第14話
優人、と、確かに片ノ瀬は呼んだ。
あまりの動揺に電流が走る。ぐずぐずに骨の抜けていた体に芯が通る。
腕を振り払い、弾かれたように飛び起きた。
「なんで、なんでお前がその名前、知ってんだ、」
「え……、…あ、の、」
酔いも欲望もまだ残る灼熱の眼差しが、狼狽しながらウラを…優人を見ていた。
お互いの痛いほど熟れた股ぐらは虚しく自己主張をしたままだ。肘をついて上体を起こした片ノ瀬が、優人を求めて手を伸ばした。その手を叩き落とす。「ゆう、と…」と、物悲しそうに指先が、瞳が震えた。
片ノ瀬の言う通り、ウラには優人という名前がある。
けれどそれはオモテの叶が産まれるもっと前、記憶ではその六年前、母の中で授かった名だ。母の腹の中で、優人、優人、と呼ばれていた。早く会いたいわ、聞こえてるかしら、優人、優人、と。けれど優人がこの世に産まれる事は叶わなかった。
しかし、優人はその記憶を持って叶と一緒に産まれたのだ。産まれたかった、母に抱かれたかった、という悲願は六年越しに叶によって叶ったのだ。
だのに何故、目の前のこの男がその名を呼ぶのかが全く理解出来なかった。
「どういう事だ。説明しろ、ちゃんと」
体という大きな風船の中で渦巻きとぐろを巻いていた熱の奔流は、さめざめとする意識と共に言葉になって口から抜けてゆく。
つい今しがたまで劣情の熱に浮き、もうもうとした意識の中にいたとは思えないくらい頭が冴えていた。
そうして冷静さをもって片ノ瀬を睨む。やらかした、と独りごちたかと思ったら、ぐしゃぐしゃに髪を掻いた。
「……飲みすぎました。すみません、何でもないので忘れて下さい、…なんて、だめですか。」
弱々しい声だった。
「まかり通ると思うか。」
「ですよね。…はぁ…本当に俺は…、ごめん、叶くん。」
片ノ瀬は立ち上がる。とりあえず座りませんか、と、慣れた様子でキッチンに向かって歩いていったと思ったら、シンク上の棚の一番上の更に奥に手を伸ばす。そこから出されたのは小さな一冊の本のようなものだった。
なんの違和感もなくローテーブルに向かい合って座る。
どうぞ、と、これまた慣れた手つきでノンシュガーのコーヒーを出される。優人の嗜好はなしなしのブラックで、叶の嗜好はアリアリの甘々だ。
と言っても優人の嗜好はあくまでも叶の感じた味を感じて、甘さもまろやかさも不要だと判断していただけの事、の、筈だ。
優人の届かない棚に隠された小さな本。優人の嗜好を知っている片ノ瀬。謎が更に謎を呼んで深まってゆく。
眉間に皺を寄せて唸ったら、片ノ瀬が不意に頭を下げた。
「ウラさん。…ううん、優人。騙して、ごめん。これを見てほしい。」
出されたのは先程の本のようなものだった。
開いてみるとそれはアルバムで、そこには自分の記憶に無い光景が残されていた。
一枚目の写真に写る人物を、一人ずつ指先でなぞる。祖母と、叶と、片ノ瀬と、もう一人、学生服を着た人物。これは…。
「それが叶だよ、優人。きみは、こっちだ。」
指さされたのは、優人が叶だと思った人物。片ノ瀬が叶だと言ったのは、学生服の男の方だった。
写真の中の叶改め、片ノ瀬曰く優人であるその人物は、驚くことに片ノ瀬とさながら恋人のように指先を絡めて写真に写っている。
両側にいる祖母と叶らしい人物がそれを笑いながら覗き込んでいる写真だった。
「言ってる意味がわかんねえ、なんで俺が……っ、!」
唐突に鈍器で殴られたような衝撃が頭に走る。実際殴られているわけではない、内側からまるで警鐘のようにガンガンと脳を殴られているようだ。
余りの激痛に、頭を抱えて呻く。優人、と片ノ瀬が慌てて横に回り込んできて、あの熱を齎した力強い腕で優人の体を抱き締めた。
「やっぱり駄目だ、いいんだ優人、考えなくていい。いくらでも責めてくれていいから、この話はもうやめよう。」
絞り出すような声で片ノ瀬は言う。
気がおかしくなりそうな頭痛の中、優人は首を振る。すごく、とても大切な事を忘れている気がした。
「叶は… 、叶は、死んだのか。婆さんも」
どうにか発した問い。
片ノ瀬が息を呑んだのがわかった。
つづく。
オモテ まくらくまる @pandanap
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