6-3

 その男は、いかにも穏やかで柔和な雰囲気をまとわせていた。

 目元はやわらかに緩み、唇には微笑が浮かべられている。中肉中背で、しかも肉体に怠惰な弛みはない。仕立ての良いスーツを品良く着こなし、丁寧に履き込んだ靴もしっかり磨かれて艶を放っている。いかにも人品卑しからぬ紳士、といった風体の壮年の男だった。

 だが、そのうしろに、ハッとするほど美しい女性を連れている。

 一見しただけでは、年齢の解らない容貌。

肌は白く、艶があってしみひとつない。輪郭が頼りないほど華奢で儚げで、成長を疑うほど肉が薄く、細い。長い睫に縁取られた目はぱっちりと大きく、しかしそこに浮かぶ瞳はガラス玉のように感情がなく空虚だった。

 彼女を黙して従えている、というその一点で、壮年の男が一気に胡乱に見えるほどに。

「アーク! アーク!!」

 男はアークになど目もくれないまま、ミナたち三人へ向かってゆっくりと近付いていった。

 しかしそんな男を素通りして、ミナは逆に、一目散にアークの元へ駆け寄ってくる。

 ニシット枢機卿。ドゥーエが呆然と呟くのを聞くよりも先に、細い腕がぐらぐらと揺れるアークの身体を抱き留めた。

「待って、今抜くから。すぐに抜くから! 血、そうだ、私の血を」

 言いながら、ミナの手が銀の杭を握る。そうしてぐい、と力を込めて引き抜こうとしたが、まるで肉が癒着してしまったかのように銀の杭はそこからぴくりとも動かなかった。

「なんで。なんで抜けないの、どうして」

「抜けないよ。それは特別なものだからね」

 男―――アンドルー・ニシット枢機卿は飄々と言う。それはこの緊迫した場には到底不釣り合いな、のんびりとした口調だった。それが余計に、この男の不気味さを際立たせる。

 ごふっ、と濁った咳がアークの唇を割った。またぼたぼたと血が噴き出る。……酷い有様だ。

「アーク!」

「さすがに無傷では済まないようだね、不死者の王。ハハ、効いて良かった」

 君はもう、随分ドラキュラの在り方から外れてしまっていたからね。少々不安だったのだよ。誰に聞かせるでもなく、しかしまるで舞台の上、堂々と自らの役柄を演じる俳優のようにアンドルーはそう続けた。

―――そう、か。枢機卿までが出て来たか。

 だがこれは、教会が自分たちの全面的な敵に回った、という感じではない。だとしたら、こんな小手先で終わるはずがない。……何かが違う。

 少しでも気を抜けば、そのままぐらりと倒れ込みそうだ。腹に力を入れて、せめて膝で立っただけの姿勢を保つ。自分を抱き留めるミナの腕が、やけに熱かった。ミナ。ミナ。……お前はここにいてはいけない。

