E-3
「うわぁ、やっぱり人多いね~。今日は天気良いもんなぁ」
やたらと大きなバスケットを抱えて訪れたトンプソンズ・スクエア・パークの芝生は、既にレジャーシートを広げた人々でいっぱいだった。上着を脱ぎ、シャツさえ脱いで、日光浴を楽しんでいる。
そこから少し離れた木陰、人の少ない場所を選んで、アークたちは準備を始めた。エリクはいそいそとシートを広げているし、ミナは早速バスケットのふたを開けている。
アークはひとつ欠伸をした。まったく馬鹿げている。何故吸血鬼がこんな昼日中にピクニック、とやらなんぞに付き合わされなければならないのか。
エリクが秘蔵のぶどう酒を開ける、と言わなければ絶対に承諾しないところだ。
「アーク、こっちこっち! ほら、シートの上にちゃんと座って」
ちゃっかりと木の根元、一番の日陰に陣取っていたアークをエリクが笑顔で手招きしていた。……いくら血を飲まなくなって以来克服した、とはいえ自分は吸血鬼なのだが。燦々と降りそそぐ陽光の下に引きずり出すなど正気の沙汰じゃない。
「今日はね、色々作ってみたんだよ~。良かったね、ミナおねだりのパニーニもまだあっつあつだよ!」
「やったあ!」
ミナは両手を挙げて喜んでいる。エリクはいそいそとバスケットから料理を取り出しては並べていた。
ほうれん草とえびのキッシュ、厚めに切ったコールドビーフ。色鮮やかな数種類の野菜を漬け込んだピクルス、ちりちりと水を弾いたようなフリルレタスのカップサラダ。
クリームをこぼれそうなほど詰め込んだマリトッツォはデザートかと思いきや、エリクにとってはあくまでも主食らしい。
デザートにはちゃんとスープジャーにジェラートを詰めてきたよ、と物凄い笑顔で返されてしまった。訳が解らない。
「さあ、ブォナペティート!」
「いっただきまああす!」
ぱちん、と両手を打ち鳴らしたミナは、早速パニーニに手を伸ばしていた。
あの騒動の後、彼女が食前の祈りを捧げている姿を、アークは見た事がない。何か思うところもあるのだろう。
「はい、アーク。ぶどう酒開けたよ」
「……ああ」
たぷん、と表面の揺れるグラスを受け取る。ふわ、と風が吹いて、鼻腔までアルコールの馥郁たる匂いを運んできた。
グラスを難なく支える自分の手には、もう欠けているところなどない。勿論、目覚めた時にはまるごと失っていた両脚も腹も。
アディやミナたちの祈りと祝福は、アークの身体を完全に復元した。まさか吸血鬼が神の子の祈りによって蘇るなど、前代未聞の珍事だと我ながら思う。
あれから、脇腹の傷が中途半端に塞がりかけていたアンドルーを連れて、アディたちは教会へ―――法王庁へと帰っていった。
マリアと呼んだか、ミナたちの母親だというあの女も一緒だ。
アディはどうやら、アルパエトオメガをアンドルーに代わって掌握したらしい。救世主を産み出す研究は廃止され、被害者とも言える神の子たちとマリアは組織で保護。
これからは教会の下を離れて暮らしていけるよう、充分に支援していくつもりだと話していた。
ミナの行方は、代わらず「不明」のままにしておくと言っていた。しかし姉弟として、これからも幾ばくかの交流が続いていくことだろう。既に何度か、手紙のやりとりをしているらしかった。
そうしてミナは、今もアークと共にあの古いビルに住んでいる。ようやく余計なしがらみもなくなったのだ、好きな場所で好きなことをして暮らせば良い、というのに、相変わらず客の来ない店中をぴかぴかに掃除して回りながら。
「なんだァ吸血鬼! こんな真っ昼間から、お天道さまの真下で何やってやがる?」
ぼんやりグラスを傾けていると、突然、賑やかな声が襲ってきた。顔を上げる。時折一緒に飲む事もあるドワーフの爺さんが、せっせと芝生を踏み越えてこちらへやってくる。
「何だ爺さん。あんたこそ、仕事はどうした」
「昼休みに決まってんだろ。なんだ、いいモン飲んでるな。どれワシにも一杯」
「俺は構わんが、細君にどやされるぞ」
しれっ、と言い放って一口こくりと飲み込んだアークに、爺さんはう、と言葉を詰める。
