6-4
どれだけいやだ、と思っていても。
結局は浅ましく血を啜る自分に、絶望していた。いとしく思ったミナの血でさえ、自分は舌を這わせて舐め啜り、夢中になってむしゃぶりついた。
惨めだった。伯爵。そんなふうに呼ばれていながら、なんて醜く浅ましい。
まさに呪いだ。酷く嫌悪しながらも、結局は、彼女の血を得て復活した。
―――だけど、それすら今はもう。
「アーク……、あれっ、俺なんで」
「エリク」
段々とその輝きを減じていく光の中、エリクがむくりと起き上がった。
「大丈夫か」
「これ、ミナの……だよね? うわ俺そうだ、なんかおっさんに瞬殺されちゃったんだった。かっこわるぅ」
「……油断するからだ」
おっさん。その言い草に、少し笑った。……しかし、人狼を易々と倒す能力があるとは、この枢機卿はいったい何者なのか。
「まったくお前達は、役割というものを解っていない」
消えていく光の外側で呟いたアンドルーの顔からは、ずっと胡散臭く張り付けていた薄ら笑いが消えていた。
「個人の意志など理由にならない。皆それぞれが役割をもって生き、そうして社会を回すのだ。お前達はここで死ぬことこそ役割なのだと、どうして」
解らない。そう激昂するはずの台詞は、しかし。
「そうね」
その場に居る誰もが聞いた事のない声によって、遮られた。
「だったら、あなたも同じ。ここで死ぬ役割を果たして」
それまで、身じろぎすらせずにただじっと立ち尽くしていただけのマリアだった。
一瞬、その場に居合わせた誰もが、彼女がただ具合でも悪くして倒れたのかと思った。
それほど唐突に、トッ、と目の前に立つアンドルーにぶつかった。
「……な、」
アンドルーが、愕然と目を瞠る。その腕がのろのろと動いて、自身の脇腹を探った。
「何だ、これは……?」
目の前に掲げた掌を染めるのは、べったりと塗りつけられた不吉な赤。
血。
体内を流れる、生命の力そのものとも言える、それ。
「マリア」
枢機卿の身体からふらり、と離れた女性の口元は、酷薄に微笑んでいた。カラン。彼女の手から離れた何かが床を打って硬質な音をたてる。
アークは視界の端にそれを捉えた。ナイフだ。柄にまで血が伝い落ちる、細身のナイフ。
彼女は倒れ込んだのではなく枢機卿の脇腹を刺したのだ、と、それでやっと解った。
「お前、……何故」
アンドルーでさえもが愕然と目を瞠って彼女を見ている。その中で、マリアだけが揺るがず、感情のいっさい浮かばない顔をしたまま佇んでいた。
「そうね、わたしは何もない。あなたたちは、わたしに何も与えなかった。どころか奪った。教育も、言葉も、感情も、人間らしい生活さえ」
淡々としたその口調からも、彼女が何を今感じているのかをうかがうことはできない。
「わたしは文字のひとつも読んだことがない。そもそも読めない。部屋にあるのはベッドと椅子とテーブルだけ。わたしは、あなたたちの研究材料でしかなかった」
でもね、と彼女は続ける。
「生まれたての赤ん坊だって、三年もすれば言葉を覚えるのよ。周りの大人の会話を聞いてね」
「……マリア……」
「わたし、人形にはなれなかったみたいよ」
アディも、ドゥーエも、そしてミナも。
神の遺伝子、などというものを埋め込まれた「実験作」であった。だが彼らだけではなく、マリアこそが研究所にとって一番目の「材料」だった。言葉の端々から、彼女の受けてきた非人道的な扱いがうかがえる。
「だから死んで。わたしを解放する物語のために、役割を果たして」
「……そんな物語など、あるはずがない……!」
ふら、と枢機卿の身体がよろめく。しかし彼は倒れはしなかった。血にまみれた手をきつく握り締め、そのまま高々と天へ突き上げる。
「我が天なる父よ、主よ、天に成すように地にも成し給え。私の信仰のままに成させ給え!」