 この男はお前にとって、きっと、とても良くないものだ。

「まったく、そろそろ終盤だからと見に来てみれば……ドゥーエ、君には興醒めしたよ。やっていることが、まるきり小悪党じゃないか」

「お、……いや、私は」

「言い訳は結構。それにウーノ。君は随分行動的だったんだね? 処遇を見直さなければならないな。ポーンかと思えばナイト程度には動けるようだし」

 やれやれ、やはり差し手がいなければまともなゲームにならないな。いかにも仕方がない、と言いたげな声色で嘆息した男は、けれどそこで思い出したようにミナを振り返った。

「やあ、ゼェロ」

―――やめろ。

「まさか君まで、こんな所にいるとはね。会いたかったよ、私の一番目の娘」

 やめろ。こいつに関わるな。

 アークは自分を抱くミナの腕をやっとのことで掴んだ。ぎゅ、と力を込める。ミナ。だめだ。聞くな。

「……馬鹿な事を言わないで」

 喋るな。相手をするな。この男は、駄目だ。

 しかし何かを言おうにも、まだ喉の奥からは血が迫り上がって来るばかりだ。

「本当だとも。何せ君たちは、私の生殖細胞に神の遺伝子を組み込んでマリアに産ませた子どもたちなのだから」

「そんなはずはない!」

 せせら笑うようなアンドルーの言い分を、即座に否定したのはドゥーエだった。

「俺の父は全能なる主おひとりだ。でなければ、私は」

「ハハ! やはり君は頭が悪いね。まさか本当に神のみわざで懐胎したと? あれはただ、そこにあるだけのでくのぼうだ。所詮、人の欲望が産み出したファントムでしかない」

「貴様……!」

「そこで私が、僭越ながらナザレのヨセフ役を勤めたというわけだ」

 ねえ、マリア? 言いながら、うしろの女性を振り返る。女性はしかし、表情をぴくりとも動かさず、また身じろぎすらしなかった。

 見せたくない。

……楽な歩みではなかっただろうに、暖かで平穏が似合う、真っ直ぐなままここまで生きてきたミナに、こんな茶番は見せたくない。

「……ミナ」

 何度かの激しい咳き込みのあと、肺に溜まった血をある程度吐き出したか、やっと声が出た。

「俺は……いい。お前は」

「いや!」

 逃げろ、と。

 けれどミナは最後までをアークに言わせてはくれなかった。

き つく抱き締めてくる。その精一杯の力が嬉しかった。が、今はそれでいいと頷けるはずもない。どうすればここから彼女を逃がせるか。

 そう考える間にも、アンドルーの独壇場は続く。

「どうせ誰もが、決められた役割の通りにしか動けない。神ですら」

 登場人物が身勝手に行動しては、物語は破綻する。盤上の駒が勝手に動き出しては、ゲームは成立しない。それがルールだ。

「……だというのに、君は随分勝手をしてくれたね」

アンドルーの目がアークをとらえた。

「人々は吸血鬼ドラキュラこそを求めた。だから君が産み落とされた。誰も君自身など求めていないというのが、何故解らない?」

 知ったことか、とアークは思う。

 そもそも、産まれたくて産まれた訳じゃない。

「人々は、滅ぼされる存在、打ち克つ存在として怪異を、異形を求めるのだよ。さあ伯爵、今からでも役目を果たしたまえ。君のお仲間は、きちんと役目を果たしたのだから」

 しかし、枢機卿はそんなアークの心境など知らぬ気にくつくつと笑い、不意に片手を振り上げた。

「!」

 素っ気なく、振り落とす。その瞬間。

「エリク……!」

 どさり、と何もない空間から突然現れたかのように、黄金の光の中からエリクの重たい身体が床へと無造作に投げ出された。

「そんな……、エリクさん!!」

 倒れ伏したエリクの下から、じわ、と赤いものが滲んで広がる。血だ。全身に傷を負っている。

 狼の姿を保つだけの力もないのか、投げ出された手足はもう、あのやわらかな銀色の毛皮に覆われていなかった。

「さあ、吸血鬼ドラキュラ。あなたの役目を果たしなさい」

 ちゃんと、あなたの相手役も用意したからね―――そう言う男の語尾と、カツ、というヒールの足音が聖堂に響き渡ったのは、ほぼ同時だった。

「……無様なものね、伯爵」

 長い髪、クラシカルなブラウスとマキシ丈のロングスカート。

 小説そのままのいでたちで現れたのは、決別したはずの女、ミナ・ハーカーその人だった。

「私を拒むから、そんなことになるのよ?」

 白いブラウスの襟元が、近付きながらゆっくりとはだけられていく。ぬめるような真珠色の肌。けれど、夢に見たあの背中のぴん、と伸びた、いっそ傲慢なまでの清潔さはそこにない。