「可愛くねえな! 仕事が終わったら付き合えよ、しこたま飲んでくれる!」
「俺は構わんと言っただろう。細君によろしく伝えてくれ」
煩いわいバーカ!……と非常に大人げないセリフを残して、ドワーフはひょこひょこと芝生から去って行った。クッ、とアークは人の悪い顔をして笑う。
「知り合い?」
パニーニを片手に顔を覗き込んでくるミナに、笑いながら頷いた。
「ああ。あの爺さんはここで暮らして長い。嫁さんがエルフなんだがな、尻に敷かれてる。何をするにも、まずはお伺いを立ててからだ」
「エルフ!? いるの?」
「そりゃいるだろ。ここはファントムの集まる街だ。バンシーだのリャナン・シーだのもいる。ああ、レッドキャップには気を付けろよ」
「妖精さん……!」
きらきらと目を輝かせながら、それでも手に持ったパニーニを囓るのは忘れない。そんな間の抜けたミナの姿に、今度こそふはっ、と噴き出してアークは笑った。
―――平和だ。
ほんの一月前には、こんな日常が訪れるとは予想だにしていなかった。
我ながら驚くべきことに、天敵であるはずのあのヴァン・ヘルシングとまで手紙のやりとりをしている。ミナの様子をやけに聞きたがって、正直鬱陶しい。一度子供たちとやらを連れて遊びにでも来ればいい、と思う自分も大概どうかしている。
寄りかかった背中、逞しくそびえる樹の幹からじわりと暖かな生気を感じる。穏やかなその生命を少しずつ受け取って、今の自分は生きている。
すっかり草食の吸血鬼になってしまった。あの飢えと、どうしようもない渇きも今はない。それだけでも、もう充分だと思う時がある。
「アーク、酒ばっか飲んでないでちゃんと食べなよ~。ほいコールドビーフ! あっ、マリトッツォのほうが良かった?」
「……胸が悪くなりそうだ」
その量のクリームは勘弁願いたい、と顔を背けたところに、またふわりと風が吹いた。
緑が濃い。もうすぐに初夏がやってくる。
「そういえば、どうして急にピクニックなんだ?」
しばらくは復元したてのアークを気遣ってか、ミナとエリクの二人は、やたらあのビルでアークにべたりとひっついて暮らしていた。
寝られるだけ寝られるぐうたらした暮らしは、アークにとって非常に充実していたのだけれど。
「約束だったからね」
エリクがやけに手慣れたウインクを飛ばしてくる。
「約束?」
ふふっ、とミナがいかにもおかしそうに肩を揺らして笑った。
「そう。保護者付きのデート!」
ねー、と顔を見合わせて笑っている二人は、燦々と降りそそぐ陽差しがとても良く似合う。
自分とは正反対のその眩しさに、思わず目を眇めた。
それでも。
「……まだ言ってたのか、それ」
「当たり前でしょ、ちゃんと叶えるから約束って言うんだよ」
「わたしデートって初めてです。楽しい!」
「いや、これがデートかと言われると違うんじゃないか……?」
その中に居る自分に、もう違和感はない。
差し出されたコールドビーフを食べる。エリクの料理は趣味の域を超えている、と時折思う。
料理は男の嗜みだよ、だって女の子はおいしいものが大好きだからね! と胸を張って言っていたが、さすがイタリア男だと言う他ない。
「アーク、こっちもおいしいですよ。はい」
「…………」
ミナがキッシュを差し出してきた。
「あっ」
その細い手首を攫う。ぐい、と引き寄せた顔の間近、ぐわりと口を開けてミナの手から直接、齧り付いた。
「……っアーク!!」
「ハ!」
保護者、などと言われて、大人しくそのままいるつもりもない。途端真っ赤に染まっていく頬を見ながら、声を上げて笑った。
「アーク! 皆ぁ!」
芝生の外側から、再び声がする。
「よう。どうした」
見れば、こちらへ戻って来ていたニィがオーエンと共に手を振っていた。
「楽しそうなことやってるねぇ。僕らも混ぜてよ」
「ニィ! またお前は遠慮もなく」
この二人も相変わらずだ。
「ああ、いい、いい。気にしないで来い。どうせ料理も三人には多い」
「やったぁ。おっじゃましまーっす」
