第33話 黒幕はここに
常暁は石畳の参道を進み始めた。昔は遊郭があったという、なかなか呪気の強いところだ。
若い女の霊が、時々所在なさげにうろついている。常暁は彼女らをちらっと見た。そして気遣いを示すため、大きく避けて歩いた。
そこを抜けると、ずらりと灯籠が並ぶ通りに出る。ここまで来れば、異界はすぐ側だ。常暁はようやく、抑えていた力を解放し邪気を遠ざける。
長い石段が見えた。その前に、結界がはってある。常暁は両手を合わせ、中央の三指を互いに絡ませる。親指と小指だけは離し、同じ指どうしでくっつけた。孔雀明王の印である。
「オン・マユラキ・ランデイソワカ」
真言を唱えると、結界の周りにたちこめていた毒気が消えていく。常暁は弱くなった結界の中に体をつっこみ、階段を上った。
そのまま真っ直ぐ進むと、寺だというのに突然、鳥居がある。常暁は気にとめなかった。天部を祀っている寺には、こういう設備が残っていることもあるのだ。
門をくぐり、本堂まで進む。立派な寺の門構えが見えるが、そこにいるのは不動明王だ。常暁の目当てではない。
「だいたい隠れているな、『
常暁はつぶやきながら、奥の和風庭園を目指した。そこから、同類の気配がする。進むにつれ、みしみしと全身が重くなり吐き気がこみあげてきた。空中に、明らかに毒気を含んだ術がかけてある。それは無限に寄ってくる、小さな羽虫にも見えた。
「オンウウン・カタトダ・マタビジャ・ケッシャヤ・サラヤハッタ」
殺気を背中で受け、手で印を結びながら、鬼病を遠ざける呪をとなえる。しばらくすると、口の中に液体がたまってきたので石畳に吐き出した。
黒い液体がじわりと地面に広がる。光景は不気味だが、吐いてしまった常暁はすっきりした。高まっていた鼓動が、元に戻っていく。
「近づく奴は選ぶということか」
なんの心得もない者であれば、さっきの呪いで死んでいる。常暁は口をぬぐってから、庭園の中を突っ切った。すると突然、目の前に洋風建築が立ちはだかる。
白壁に木枠の洋風窓、そのうえ玄関には洋釘がわざと目立つように打ち込んである。しかし壁は漆喰、屋根は瓦だ。寺に鳥居は許せても、こういう中途半端な和洋折衷さが気に入らなかった常暁は、舌打ちをした。
「宮大工が西洋建築の技術を学んで建てたんだ。そう邪険にすることもないと思うけど」
洋風建築のテラスから、声がした。常暁は上へ視線を向ける。
テラスに立っている相手を観察した。予想に反し、相手はかなり幼く、少年といっていい程の年だ。くるくるとゆるい曲線を描く赤毛に、茶色の瞳。鼻が高くて、子供にしては縦長の顔をしていた。外国の血が入っているのだろう、と常暁は結論づける。
相手に慌てた様子はない。悪戯っぽい笑みさえ浮かべている。
「お兄さん、僕を見つけるの早かったね。自衛してたつもりだったけど」
「弁当屋の周りに強い霊気が残っていた。しかもそれは、夜になっても全く衰えない。通常、呪いを一人で行うとそういう事態にはならない」
人は誰でも、眠らなければ生きていけない。術者といえども意識を手放す夜は、呪いの力が少し落ちるのが普通だ。
「ま、それはかけられる方も同じだから。意識を失って無防備になるでしょ」
「そうだ。だから呪いの効果が出るのは夜が多いが……元の出力自体は下がっている。それなのに今回は、ずっと呪いの強さが変わらなかった」
「複数犯だね」
「──もしくは、『眠らない人間』か」
常暁が言うと、少年は目を見開いた。
「当たりか。後者の方が探しやすいからな。まずそちらから探したら、お前の話を聞いたというわけだ。しかし……」
常暁が言うと、テラスの少年はわずかに顔を歪めた。
「なるほどね。一つ間違いを訂正しておくよ。僕は『眠らない』んじゃなくて、『眠れない』んだ。そういう病気があるんだよ」
少年は淡々と語り出した。
致死性家族性不眠症。それが、少年の体に巣くう病魔の名前だ。かなり特殊な病で、主に中年期に何の前触れもなく発症する。患者はある日を境に全く眠れなくなり、その症状が何ヶ月にもわたって続く。
「どこの病院に行っても、どんな睡眠薬を飲んでも眠れない。そのうち、しょっちゅう幻覚を見るようになったよ」
意識を失うことはないため、患者に安らぎの時間はない。体重が減り、そのうち自分の家族の顔も分からなくなる。やがて昏睡状態になるまで、ずっと肉体と精神を削り続ける状態が続くのだ。
「惨めなものだったよ。オッサンが一人、家族にも見放されて寝てるしかないんだから。世の中を呪って呪って呪い抜き、それでも健康な身体に戻りたいと願い続けた。都合がいいけど、それが昔の僕さ」
「今は小学生でもオッサン扱いか。じゃあ俺は大年増だな」
常暁がからかうと、少年は微笑んだ。
「僕はオッサンだったんだよ。知ってるくせに」
「……確かに、情報ではそうなっていた」
常暁は怪訝な顔をした。前情報では、全く眠らないと評判になっていたのは四十二歳の男だったはずだ。寺が持っている情報屋は、あからさまに常暁を嫌っているが、それでも名指しでもらった仕事に私情ははさまない。与えられた情報に、嘘の気配はなかった。
それが小学生になっている。しかし、話している内容に矛盾はなかった。……ならばこの変わり様は、どういうことだ。
「子供だと思って嫌になった? この姿は、聖天に与えてもらったものだよ」
まっすぐな視線を常暁に向けながら、少年は固定観念を破壊するような話を淡々と語った。
彼の目の前にいきなり現れた、双身かつ象頭の化け物。それこそが歓喜天であった。日本では簡単に聖天とも呼ばれるこの神は、元を辿ればインドの神、シヴァとパールヴァティの間に生まれた子である。天軍を指揮するほどの力量を持ち、種々の願いを叶えるといわれた。
そんなことは知らないかつての少年は当然、幻覚だと思った。
「でも、聖天がまいた金粉にかかると、すぐこの姿になった。そしてそれから、久しぶりに眠くなったんだ」
少年はぶっ続けで三日間眠り続けた。その間に知らない子供が寝ていると騒ぎになり、次に目覚めたのは病院だったが──彼は別に気にもとめなかった。
体が軽い。今までいくら考えても消えなかった思考の澱が、跡形もない。このとき、少年は久しぶりに──心の底から笑った。
「僕は救われた、とわかった。ようやく祈りを叶えてもらったんだ。そして聖天はさらに聞いてくれたよ。他になにを欲する、と」
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