「ドラキュラが求めたのは、ミナの血。ルーシーだけでは足りなかった。だから失敗しても尚、ミナが―――私の血が、欲しかったんでしょう?」

 言いながら、薄笑いさえ浮かべて手にした小さなナイフを、自らの首筋に当てる。

 やめろ。アークは呟いたが、それは彼女の耳には届かなかった。

「……ほら」

 シュ、と、思い切りよく。

 女は、首筋を切り裂いた。

 浅く開いた、皮膚一枚。それでも、線のような傷口から血はじわり、と溢れ出す。つ、と滴って首筋を伝い、真っ白なブラウスをじわじわと染めていく。

「飲みなさい。塵になって消えたくはないでしょう、伯爵」

 甘い血臭。濃密な、その匂い。なんて誘惑だろう。アークの目が妖しく光った。けれど。

「―――っ」

 アークを支えるミナの手が、縋るようにぎゅ、と力を込めた。

 その手に、自分の手を重ねる。そうしてアークは、小さく笑った。

「俺、は、もう……『俺』じゃない」

 悪夢はもう、とうに終わっている。

「ドラキュラは、もう、いない」

 結局のところ、それだけの話だった。

 確かに自分は、ドラキュラとして産み落とされた。

 ブラム・ストーカーの描いた小説の中、どんなふうに生きてどんなふうに滅んだのか、全て記憶として自分の中にある。彼の生きたであろう、何百年という歳月の記憶さえ。

 だけど、それだけだ。それらは全部、少しも自分のものではなかった。別人だった。ただ記録として残るだけだった。

 今、自分を抱き留める少女の手など最たるものだ。同じ道筋など、一歩だって進めはしなかった。

「―――だから、お前も」

 求められてなど、いなかったのかもしれない。願われた悉くを、無為に捨ててしまったのかも知れない。

 それでも。

「お前になれ。自分自身を、生きろ。……ウィルヘルミナ」

 俺は、俺だ。俺以外には結局、なれないしならない。

「―――お前がそれを言うのか!!」

 しかし、彼女にとってそれは解放ではなく侮蔑だった。

「お前が! ドラキュラ、私を―――一族を縛り付けてきたお前が!! お前を滅ぼすことだけを悲願としてきた私に、一族に! それを言うのか!!」

 激昂する女に、枢機卿は無言で光る何か、を手渡した。

「やりなさい、ウィレミーナ」

「―――っ、だめ!」

 動けず、ただヒューヒューと息を繋ぐだけのアークを、ミナが必死に抱き込んだ。

ウィレミーナ? あの女は、ミナではなかったのか。駆けてくる、何かを振りかざして―――杭? ああそうか、今も胸にひとつ、打ち込まれているこれと同じ物。聖別された、銀の杭。

「ミナ、」

 アークは渾身の力で少女を引き剥がした。お前を巻き込むわけにはいかない。

けれど。

「いや!!」

 逆に少女は身を投げ出すようにして、女の前に立ち塞がった。

「――――――!!」

 声にならない絶叫、が聖堂に響き渡った。


 時間が、止まってしまったのかと思った。


 引き戻そうと伸ばした腕が、思うように動かない。近付くために立ち上がろうとした膝は、まだ縫い付けられたように床へついたままだ。

 ただ、息を飲んで、彼女の背中が自分の目の前を塞ぐのを見る。だめだ、だめだだめだ。

「―――ミナ!!」

 叫んだ声さえ間に合わなかった。

 引き戻すために伸ばした腕は、倒れ込む少女の身体を受け止める。女の振り下ろした杭は、あやまたず少女の胸を刺し貫いた。―――彼女を抱き留めた、アークの胸ごと。

「……バカ、が……」

 二人分の体重を受け止めきれず、どう、と床へ倒れる。重なり合って手足を投げ出した。

「言った……、もの」

 連れていって、って、言ったもの。ミナの弱々しい声が呟く。だが。

「お前は、死なない」

 アークには確信があった。神の子供。救い主になり得るほどの聖なる力。

「早く自分を……治せ。俺はどうせ」

 消滅しても、また産まれる。吸血鬼ドラキュラという物語が、人々から忘れ去られない限り。

 だからせめて、お前だけでも。そう思ったが。

「それは、……あなたじゃない」

 ミナの応えに、目を瞠った。

「わたしに、……謝らなくていい、って言ってくれたのは、あなただけ、だもん」

 買い物に連れ出してくれたのも。掃除する背中を、時折片目を開けてこっそり確認していたのも、……あの家に、居ていいと頷いてくれたのも。

「全部、……全部、……アークだけだもん……っ!!」

 何かを堪えるように言ったミナの身体が、ぽう、と光る。

 あの白い光だ。内側から溢れ出て彼女を包む、光。

「……わたしの吸血鬼は、アークだけ」

 ふっ、と。

 光へ溶けるように、二人を刺し貫いていた杭が崩れて、消えていった。銀の細かな粒子が光を受けてきらきらと輝く。

 アークは眩さに目を眇めた。腕の中から、ミナがゆっくりと起き上がる。

「アーク」

 光は更に広がっていく。床に倒れたままのエリクをも飲み込んで、静かに輝いていく。

 そのうちに、アークは気付いた。しゅるり、と腕に、脚に、何かが絡みついていくことに。

「……これは……」

 それは聖堂を飾る装花だった。倍速をかけたような勢いでするすると鉢植えの茎が、枝が伸びていく。花が落ち、また葉を茂らせ、蔓を伸ばす。

 そして、アークの腕に脚に絡みついて、……触れた端から急激に枯れて、崩れていくのだ。

「アークはもう、愛を知ってる」

 光の真ん中で、ミナは囁いた。

「エリクに聞いたよ。薔薇の吸血鬼の話」

 それ、は、ミナの血を得た時よりもずっと穏やかで、ずっと優しく、まるでひたひたと満ちていくようにアークを癒やした。

 花々の、植物の精気。その生命。

「愛を知った吸血鬼は、血の代わりに薔薇から精気を貰って生きられるって」

 エリクがいて、ニィがいて、アルタンもいて。

 わたしの知らないこの街の沢山の人がいて、ファントムもいて。

 その中でずっと暮らしてきたあなたが、……愛を知らないはずがないじゃない。

「だから、ほら」

 少女が手を差し伸べる。

 導かれるように、のろのろとアークは身を起こした。

「もう、大丈夫。……アークは、血なんか飲まなくたって、生きていけるよ」




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