第4話 なにわトップ劇場の楽屋


 数日後の六月に入って四回目の土曜日の午後。

なんとなく五十嵐に会いたくなった春馬は、雄大と公園で待ち合わせて〈ヘアーーサロン五十嵐〉へ。扉が開いていたので入ると、鏡の前で五十嵐が髪をセットしていた。

「こんにちは」「元気やった?」と口々に、鏡の中の五十嵐に挨拶をする。

「あれ? もしや、今日は春馬くんが髪を切りに――ってなわけないよね」

 春馬は思わず二、三歩あとずさる。

「あの、また、漫才の話を聞かせてほしくて」

「あー残念、今から出かけるところ。でも嬉しいな、春馬くんがお笑い好きだってこと」

 クルクルと縮こまった髪の毛に手際よくドライヤーを当てている五十嵐は、この間の雨宿りの日の沈んでいた夕方とは違って、身体全体がリズミカルに弾んでいるようだ。

「なんかいいことあったん、イガラシさん」

「そんなにオシャレしてるってのは、もしかして彼女とデート?」

「ざんねーん、彼女は募集中」

 春馬たちの好奇心いっぱいのひやかしに五十嵐は、ますます機嫌よくしゃべり続ける。

「実はこれから劇場へ行って、漫才を見なきゃならないんだ」

「劇場って、どこの?」

「難波の〈なにわトップ劇場〉。ずーっと前に頼まれて書いた台本、今日の舞台にかけてみるって連絡が夕べ遅くにあってね」

「あ、いいな。オレも連れてってよ」

「別に客席で見るわけじゃない。楽屋へ挨拶に寄ってから、舞台の袖で見るだけだよ」

「それでもいい。〈なにわトップ劇場〉って、よくテレビ中継してるところやし、一回ほんものの寄席、見たいもん」

「ボクも行きたい。ケータリングって楽屋にあるんでしょ」

「まあ、あることはある。けど芸人さんやタレントさんの中には、静かに休憩しているところ、見られたくない人もいるし」

「ぜったい大人しくしてるから。お願い」

「ボクも約束守る」

「じゃ寄席の支配人さんに聞いてみる。ちょっと待ってて」

スマホを手に外へ出た五十嵐は、しばらくするとスモークガラス越しにOKサイン。

 春馬と雄大は手をとりあってジャンプした。


 大阪の難波にある〈なにわトップ劇場〉は、二五〇席ある老舗の劇場だ。ここでは昼夜二回公演が行われ、入場料二五〇〇円で漫才、落語、漫談、マジック、その他さまざまなショーが楽しめる。春馬たちの住む空堀の町から劇場までは徒歩十五、六分だ。

〈ヘヤーサロン五十嵐〉を出て大通りに向かった三人は、繁華街を数分歩いて劇場裏の細い道に入った。その奥の表札のない灰色扉のノブに五十嵐は手をかける。

「劇場の入り口、あっちにあったのに」

「あそこはお客さんが入場するところ。僕たち関係者や出演者はこの裏口から入る」

「分かりにくいとこやなあ。看板出しといたらええのに」

「あえて分かりにくくしてある。ここら辺り繁華街で人通りも多いから『楽屋入り口』って書いたりすると、ファンがいっぱい集まって、周りに迷惑かけちゃうんだ」

「そうなんか」

「だからこの扉は、一般の人は入れないようにした特別な入り口」

そう言って五十嵐はノブを回して中に入った。春馬たちもカルガモ親子のように一列になって続く。すぐ右手の受付をかねた警備室に、制服を着た年配の警備のおじさんが立っていた。

「おはようございまーす」

 五十嵐の挨拶に、おじさんも同じ言葉を返して頭をさげた。今の五十嵐はとっても頼もしくてかっこいい。受付の用紙に三人の名前を書きこんでいる五十嵐がそばで、かしこまって待つ二人に、おじさんが笑いかけた。

