第35話 幕引き

 黒い脂は、みるみる洋館の方へ逆行していった。一階部分があっという間に脂で埋まり、少年が目をしばたく。


「一体、何が……うっ」


 訝しんでいた少年が前屈みになる。彼は口元を押さえ、苦しげにうめいた。


「作用が強力な分、呪い返しの害もすぐ出るな。良い勉強になった」


 常暁がからかう。少年はそれに反論しようとしたが、大量の血を吐いただけで終わった。


「祀り方はさんざん調べただろうに、『歓喜天』の気難しさについては理解が足りなかったな。驕りというのは、まことに恐ろしい」


 常暁は皮肉っぽく言った。


 歓喜天は、自分を正しく信仰するものには格別の守護を与える。しかし、一度でも己に背いた者──例えば、授かっただけの力を己のものだと勘違いするような者──には、容赦なく牙をむく。


「待っていたよ。お前が気持ちよく語って、自滅してくれるのを」


 歓喜天は強い。一対一で勝負を挑むのは、あまりにも危険だった。だからわざと対抗策をとらず、敗者としてふるまってみせたのである。受けた呪いはきつかったが、その甲斐はあった。


「何が革命だ。人の弱みにつけこんで遊んでいただけのクズじゃないか」


 常暁は怒っていた。


 常暁は、孤児だった。早く宗主に拾われ、幼少期から呪法を学んでいたため、同世代の誰よりも伸びた。……当然のこと、周りから攻撃を受ける。正面切って言われるのはまだ良い方で、多くは陰湿な呪いだった。


 そのことごとくを暴いた。しかし、それでも悩みは消えない。何故か攻撃を仕掛けた側が、「俺たちの方が被害者だ」と開き直っていたからだ。


 なぜ、自ら攻撃を仕掛けたくせに被害者ぶるのか。その理由を問うと、彼らは己が弱者だからと言う。強者である常暁は、弱者である我々の怒りを甘んじて受け入れなければならないと言う。


 常暁はそれを聞いて──そいつらの鼻筋を残らずへし折った。


「弱者という立ち位置であれば、何をしてもいいと思っているのか。甘ったれるな、性根が腐ったただのクズが。お前にもお前の立場にも、なんの価値もないことを思い知れ」


 だがもはや少年に、その罵声に答える余裕はない。


「ぐあ……おお……」


 テラスの上では、少年の首が百八十度ねじ曲げられ、反対をむいていた。


 いや、首だけではない。彼の骨という骨が嫌なきしみ音をたてて、本来あるはずのない場所へ移動していく。常人なら痛みで気を失うだろうが、少年はうめき続けていた。──これは「罰」だから当然か。


 ついに少年の首が完全に回り、元の位置に帰ってきた。彼の両目から血液が噴き出す。それが止まる頃には、瞳は白く濁り絶命しているのが見て取れた。


 少年の亡骸が手すりを飛び越えた。それが地面に激突する前に、白い蓮が伸び上がってまとわりつく。花弁が舌のようにうごめき、少年のありとあらゆる部位を食い尽くした。


 最後に黒い脂が大きく波打ち、蓮を飲みこんだ。そして大きな球体を作り……唐突にはじける。


 常暁はとっさに、袖で自分の顔をかばう。再び洋館を見つめた時には、そこにはもう呪いの影は残っていなかった。


「……終わったか」


 常暁は袈裟を整える。腰まで脂に浸かっていたのが嘘のように、布はすっかり乾いていた。


「……死体さえ消えるとは、予想外だな」


 どう報告しようか、と常暁は頭を悩ませた。もはや正式な方法で少年を裁くことはできない。下手に聖天の存在を匂わせると、関係者に罰が及ぶ可能性もあった。


 放置が一番だ。結局全ては小木のせい、ということになって、うやむやに終わるのだろう。常暁はため息をつき、寺に背を向けた。


 ふと殺気を感じて振り返る。寺院の背後にそびえる、高い崖が目に入った。


 切り立った岩肌。その中腹に窪みがあり、石仏が鎮座している。そこだけが何故か、ぼんやりと赤く光っていた。本来柔和な笑みを浮かべているはずの彫像が、意地悪く口元をつり上げたのが見えた。