祈り、と呼ぶには、あまりにも傲慢なその言葉に。
「何だ!?」
しかし、光は呼応した。溢れんばかりの黄金色の光が、高い天井のその上から、ぬっ、と突き破るように現れたのだ。
「……あれ! あれだアーク、俺が秒殺されちゃったやつ!! あのおっさんが出した訳わかんない光!」
ミナの白光とは違う、圧力さえ感じるような黄金の円柱。異様に神々しくて、そして異様に―――圧倒される。
「まさか、あれが神だとでも言う気か……?」
「あれで呼び出されちゃったってことは、そうなんじゃないの!?」
呆然と見上げる中、光は少しずつはっきりとした輪郭を取り始めた。それは巨大な手と腕だった。聖堂の半分以上をも埋め尽くしてしまいそうな、巨体の手。
抱えた腕の中、ミナが呆然と呟く。
「小ヤハウェ……」
「何だ?」
「第三エノク書の一節に、天使メタトロンのことが書いてあるんだけど」
曰く、天使メタトロンは天使の王。神に最もよく似た姿を持つ。
「身の丈は地に足が着いた状態で、頭が神のいるところに届き、世界の高さに匹敵する……って。だから、多分あれも」
「ハ。つまり神は巨人という訳か」
アークのこめかみを、冷たい汗が一筋、流れていった。黄金に光り輝く手はその中へすっぽりと枢機卿の身体を包んでいる。
おそらくは、ミナの白光と同じだ。ああやって、刺された傷を癒やしているのだろう。
「まったく、次から次へと湧いてくる」
同じ街の住人たち、ヌーメリと呼ばれる特殊部隊。手こずらされた彼らを倒してやっと終わりか、と思えば、ミナの弟に枢機卿に、とどめには主なる神ときた。倒せば倒すほど敵が厄介になっていくのでは、どうしたものかと頭を抱えたくもなる。
「……だが、好機は今しかないんだろうよ」
アンドルーの傷を癒やしている今、向こうから攻撃を仕掛けてこないこの時がチャンスだ。何せ相手は神ときた。何をされるか、解ったものではない。
「お前は弟のところにいろ」
抱えていたミナを下ろす。離れがたそうな少女の乱れた前髪を、さらり、と指の背で払ってアークは少し笑った。
「大丈夫だ。必ず、戻る」
「……っ、解った」
固い顔で頷く。そうしてミナは、ぐるりと聖堂のふちを回ってアディたちの元へ駆けた。
「行くぞ」
「ええー、俺さっき瞬殺されてるからなあ……とは言ってもやるしかないよね!」
眉を落としながら、エリクが飛び上がる。ざわり、と震えるように伸びた毛皮と鋭い爪を振りかざして、黄金に輝く巨大な手へ襲いかかる。
アークも刃のような爪をいっぱいに振りかぶった。馬鹿げている。勝てるはずがない。そうも思いながら、けれどここで決着をつけなければあとがないことも解っていた。
「喰らえ!!」
ヒュッ、と、空気を切る微かな音が響く。
まるで雲を散らすかのようなものだったが、確かに手応えはあった。見れば切りつけた手首の辺りは確かに黒く濁っていたが、それよりも。
「……クソっ」
「うっわぁ、やっぱ無理!」
ただの一撃、触れただけで、鋼鉄の堅さを誇る爪がぼろぼろと崩れて落ちた。おそらくエリクも同じだろう。
「触れないってどうすんのコレぇ!?」
「だが、向こうも無傷という訳じゃない」
それなら、とアークは掌を浮かせた。そこからぶわり、と立ち上るのは、すぐに小さな蝙蝠へと変化するあの黒い靄だ。
「これならどうだ?」
黒く濁った手首へ向けて、吹きつける。蝙蝠、の姿をとってはいるが、これはアークの吸血鬼としての魔力を凝らせたものだ。
光と闇。相反するものをぶつけてみたら、いったいどうなるものか。
「……いけるか」
はたして、蝙蝠たちがざわっ、と殺到したその場所は、爪で切り裂こうとしたその時と同じく黒く濁って僅かに霞んだ。
「ええー、遠隔攻撃オンリーとかRPGじゃないんだから」
「四の五の言わずに働け!」
