気づいたらそれは、私の口元から勝手にこぼれ落ちていた。
私は逃げた。走って逃げた。
帰り道の夜空には、嘘みたいに綺麗な星空が広がっていて。
置いてけぼりにしてしまったちーちゃんには、後から連絡して謝った。
……せんぱいは、どう思ったかな。
私はぼさぼさの頭のまま、枕から顔を起こす。
そして、左側の白い壁を見つめる。
今日が、金曜日ならよかったのに。
……わ、私は一体。明日からどんな顔をして、せんぱいに会ったらいいの!?
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