第26話 もし

 驚愕の目で俺を見る渡。

 そして見なくても分かる。きっと七瀬も同じような顔を俺の後ろでしているのだろう。


 しかし、これしか方法が無かった。

 この渡という男から七瀬を守り、そして自分自身にも嘘をつかないための――嘘。


 俺が七瀬を好き、という嘘ではダメだ。

 それではまだ渡と俺は対等で、余計に彼を焚き付ける原因にもなりかねない。

 

 きっと、自分を犠牲にして解決するなんて立派なやつがやることなのだろう。俺が自らを犠牲にしたところで守れるものなんて、たかが知れている。


 だからこの方法を選んだ。

 七瀬が俺を好きだというであれば、これは渡と俺の問題ではなく、七瀬個人の問題になる。

 それについて、渡が口出しをすることは出来ない。そんな権利は彼には無いからだ。


 そして渡が七瀬を好きであるならば、この嘘をあえて他者に流すこともないだろう。そんなことをしても彼に何の得も無い。


 ――はずだ!

 俺は自分に言い聞かせる。ここまで考えていざ言ってみたはいいものの、動悸と冷や汗がすごい。


 七瀬がこの嘘を即座に否定でもすれば、全てが水の泡。状況は先程と同じところへと戻る上に、俺がただ嘘をついたという事実だけが残る。最悪の展開。


「七瀬さんが、相馬さんを……? な、何言ってんすか? ……う、嘘でしょ? 七瀬さん、だ、黙ってないでなんとか言ってくださいよ」


 渡が震える声で七瀬に問う。

 俺は振り返るかどうか迷って、悩んで。その上で彼女の方へとゆっくりと振り向く。


 七瀬は渡ではなく、俺の方を真っ直ぐに見ていた。暗くなったグラウンドをわずかに照らすのは、ぽつぽつと光る外灯だけ。


 彼女は唇をぎゅっと結んで、その大きな瞳でただこちらを見つめている。その表情は羞恥を、嫌悪を、いや、そんなものとはもっと別のものが混ざっているようにも見えた。


 俺にはその表情が演技なのかどうかも分からない。七瀬がこちらの意図を理解してくれているのか。嫌な気持ちをぐっと堪えているのか。それとも……。


「…………ほんと、です」


 ぽつりと、七瀬はそう漏らした。

 張り詰めた水に一粒の雫を垂らしたような、そんな声だった。


 俺の意図を、理解してくれたのだろうか。

 渡が俺の前で息を呑んだのが分かった。


「私が、せんぱいを好きだから、家に遊びに行ってただけです。でも別に、せんぱいは私のことを好きじゃないんです。優しいから、相手をしてくれてるだけで」

「そ、そんな……」


 渡は信じられない、と言わんばかりに首を振る。


「だから、嘘の噂を流されると困るんです。せんぱいは私に告白をしていないし、私たちは付き合ってもいない。ただ、わ、私がせんぱいのことを好きなだけで、他には何もないんです」


 七瀬は俺の方を向いたまま、言った。嘘だと分かっている筈なのに、まるでいつかと同じように、本当にそう思っているのではと錯覚するほどに真面目な表情で。


 そして、視線を渡の方へと向ける。


「渡さんには申し訳ないですが、あなたの気持ちには応えられないです。私には好きな人がいて、それを渡さんに口出しされる謂れもありません」


 七瀬はそっと、優しく微笑んだ。


「――もう、そういう噂とか、嘘とかはやめてください」


 渡は俯いたかと思うと、悔しそうに下唇を噛む。きっと七瀬のことが本当に好きなのだろう。ただ、少し伝え方に問題があっただけで。


 ……それなら、その気持ちをこんな形で、嘘で丸め込もうとしている俺は。俺がやっていることは、本当に七瀬のためになっているのだろうか。


 先程の言葉が渡ではなく俺に向けられたもののような気がして、喉の奥のあたりが締め付けられるような感覚になる。そんなはずは、ないのに。


「……分かりました。そういうことなら、僕はもう何も言わないし、しません」


 渡はそこで一度言葉を切ると、俺の方へ向き直る。


「ただ、相馬さんには聞きたいです。あなたはなんでこんな可愛い子がここまで言ってくれているのに、応えてあげないんですか?」


 ここでこれは嘘だから、冗談だからと言ってしまえればどれだけ楽だろうか。けれどそれは出来ない。

 適当に誤魔化すことだって方法としてはあるのだろうけれど、俺はそんなに器用じゃない。


「……俺にも、好きな人がいるから」

 