飛び跳ねるように足取りも軽く、ニィがやって来た。オーエンは頭を抱えながら、そのうしろを付いてくる。そんな二人のいつもの姿に、アークは満足気にグラスを傾けた。
ニィはどうやら、正式にキャサリンと婚約したらしい。近いうちに一度、国へ連れて行くそうだが、まだ自分が王子だとは明かしていないと言っていた。
驚かせたいからね、と笑っていたが、まったく気の毒なことだと思う。だがそんなところも含めて、きっと彼女なら上手くやっていけるのだろう。
「ところでお前ら、俺たちに何か用でもあったのか?」
「あっ何コレめちゃくちゃ美味しい、クリームたっぷりでいいね。紅茶が欲しくなる」
「さすがニィ、話が解るなぁ。あるよ! ダージリンだけどいい?」
「最高。……あれ? で、何だっけ?」
オーエンが抱えた頭を手放せる日は来るのだろうか。アークは少しばかり気の毒そうに、うずくまる黒猫へ目をやった。
「……お前はもういい。馳走になってろ」
「えー。まあ頂くけど」
「伯爵さま。我々もアルタン経由で聞いたのですが、どうもアベニューBで最近、バンシーが泣き暮らしているらしく」
バンシーはアイルランドやスコットランドに伝わる、女の妖精だ。彼女が泣き叫ぶと死者が出る、と言われている。
「……穏やかじゃないな」
確かにこの街には数人のバンシーが暮らしているが、さて。
アークはグイ、とグラスの半分ほどまで減っていたぶどう酒を飲み干した。
「解った、行ってみよう。騒ぎになる前に手を打ったほうがいい」
「僕も行くよ。同郷のよしみだしねえ」
「お供つかまつります、伯爵」
「助かる」
言うなり立ち上がったアークに、ニィが慌てて食べかけのマリトッツォを口に押し込んだ。たっぷりのクリームがばふっ、とはみ出して、いつも笑っているような唇の端から溢れる。
「わー! ニィ!! タオルタオル!」
「エリクさんこれ! ニィさん拭いて!」
慌てる二人を余所に、ニィは「うわぁ失敗しちゃったぁ」などとのほほんとしている。世話を焼かれるのが当然、といった様子は、さすがの王子様だ。
「……もう置いていくかこいつ」
「そうですね。あ、あんまり世話を焼かないでいいですよ。甘え癖がつきますので」
「オーエンったら酷いなぁ。甘え癖を付けさせたのは、お前なんだけど?」
「勝手にやってろ。俺は行く」
やってられない。ふかり、と芝生へ踏み出したアークの背中に、慌てた声が掛かる。
「アーク、」
視線だけで振り返ったその先に、立ち上がろうとして戸惑うミナの姿があった。
「……ああ」
ふっ、とアークの視線が緩む。
「そうだな。来い」
連れて行く、と交わした約束は、強く。
「急げよ」
「はい!」
どこまでも、二人の手を繋ぐ。
「それじゃあ、ここは任せて。片付けて家で待ってるからね~」
「僕は残って、エリクのお手伝いしよっかなぁ。オーエンは案内しておいでよ」
「……あまり迷惑を掛けるんじゃないぞ」
溜息をつくオーエンの肩越しに、アークは広げられたシートの上を見た。
笑い合う、狼と猫。立ち上がる人間の娘。
そこから、更に広がるうしろを見渡せば、本来並び立つことなどないはずの存在がごく自然に寄り添っていた。
ドワーフとエルフ。雪の女王と太陽神。竜の子と天使、妖精と悪魔。
「アーク、お待たせ! 行こう?」
立ち上がったミナが、シャツの袖を遠慮がちに引いてくる。吸血鬼と神の娘。本当ならとても手を取り合えないだろう二人が、こうしていられるのも、きっとこの街だからこそだ。
ここはファントムの暮らす街、都市の片隅。紛れて混じり込んで、―――きっといつか、そんな垣根さえ溶けていってしまうだろう。
「ああ」
するり、いじらしい手を振り払ってぎゅっと繋ぎ直す。
「行こう」
そうして、二人は並んで歩き出した。
ファントムたちは今日も、人と変わらぬ顔をして、この街の片隅に生きている。
ファントム イン ザ シティ 日生佳 @nakir
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