第二章
第15話 千歳憂
五月も最終週を迎え、梅雨のニュースなんかが報じられ始めた週明けの月曜日。
ああ、俺は完全に忘れていたさ。
潮凪さんと七瀬とごはんを食べて、色々あったがなんだか幸せな気持ちで終えた先週金曜日。
土日もぽかぽかした陽気で、本屋でいい本も見つかった上に、やけに家事も捗って言うことのない日々を過ごした俺は。
「おい、あれが?」
「らしい」
――あの噂のことを完全に忘れていた。
早めに登校してきた俺を迎えたのは、相馬遼太郎という人間を見定めるような視線だった。
七瀬のやつが流した噂、おそらくそのせいで俺は今『あれが?』などと呼ばれているわけだ。
俺は今土曜日に手に入れた文庫本を広げているが、意識はそこへ向いていない。
「あんな冴えないやつがまじかよ」
「いや、でも目つきは結構鋭くね?」
鋭くね? じゃねえわ。
……いいか? 俺くらいになると廊下から俺の席くらいの距離であれば自分のことを言われていれば大体気づく。それがあれくらいわざとらしいなら尚更だ。
しかし分からないことがある。
俺が知っている限りでは、一年生の間に流れている噂は『なんか二年生の相馬とかいう奴が七瀬小春にめちゃくちゃ熱い告白をしたらしい』というものだったはず。
言ってしまえばそんなもの、成功でもしなければただ冴えない男が告白したというそれだけのこと。てか、してない。
にも関わらず、まだ入学して一ヶ月しか経っていない一年生がこの階にわざわざ来るだろうか? ひとつとはいえ、上の学年の階に来るのにはかなり抵抗があるはずなのに、だ。
何かがおかしい。
確かに七瀬小春はそこそこモテるのだろう。けれど、それは潮凪さんだって同じこと。その潮凪さんに告白したやつがいたからといって、わざわざそいつを見に行ったりはしない。
ならば、どんな時なら見にいく?
俺がもし、見にいくとするならば……。
「相馬ぁ。呼ばれてるぞ」
声の方を振り返ると、クラスメイトの……
……しかし、もう声をかけてくるとは。今日はせいぜいからかい程度の様子見だろうと思っていたが、思った以上にあちらさんは本気らしい。
どういうつもりだろうか。七瀬小春を諦めろ、とでも言われるのか? 諦めるも何も、そもそも始まってもいないのだと言いたい。
俺は軽く手を挙げてそれに応えると、ゆっくりと立ち上がりそちらへと向かう。足取りは堂々としているつもりだが、内心はドキドキでたまらない。
……やべえやっぱ一年生でも怖えわ。どうしよう校舎裏に呼び出されてボコボコにでもされたら。そもそも面識のない奴らに呼び出される事そのものがすでに恐怖。
時計は八時過ぎを示している。頼むからホームルーム始まる前に手早く終わらせてくれよ、なんて願う。
柳くんに礼を言って俺は開きっぱなしのドアを抜け、すぐそばに立っていた先程の一年生の奴らに向き直る。人数は三人で、百七十センチちょいの俺と背丈はほとんど変わらない。
足が震えないようにするので精一杯だが、向こうも俺の威圧感を前にしてか、少したじろぐ。
「で、なんの用だ」
訊ねると、彼らは動揺したように顔を見合わせる。ふん、どうやら俺の鋭い眼光と先輩の威厳に圧されているらしいな。
「いや、俺たちは……」
「――せーんぱい。どこ見てるんですか?」
背後から甘ったるい溶けた砂糖菓子のような声が響く。知らない声だ。思わず振り返る。
そこにはやはり、見覚えのない女の子が立っていた。
……誰だ?
艶のある黒髪のショートボブに、意志の強そうな瞳。色が白いせいか、目尻の泣きぼくろがやけに目立つ。
そして背丈は七瀬と同じくらい小さめにも関わらず、やけに立派な……な、なんて立派な……いや、何がとは言わないが。その襟元には赤の校章。また一年生だ。
彼女はにこりと微笑んで、わざとらしく首を傾げる。なぜか、俺もあわせて首を傾げてしまう。
「…………え? 君?」
「私以外いませんよね?」
顔には笑みが浮かんでいて、甘えるような声なのに。やけに威圧感を感じるその声音。
なんだ? 考えてみても、俺がこの子に呼び出される理由が分からない。
「ええと。どこかで会ったことあったっけ?」
「それは内緒、です。……相馬遼太郎、先輩で合ってますよね?」
「合ってる……けど」
「良かったです。はい、これっ」
彼女は俺に向け、両手で何かを差し出す。
……小さな紙。いや、手紙?
俺は目の前の彼女の顔を見る。その意思の強そうな瞳は真っ直ぐに俺を見据えていた。
おずおずとその手紙を受け取る。
なんなんだ? ドッキリか? ……そうか。さては反省した七瀬が友達を使ってネタバラシ、というやつだな?
俺は隠れているのであろう七瀬を探そうと辺りを見渡す。すると、ひゅう、と口笛の音がして、先程の一年生がニヤニヤとしながら俺の横を駆けていった。
「ラブレター、です♡」
「は?」
その女の子は後ろで手を組み、俺を見上げるようにしてはにかんだ。
「ぜったい、読んでくださいね?」
それだけ言って、彼女はくるりと俺に背を向ける。まだ真新しい紺のスカートと、毛先がふわんと揺れた。
「ち、ちょっと待て。君、名前は? てか何言って……」
「あー、忘れてました」
ずいっ、と彼女は俺にその整った顔を寄せ。
撫でるような声でつぶやいた。
「――
やっぱり俺は、彼女のことを知らない。
その言葉と甘ったるいラムネみたいな香りを残して、千歳は去っていく。
去っていく彼女と入れ替わるようにして、そのすぐ後ろに立っていた女の子と目が合った。
思わず息を呑む。う、嘘……だろ?
「あ……お、おはよう。相馬くん」
頬をわずかに朱に染めた潮凪さんは。俺からゆっくりと、ゆっくりと目を逸らしつつ、そう言った。
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