「もしや、君たちは未来の漫才コンビかい?」

首をかしげる春馬と大きく首を振る雄大。

代わって五十嵐が「なきにしもあらず――です」

笑いながら答え、おじさんから三人分の入館証を受け取る。

春馬たちも五十嵐を真似て、首に入館諸証をかけて中に進んだ。


「一階は舞台と客席、三階は音を出す音響さんや舞台にライトをあてる照明さんが仕事するところ。この二階が芸人さんたちの休む楽屋になっている」

こう言って五十嵐が階段をあがってすぐの扉をあけたとたん、「いけいけっ!」と叫ぶ声がした。中は小さなロビー風で、大型テレビを中心にオレンジ色のソファーが三つ扇形に置いてある。そこにパンイチ、ジャージ、作務衣スタイルの三人のおじさんが座っていて、テレビの競馬中継に熱中していた。

 ちょうど一つのレースが終わったタイミングで五十嵐は、一歩おじさんたちの前に進み出て丁寧におじぎをしながら「おはようございまーす」と大きな声で挨拶。春馬と雄大も「おはようございます」と言ってみる。

三人のおじさんたちはチラっとこっちを見て口ぐちに「はい、おはようさん」と言い、すぐテレビ画面に視線をもどした。

そこへ「失礼します」と急ぎ足で入ってきた上下ともに黒の服を来たお兄さんが、三人のおじさんたちの前に気をつけの姿勢で立って、

――開演五分押しです。前の席に熊本からの中学の修学旅行生五〇名が座っております。よろしくおねがいしまーす。と告げまた急ぎ足で出て行った。

 キョトンと見送っている春馬たちに、五十嵐が小声で教えてくれた。

「いまの人、進行さんといって作家や芸人見習いの子たち。劇場の雑用を手伝いながら、この世界について勉強しているんだ」

「『五分押し』ってのは……?」

 春馬が、角力の突っ張りポーズをとって聞く。

「『押し』は時間が遅れること。出し物によっては女性トイレが混む場合があって、その人たちが席に戻る時間を計算して、開演時間を少しずらしたりするんだ」

「ということは、今は五分遅れてるってことかぁ」

春馬はつぶやき雄大とうなずきあっていると、テレビの画面にさっきのレースの払戻し金額が出た。

「あー、ざんねん。思ったほど配当つかんな」

「トータルで負けや」

「これでは、飲みにも行かれへん」

思い思いを口にして笑い合っているおじさんたちの後ろを、五十嵐について春馬たちも足音忍ばせ移動していると、パンイチが身体を起こして振り返り春馬たち一行を見た。

「おー、五十嵐やないか、久しぶりやな。その二人、おまえの子どもか?」

「まさか。近所の子です」

苦笑しながら答えたた五十嵐は、あわてたように付け足した。

「支配人の許可をいただいて、ちょっと劇場見学に連れてきました」

「ほおー、ということは弟子にする気やな」

作務衣の人がいたずらっぽく笑う。

「とんでもないです。楽屋とケータリングというのが、どんなものか分からないと言うので実際に見せてやろうと――」

すると、パンイチ男はニコっとしながら立ち上がり、

「ほんなら、君らちょっとこっち来てみぃ。これがケータリングや」

テーブルにあった籠の中身を見せてくれた。春馬が一つずつ指差して、

「一口チョコにクッキー、のど飴。わかった! おやつのことですか」とパンイチおっちゃんの顔を見る。

「ははは、簡単に言うたら、そうなるな」

「のど飴の方が、数が多いみたい」と雄大は、目で数えながらつぶやく。

「そうやで。おっちゃんらは喋るのが仕事やから、よう舐めて喉を大事にしとかんとな」

おっちゃんは、のど飴をひと粒口に入れてから、

「ほれ、味見してみるか」

春馬たちにも一つずつくれた。それから、パンイチおっちゃんが先に立って歩き、

「君ら、ちょっとこっち来てみぃ。ここが楽屋や」

奥の方の四つ並んだ部屋の一つの扉を開けた。中は畳四枚分ほどのスペースで、化粧台が二つある。

「おっちゃんらはここで着替えをし、化粧して舞台に出ていくんや」

