第20話 BGP

「お待たせしました相馬先輩。そろそろ帰りましょうか」


 あれから一時間ほど経っただろうか。

 そんな声が千歳からかかり、文庫本を閉じて鞄にしまうと、すっかり冷え切ったコーヒーを飲み干す。……うん、コーヒーはやっぱり熱いうちに限る。


 見ると、つやつやと満足げな千歳とは対照的にげっそりとした七瀬。一体何があったんだろうかと思うけれど、聞かないでおく。自分のためにも。


 七瀬が言っていたようにこれから二人にどうのこうのと追及でもされるのかと思えば、三人で普通に会計を済まして退店。


 しかもちゃんと自らの分は自らで払うと言うなんて、なんていい後輩たちだろうかと逆に見栄を張って全て払った自分を褒めたい。

 ……あれ? 今思うと俺、はめられたんじゃないよね? そうだよね?


 店の外に出ると、日が長くなってきていることもあってか淡い藍色の世界が広がっていた。


 外に出るなり、気持ちよさそうに伸びをした千歳は。


「じゃあ、私は先に帰るんで。先輩はちゃんとナナちゃん送って帰ってくださいね」

「ナナちゃん……?」


 俺は横に立つ七瀬に視線を向ける。

 いちいちこちらを見るな、と言わんばかりに不満そうな顔をする七瀬。


「別に、千歳も帰る方向同じだろ? かわいい後輩が襲われたらどうするんですかとか言ってたのにいいのかよ」

「あ、そういうのはいいんで。一緒に歩いてるの、人に見られても色々と困りますし」

「……そうかよ」


 まあそういうものか、と思って返事をする。


「……へへ、ナナちゃん頑張ってね」

「ち、ちょっと! そういうんじゃないって私は……」


 意味ありげにひそひそと言った千歳に七瀬は慌てて言い返す。ゆるゆるとこちらを見上げた七瀬と目が合う。


「……なんだよ」

「か、勘違いしないでくださいっ!」

「な、何も言ってないだろ!?」

「うわー、相馬先輩やらしーい」


 なにがだよ。

 七瀬からは嫌悪の、千歳からは揶揄うような視線が飛ぶ。なんだか、今日は七瀬に余計な仲間を増やしてしまった気がしてならない。


「はあ面白かった。さて、私はこれで失礼します。先輩もまあ、なんだかんだありがとうございました。ナナちゃん、また明日ね」


 小さく頷いた七瀬の横で、俺も手をあげて応える。頭を下げてから駆けていった千歳の後ろ姿が見えなくなったところで、七瀬からため息が漏れた。


「つ、つかれました……」

「よかったな、仲良くなれたみたいで」


 七瀬から返事はなかったけれど、ぶつぶつ言っている割には嬉しそうな顔をしているように俺には見えた。


 彼女はまた何も言わずに歩き始める。俺もその後をゆっくりと、少し距離を空けて進んでいく。


 見慣れない景色。街頭の明かりが何度か揺れてから灯り、それはまるで夜へのスイッチが入るような合図に思えた。

 目の前で七瀬の大きめの黒のデイバックと、ゆるくカールした髪の毛が一歩進むたびに揺れる。


 俺たちは特に何も話すことなく学校の側を通り過ぎ、いつもの帰り道へと入ったところで、ふと思い出す。


「――そういえば。BPG、だったか? さっき言ってたあれ、なんなんだよ」


 前を進む七瀬に声をかけると、ぴた、と彼女の足が止まる。俺も少し遅れて足を止める。


「……後ろ、歩くのやめてもらっていいですか? いつ襲われるかと不安です」

「ど、どうしろってんだよ……」

「前、歩いてください」

「…………」


 俺は言われるがままに大人しく前を進んでいく。信用ないよなあ、俺。途中気になって振り返ると、数歩後ろを七瀬がついてきている。


「……振り返らないでもらえますか?」

「はいはい」


 少しだけ七瀬の気持ちが分かった気がした。これ、後ろに人がいると無性に気になるな。ちゃんとついて来てるんだろうか? ってなる。


「――BPGじゃなくて、BGPです」


 ぽつりと、七瀬が漏らす。

 あー、それそれ。と振り返ろうとすると。


「振り返らないでくださいって」

「……へいへい」


 大人しく応える。いちいち立ち止まっていたのでは、いつまで経っても家に着かないからな。


「で、そのBGPってのは?」


 何かの略だろうと考えてみたが、心当たりがない。検索しても横文字の難しそうなものが出てくるだけだった。まあ、ろくなものではないのだろうが……。


「晩ごはんポイントです」


 七瀬が当然のように、言った。


 ……ばんごはんぽいんと?