 常暁はすぐに視線を外し、足を速める。他に起き出してきた者はいない。闇が、追いついてこないうちにここから離れたかった。





 月日は流れる。たとえ、満足のいく答えが得られなかったとしても。


 結局、小木が頼りにした「黒幕」は誰だったのだろう。常暁からも黒江からも、詳しい説明はなかった。


「私も聞いてないわ。あの二人が黙っているのなら、追求しない方がいいのかもね」


 さすがの三代川も、追求を諦めた様子だ。たまに彼女とはスーパーで会うが、割り切った表情でカートにカップ麺を山積みにしている。


 常暁が山に帰ったので、灯は一般人に戻った。毎日電車に揺られて、会社に通う。つまらないけれど、当たり前なことだった。副収入がなくなって、灯の貯金も一旦頭打ちになっている。


 しかし、良いこともあった。たまたま入ってきた新入社員が、今の部下と比べれば遥かに真面目で良い子だった。そのうちめざとい部署に取られてしまうだろうが、とりあえず安心できる。


「鎌上さん、お弁当ですか? ……その、おせちみたいな三段重」

「うん。久しぶりに頑張って作ったんだ。一段目がご飯で二段目がおかず、三段目はデザートだよ」

「……コーヒー飲みますか? 新しいコンビニに行くので、よかったら買ってきますよ」


 今日も、率先してこんな嬉しいことを言ってくれる。灯は笑ってうなずいた。


「じゃ、頼むよ」


 灯から小銭を受け取った新入社員は、先輩と一緒に笑いながら部屋を出て行く。初々しい雰囲気に、灯は癒やされた。


「俺も、あんな時期があったのかなあ……」


 急に老けたような気がして、灯はさびしく箸を持ち上げる。弁当を半分ほど食べた頃、香ばしい匂いが漂ってきた。


「戻りました。鎌上先輩、ミルクと砂糖は?」

「どっちももらうよ。新しいコンビニ、どんな感じだった?」

「先輩先輩、コンビニの内装なんてどこも一緒っすよ。新人ちゃん困らせないの」

「お前……」


 机から落ちそうで落ちない絶妙な体勢で眠っていた後輩が、いつの間にか目を覚ましている。そして言うことが可愛くない。


 後輩をにらむ灯を見て、新入社員が苦笑した。


「そうですねー、中は普通でしたけど……あ、でも大きなクラシックカーが駐車場にありました。高そうだったなあ」

「……それ、もうちょっと詳しく教えてもらえる?」


 灯ははやる心をおさえ、情報を聞き出す。話が進めば進むほど、知人の車にそっくりだ。


「先輩、なんすか。しつこい男は嫌われますよ」

「……聞くが。お前がなんで俺のコーヒー飲んでるんだよ」

「寝起きには飲みたくなるもんじゃないすか」

「そもそも寝起きなのがおかしいと思え」


 後輩は無言で顔をそらした。今日という今日は許せん──と灯が拳を握った瞬間、内線が鳴る。


「鎌上さん、受付に袈裟姿のお客様が……」


 灯はため息をついて顎をなでる。聞かなくても、常暁の顔が脳裏に浮かんだ。また変な事件に巻き込まれたのだろうか。……できれば今度は、人が死んでいないことを願うばかりだ。


「行ってくる」

「ごゆっくりどうぞお。コーヒーは俺が飲んでおきますう」


 今度は忘れないように、このダメ後輩を呪う方法を聞き出そう。そう心に決めて、灯はゆっくり一歩を踏み出した。





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捜査一課に呪いを添えて 刀綱一實 @sitina77

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