「ふーん。ボクの部屋よりうーんとせまいんだ」

雄大は首をのばしてキョロキョロ中を見まわす。

「おまえ、ええ所に住んでるんやな。おっちゃんの自分の部屋は、これよりまだひとまわりも小さいねんぞ。ハハハ」

パンイチおっちゃんは、雄大の肩をポンとたたく。すると作務衣のおっちゃんが、

「なにミエはっとるねん! ひとまわりちゃうやろ。その半分やないか!」とつっこみ、「いや半分ちゃう、四分の一や!」とジャージのおっちゃんも参戦。

「四分の一とちゃう。八分の一やで」

「いや一六分の一や」

二人の終わりのないやりとりに、

「もうええわ!」

パンイチがストップをかけてから、ひとこと。

「じつは、おれ、部屋ないねん」

その瞬間ロビーは、春馬たちのも含めて笑い声であふれた。その遊び心に、

(芸人さんって、なんてかっこええねん)

感動した春馬は、思わず五十嵐にねだった。

「スマホ持ってるでしょ、いっしょに写真撮ってよ」

「だめだめ、春馬くん。今はプライベートだから」

あわてて首を横に振る五十嵐。しかし作務衣のおっちゃんが、「かまへんで」とみんなを集めて撮影に応じてくれた。

「やったー、宝物になった。ありがとうございます!」

春馬は雄大と顔を寄せ合って、今撮ってもらったばかりの写真に見入る。

 テレビの競馬中継は次のレースが始まろうとしていた。五十嵐はおじさんたちに、

「本当にありがとうございました」

深ぶかと頭を下げたあと、春馬たちをうながして一階の舞台へ向かった。

「イガラシさん、その写真、頂戴ね」

「わかった。けど、びっくりしたよ。写真なんて僕ぜったいに頼めないし、普通は撮らしてくれないよ」

五十嵐はあきれている反面、春馬の度胸の良さをうらやましがっているようだ。

「それにしても君ら、今の人たちの名前わかってるの?」

「テレビでよう見るのに、えーと、ギターを弾きながら『あるある』ネタを言う三人組の人らやと思うねんけど」

もどかしそうに雄大を見るが、雄大が知るはずもなく、五十嵐が教えてくれた。

「あっ、そうやった! 音曲トリオの『エレキーズ』やった!」

目を輝かせて喜ぶ春馬に五十嵐も、

「僕が楽屋へ出入りし始めたころ、何回かお目にかかったけど、まさか名前を覚えてくれていたとは……」と嬉しそうだ。

「よーし、明日、一平に『エレキーズ』としゃべって、いっしょに写真撮ったこと自慢しよう。あいつたしか『エレキーズ』好きやって言うてたから。うらやましがるぞ」

いつも一平から得意げに情報をきかされている春馬は、大はしゃぎだ。

 階段を降りて一階の扉をあけてお客様用のロビーに出たとき、

――まもなく開演いたします。ロビーにいらっしゃるお客様は、席にお戻りください。

というアナウンスが流れていた。

すると五十嵐が、学校の先生のような口調で告げた。

「それでは、いまから生で漫才見たい人、手を挙げてくださーい」

「はい」「はーい!」

「よし、今日は特別やぞ」

 五十嵐が、客席へつながる真っ赤な両開きの扉を開けた向こうは、水色の座席が広がり、開演を待つ人たちでにぎわっている。五十嵐は二人を後ろの席に案内したあと、小声で言った。

「もうすぐ二回目の公演が始まる。君たちはここで見てるといいよ」

「オレ、お金持ってきてないけど……」

「ボクも」

「大丈夫。支配人さんが君たちに『漫才楽しんでください』って特別に用意してくれた席だ。僕はちょっと打ち合わせしてくる。終わった迎えに来るからここで待ってて。さ、始まるよ」

 五十嵐の言葉に合わせたように、照明が暗くなってゆっくりと幕があがる。五十嵐は三人が入ってきたドアから出て行き、舞台には軽快な音楽に乗って、若い漫才コンビが走り出てきた。

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