 俺は藍色に薄いグレーを溢したような空を見ながら、その言葉を頭の中で反芻する。

 反芻して、俺は振り返る。悪戯っぽくこちらを見る七瀬がそこには立っていた。


「待て。晩ごはん、ポイントだと……?」

「今日1ポイント貯まりました」


 七瀬は背中のデイバックをぱむぱむたたく。

 きっとあの青い手帳に書いた内容のことだろう。特にあの後追及も無かったのでおかしいとは思っていたが、な、なんて邪悪なものを発明しやがるんだこの後輩は。


「き、聞いてないぞ。いつ出来たそんなもの」

「この週末にちょっと」

「そんな手軽な感じで……? その晩ごはんポイントとやら、た、貯まるとどうなるんだ」

「そんなの決まってるじゃないですか」


 七瀬はなにを当たり前のことをと言わんばかりに肩をすくめる。そして、少しだけ間を置いて無邪気に笑う。


「――せんぱいが、晩ごはんを作りすぎちゃいます」


 どうやらこいつはついに、弱みを握ることを超えて自ら晩ごはんを手に入れる方法を確立しようとしているらしい。


「な、なんてものをおまえは。待て、大体今日はなんでポイントが貯まった? 基準はなんだ」


 七瀬は顎に指を当てて。


「私の大切な葵ちゃんのことが好きなのに、他の女の子にデレデレしたからです。あとはそうですね、私もなんかイライラしました」


 笑顔で言うな。怖いから。

 しかもポイントの基準、めちゃくちゃ雑だなあ……。七瀬の個人的な感情入ってるし。


「別にデレデレなんてしてないぞ? あれはだな」

「聞きましたよちーちゃ……こほん。千歳さんから理由は」


 誤魔化すように咳払いをする七瀬。ほんとに仲良くなってやがる……。しかし、理由を聞いたのなら話は早い。


「そ、それならポイントは免除のはずだ!」

「いやらしい目で見られたとつらそうに話してました」


 よし、いつかあいつ泣かす。覚えてろ千歳。

 俺は心の中で決意する。


「ということで今日このあと、1ポイントが消化されます」

「た、貯まったポイントは1ポイントから使えるのか!?」


 なんてお得な……いや、なにかの間違いだろうと俺は叫ぶ。


「昨今の還元率の低いポイントとは一線を画した画期的なポイント制度です」

「しわ寄せが行く人がいることを覚えていて欲しいよね、お前には」


 嘘だろ? 今から晩ごはんを食わせろと? 

 ああ、なんか具材残ってたかなあ……。なんて思いながら俺は歩き出す。


「……せめてもう少し可愛らしくお願いして欲しいもんだよな」


 俺が冗談ぽくぼやくと、不満そうに頬をふくらませた七瀬は。


「――せ、せんぱい。今日、晩ご……」

「…………?」


 なにかを言いかけた七瀬の方を見る。彼女は俺の方ではなく、俺たちの歩いてきた道を振り返っていた。俺もそちらへ目を向ける。普通の、いつもと変わらない夜を迎える街並み。


「七瀬? どうかしたか?」


 訊ねると、七瀬ははっとしたようにこちらを見て答える。


「な、なんでもないです」

「なら早く行くぞ。……いいか? 今日は特別だからな? その理不尽極まりないポイントを俺は認めたわけじゃないからな?」


 それだけ言い返した俺はまた歩き出す。

 七瀬はととっ、と俺の横に並ぶと、わざとらしくこちらを見上げて。


「素直じゃないですね、せんぱい」


 まったく。

 そんな笑顔で見られたら、少しはまともな晩ごはんを作ってやらないといけない気になるからやめてくれ。







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