第34話 八つ当たりの末路
「お前はなんと答えた」
「僕を救わなかった、世界の全てに復讐したいと」
「八つ当たりじゃないか」
眉をひそめた常暁が指摘すると、少年は鼻で笑った。
「そうだよ。でも、僕の気は晴れるからね」
歪んでいる。それでも、彼の中でそれが絶対的な正義になっていることはわかった。──不愉快、きわまりない。
「歓喜天」が人を守護するのに、その人の善悪は関係ない。常暁はそう聞いていた。今、それが正しかったとわかる。
「しばらくは地元で好きにやった。何十人、何百人も破滅させたけど──別のところでもこの方法は通じるのか、試してみたくなった。都会の方が商工業も発展してるから、たいていのものは手に入るしね。聖天は力をくださるかわりに、色々してさしあげないといけないから」
少年は事も無げに言うが、歓喜天を個人でまつるには、多大な労力を必要とする。不浄を極端に嫌うため、常に場は清浄にしておかなければならない。さらに像を酒や香油で洗う行為も必要となる。
日々の供養も欠かしてはならず、それに用いる歓喜天の好物も作るのに手間ががかる。餡入りの揚げ団子を好むとされているが、餡の中身は石榴や苺など十一種にも及ぶ。
面倒だと略してはならない。決まりは寸分違わず守る必要がある。少しでも自分に不敬をなしたとみなすと、たちまち罰をあててくる神だからだ。歓喜天を祀るのは、清めの専門家である寺でさえ避ける難事なのである。
僧でもなんでもないこの男がそれを成し遂げたとしたら、ひとえに執念のなせる技だろう。
「……素人にしては、よくやる」
「そうだね。その努力のおかげで、楡木の姿を隠すことも、あんたの術を打ち消して小木を暴走させることも……こんなこともできる」
少年が指を鳴らす。同時に地面が揺れた。
「バザラヤキシャウン」
常暁は反射的に印を組み、真言を唱える。
石畳の間から、じわじわと黒い脂がしみ出してきた。それは瞬く間に広がり、大きな池のように常暁の足元を囲む。毒気よけの呪をほどこしていても、常暁の胃がむかついてくる。
「耐えるねえ。お兄さんみたいな強い人間ばかりなら、僕も復讐なんて考えなかったんだけどな」
おざなりに手をたたく少年を、常暁は怒りをこめてにらんだ。
「……ひとつ聞く」
「どうぞ」
「お前が利用した小木も、同じ不治の病だった。利用することに、抵抗を感じなかったのか」
常暁が指摘すると、少年はすぐに鼻を鳴らした。
「ああ、癌だったんだろ? あんなもの、ちっとも大変じゃないね。重症化したのだって、本人が愚かだったせいだ」
少年はテラスから身を乗り出し、軽く首を振った。光の乏しい眼球が、常暁をとらえる。
「知ってる? 小木って男は、膀胱癌だったんだ」
膀胱癌の初期症状として、微量の血尿がある。この段階で発見できれば、腫瘍は指先以下の大きさであり、生存率も高い。
「でも、あの男はその貴重な機会を捨てた」
ちょっと疲れているだけだ。
今日は、水分もほとんど取ってなかったから、そのせいかも。
みんな、俺が店を閉めたら困るじゃないか。
「そう言い張っているうちに、血尿が消えた。ここで小木は安心しちゃったんだ。病気の存在すら忘れたんだって、おめでたいよねえ」
しかし、病はなくなってなどいなかった。ずっと小木の体内で、牙をとぎ続けていたのだ。
「ある日突然、大量出血。今度は便器の水が真っ赤になったから、もう言い訳できなくなった」
そこでようやく病院に行ったが、遅かった。「全身に癌が転移している」という診断が下されたのである。
「前兆があったのに見逃し、使える薬や治療法を投げ捨てた──僕が同情する要素が何かある? 身体が何より大事だって理解してない奴は、ただの馬鹿なんだよ」
少年は吐き捨てた。
「手厳しいな。だから彼を犯人に仕立て上げたのか」
「かけがえのないものを大事にせず、誰でも替えが効く仕事に執着するなんて、頭がおかしいんだよ。そんな人間、鉄砲玉以外にどう使えっていうの」
少年はそう言って鼻を鳴らした。
「僕から見れば、遍く知れ渡った治療薬があるだけで涙が出るほどありがたいけどね。僕のかかってた病気は、治療法すら確立されていない」
致死性家族性不眠症は、体内に生じた特有の感染体によって起こる。これが体内で真っ先に睡眠に関わる領域を食い荒らし、強い不眠を起こす。体内で完結する反応であるゆえ、あまり強い薬を用いることはできない。
「誰も助けてなんてくれない。さあ、小木と比べてみて。甘えてるのはどっち? 馬鹿なのはどっち?」
常暁は返事をしなかった。周りの瘴気はますます強くなり、息苦しくなってくる。
「……だよね。正しいのは僕なんだ。決して、誰もそれを否定できない」
常暁は足元に目をやった。黒い脂の底から、ぶくぶくと泡があがる。泡は次第に大きくなり、やがて水中から白い蓮の花が現れた。
美しい。が、常暁には分かっている。これが、決して祝福でないことを。
焼けるような喉の痛みを感じて、常暁は咳き込んだ。傍らの白い花から、ひっきりなしに霧が吹きだしている。それが、毒なのだ。
皮肉なことに、黒い脂よりこちらの方が遥かに毒気が強い。何にも染まらないと決めたような白い花は、ただひたすら常暁の干渉をはね返し続けた。わずかに常暁の頭が下がる。
「聖天はそれを分かっていた。だからこんな力も与えてくれる」
「だからって、人を罠にかけていいってことにはならない」
珍しくまっとうな常暁の主張を、少年は軽く受け流した。
「お兄さん、ここまで来たのに残念だったね。優秀な術者だったことは認めるよ。……でも、もう現世には帰さない」
常暁はなんとか、胸元にある符をつかもうと気力を振り絞った。しかし毒が回った指先は、ほんの数センチ先の袈裟まで進むのを拒否する。
常暁が四苦八苦しているのを見て、少年は声をあげて笑った。
「そう、それ。昔の僕と一緒だ。どうにもできない悔しさがどんなものか、身をもって知っただろう」
甲高い笑い声がこだまする中、とうとう常暁は片膝をついた。袈裟の金糸が黒い脂に触れ、徐々に溶けていく。
「生きている人間、全員がこの世に絶望すればいい。僕はそのために毒をまく。それが新たな『革命』だ。僕は自分の力で、それを成し遂げてみせる!」
少年の長広舌が、静まりかえった境内に響く。すると、暗い油面にさざ波が立った。
「……はは。言ったな、とうとう。絶対に言ってはならないことを」
常暁は低い笑い声をあげながら、上体を起こす。さっきより、ずっと呼吸が楽になっていた。
「オン・チシャナバイシラ・マダヤマカラシヤヤヤクカシャ・チバタナホバガバテイマタラハタニ・ソワカ」
顔が強張っている少年をよそに、軍神の呪を唱える。全身に力が戻ってきた。常暁はざんばらになった髪を整え、立ち上がる。
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