 ぴくりと、七瀬の肩が揺れた。

 躊躇った俺が吐き出すように言うと、渡はその整った顔でこちらを見据える。


「酷いことを七瀬さんにしているとは思わないんですか。そういうつもりがないなら、はっきり言ってあげるのが優しさなんじゃないですか」


 なんと返すのが正解かを考えていると、渡は苛立たしげにグラウンドの土を蹴った。

 ざあっ、と吹いた風が舞った土埃を何処か遠くへと運んでいく。


「……まあ、僕が言える立場じゃないですけど。ただ、なんて言うんですかね、そういうキープみたいなことはやめた方がいいと思いますけどね」


 何も言い返せない。なにかを言い返してしまえば、せっかく七瀬が俺の意図を汲んで嘘をついてくれた意味が無くなってしまう。


「ずるいっすね、相馬さん。…………いや、すみません。言いすぎました。とりあえず、お二人の言いたいことは分かりました」


 はあ、と息を吐いた渡の姿はもうはっきりとは見えない。すっかりグラウンドを覆ってしまった夜がそこにはあった。


「部室、閉められちゃうんで僕行きますね」


 俺の横を通り抜けていった渡は、黙ってこちらを見ていた七瀬へなにかを言い残して、遠く明かりの見える部室の方へと去っていく。


 残された俺と七瀬は、しばらく何も話をすることもなく。

 俺が無意識に落とした視線の先には、いつ買ったのかわからないくたびれた白いスニーカーがあった。


 そして、先に口を開いたのは俺ではなく、七瀬の方だった。


「――私たちの、勝ちですね!」


 勝ちかどうかは、今の俺には分からない。けれど、そんなわざとらしく元気な彼女の声に、なにか言い返してやろうと顔を上げる。

 

「俺に対していつもやってるみたいに強気でいけば、もっと話が早かったかもな?」

「それじゃ、つまらないじゃないですか」


 さらりと言ってのける七瀬。さっきまではあんなにうろたえていたくせに。俺はおそるおそる訊ねる。


「……怒って、ないのか?」

「? なにがですか?」

「いや、あんな嘘ついたし……」

「……仕方ないですよ。嘘も方便ってやつです。私もあれが一番良い方法だと思いましたから」


 七瀬は渡が去っていった部室棟の方を眺めながら答える。その表情まではこちらからは伺えない。


「絶対晩ごはんポイント加算とかされると思ったぞ」

「……せんぱいって、実は私と晩ごはん食べたいと思ってるんじゃないですか?」

「いいや思ってない」

「ですよねぇ」


 小さく笑って俺の数歩前に出る七瀬。

 はらりと、風にスカートが揺れた。

 

 なんだよ、やけに素直だな。いつもならこちらを睨みでもしてきそうなものなのに。


「でも、ちょっと安心しました。誰だか分からない人に噂を流されたりするのって、地味に嫌じゃないですか。全てが綺麗に解決したわけじゃないですけど、それでも相手を知れて、分からないことだらけじゃなくなって」

「まあ、そうだな」


 渡がこれから何もしないかというと確信は持てないけれど、釘は刺せた。七瀬のことが好きならば、彼女に危害を加えることはまずないだろう。


 と、その時。

 ぼんやりと眺めていた部室棟の方から、誰かがこちらに向かってくるのが視界に映る。


 渡だろうか。いや、あの少し特徴的な走り方には見覚えがある。青ちゃんだ。


 七瀬もそれに気づいたのか、そちらを見たままつぶやく。


「ねえ、せんぱい。もし、もしですけど」


 段々と、青ちゃんの姿が近づいてくる。

 続く言葉は七瀬の口からは出てこない。


「もし、なんだよ」


 思わずこちらから訊いてしまう。きっと青ちゃんがここに来れば、この会話は終わりになるだろう。


 部室棟の明かりが夜の闇の中できらきらと輝いて、それを背景にした七瀬の姿は暗く黒に染まっている。

 

「もし嘘が、嘘じゃなかったら。その時は、どうなるんでしょう?」


 その言葉の意味を俺が理解するよりも先に、七瀬はもう一度口を開く。


「――それでもせんぱいは、晩ごはんを作りすぎちゃって。私と一緒に晩ごはんを、食べてくれるのかな」


 俺を呼ぶ声が。青ちゃんの声が、すぐそこで聞こえた。

 


 

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