しかし、少しの痛痒も感じていないのか、神の手は枢機卿を包んだまま動かない。
アークは次々と蝙蝠を打ち込んでいった。ミナのおかげで、ほぼ完璧といえるほど闇と魔の力が戻っている。こんな戦い方は、あの飢え渇いていた時分にはできなかったことだ。
「―――アーク! 退け!!」
だが、どうやら時間切れだ。
「っ、……!」
それまで微動だにしなかった光の手が、突然ゆらり、と動いた。緩慢な仕草だったが、虚を突かれた。
「アーク!!」
煩い小蠅を追い払うような、素っ気のない動作だった。それでも、その光に触れたアークの身体は、たったそれだけで。
「グ、っ……あ」
端から崩されていくような錯覚。細かな刃が、身体中を切り刻んでいるような痛みが走った。咄嗟には息も出来ない。
「アーク! いやあ!!」
ミナの悲鳴を聞きながら、ほとんど反射で、マントへ魔力を通した。ぐるり、身体に巻き付けてこれ以上の負傷を防ぐ。
端々から、急激に力が抜けていくようだった。背中の羽もずたずたに引き裂かれて、飛んでいることも出来ない。
「っ……、畜生、アーク!!」
為す術なく頭から墜落していくアークを、跳び上がったエリクの背中が受け止めた。触れるだけでこれほどとは、いったいどうすれば勝ちの目が見えるというのか。
「だから退けって言ったのに!」
「……………」
無茶を言うな。奥歯をギリ、と食い縛って痛みに耐えながら、それでも目線だけは光の手を追う。
自分に触れた部分は、確かに蝙蝠や爪で攻撃したのと同じように、黒く濁って欠け始めていた。
―――そういうことか、とひそかに頷く。
光と闇。相反するもの。
つまり、あれを打ち消すためにはおそらく―――
「違う!!」
アークの考えを読んだかのように、少女が叫んだ。
「ミナ?」
「そうじゃない、多分―――こういうことなんだ、きっと!」
言いざま、少女は自分を庇うように立っていた弟、アディの背中から勢いよく駆け出した。その向かう先には、ただひとつ。
「よせミナ! 止まれ―――!!」
光の手と、それに包まれて佇む枢機卿の姿だけがある。
ミナはためらわなかった。誰の手も届かないそのうちに、さして広くもない堂を横切って、光の中へ迷いなく飛び込んで行った。
「ミナ!!」
「やっぱり……! これでいいの、わたしは大丈夫!」
光、はミナを傷付けなかった。黄金に輝く手。光の粒子がきらきらと少女に纏わりつく。彼女に溶け込んでいく。
「これは神様じゃない。ファントムだよ。人間の勝手な願いと想像で都合良く造り上げた、まぼろし」
「ミナ、」
「そして、わたしを作った遺伝子情報のひとつ」
「―――――」
アークはよろよろと立ち上がり、一歩ずつその光へと近付いた。
「枢機卿は、願いの強さでこれを動かしてる。多分ね。でも、それなら、同じものであるわたしのほうが、ずっと支配力が強いの」
「……何をする気だ」
光が、ふわり、と彼女の髪を巻き上げた。華奢な手足、指先のひとつひとつにさえも纏わりついて、溶け込んで、彼女とひとつになろうとしている。輝かせている。
これほどに神々しい光景を、これまでに見た事があっただろうか。
「簡単だよ。ただ願うだけ。信じるだけ。知っているだけ。この神様は本物じゃない、万能なんかじゃないってことを」
ファントムを産み出すのは、いつだって人間の心だ。思念だ。想像だ。
だから。
「そしてね、わたしの吸血鬼は最強なんだって!」
輝きの中、笑うミナにアークは一瞬、息を飲んだ。
「そう思うのは、わたしだけじゃないから。前にエリクさんも言ってた、今は神様を倒す吸血鬼とか悪魔が物語のヒーローになることも多いって」
「あ―――、ああ、そうだ、それだ!」
エリクが喜色をあげて叫ぶのを、背中で聞いた。
「うん。もう今の時代はね、神様は無敵じゃないって概念がちゃんとあるんだよ。もう混じってるの」
カツ、と少しばかりよろけた足音が聖堂に響く。
自分の正面へと辿り着いたアークに、ミナはやわらかに微笑んだ。
「願いがあなたたちを作るなら、あなたは何にだってなれる。アーク。わたしの吸血鬼は、どんなものよりも強いヒーローなんだよ」
「唯一神さえ倒せるほどか?」
アークも笑った。まったく、荒唐無稽な話だ。それでも。
「勿論。言ったでしょ、わたしの吸血鬼は最強なの」
「……そうか」
彼女が言うならば、それを現実にする。してみせる、と、そう決めた。
「―――――ッ」
導かれるように、手を伸ばす。上向けた掌に、ありったけの力を身体中から掻き集める。
眩い目の前の黄金さえ、吸い込んでしまいそうな真正の闇。膨れ上がる漆黒に唇を引き結んだ。
少しでも気を抜けば、制御を失って暴発してしまいそうだ。額に汗が滲む。これまで失っていく力を惜しむことはあっても、全て出し切ろうとしたことはなかった。まったく逆のことをしている。
力、を溜めた手が揺らぐ。支えるにも苦労する。アークはそろそろと、両手を黄金の手へ近付けた。
光と闇。相反するふたつ。
ぶつけた反動で何が起きるか。推測通りに相克し合い、きれいに消えてくれれば理想的だが。
「―――ッ」
ビリ、と手から腕へ、電撃のようなものが走った。
痺れる。震える。それでも負けずに、力を込める。
叩き込んだその場所から、光の手はぐずぐずとアークの闇に浸食されていった。
掌に溜めただけでは全然足りない。じり、と震えるように、光の手の輪郭が揺れる。嫌がっている。だけど先刻のように振り払われていないのは、ミナが押さえていてくれるせいか。
「アーク、」
「……っエリク、お前も手伝え……!」
触れたその場所から、引きずり出されていくようだ。自分を形作る闇の力、魔の力、およそ神々しいこの黄金の光とは対極にあるものの全て。
ずるずると勢いよく吸い取られていく。ぞっとしない感覚だった。ぶつり、根元から黄金の手、その指の一本が断ち切れて落ちる。きらきらと光を撒き散らしながら、空気へ溶けて消えていく。
「うわぁこれだけやってまだ一本……」
うんざりとエリクが呟いた。
どうにもこいつは文句が多い。それでも再び狼の姿に転身して、鋭く伸ばした長い爪が手首の辺りを抉っている。
「く、っ、」
苦しい。この感覚は何だ。脂汗が滲む。ずるっ、と内臓を一気に抜き取られるような感じがして、それまでも吸い取られていた黒い力が一気に。
「アーク!?」
搾り取られている。……人の姿を、保てない。
「アーク! アーク一旦止めて!!」
アークは唇の端を歪めて笑おうとしたが、もう唇などというものが残っているかも解らなかった。身体の端からぐずぐずと靄になって崩れていく身体は、崩れたその場所から純粋な力の塊となって黄金の光に流れ込んでいっている。
相克。
思った通り、黄金の手もアークと同じように崩れていった。あれほど眩かった光が段々とその輝きを減らしている。あと少し。……そして自分自身に残された力も、きっとあと僅か。
「アーク!」
「アーク、だめ!! 戻って!!」
まだ目は無事なものか、黄金にかすむミナの姿が見えた。ああそうだ、連れて行くと言ったな。約束は果たさなければ。
もっとも、どこへ行ってしまうのかは自分にもよく解らないけれど―――アークはまだそこにあるかどうかも解らない手を持ち上げた。
のろのろと、佇むミナへ向けて伸ばす。
「アーク!」
「――――――」
指の先などとうに崩れて消えていた。
それでも、確かに一瞬、両手がミナの頬を包んだ。
そんな気がして、アークは満足気に微笑んだ。
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