5-3
運命とは、偶然とは、皮肉なものだと思う。
「……教授は、手紙に事情を書いてミナから俺の手へ、確実に渡るように仕向けた。あれは歴代のヴァン・ヘルシングの中でも穏健派でな。俺がもう数十年、誰の血も飲んでいないこと。ファントムのまとめ役のようなことをして暮らしていることを知ると、俺を殺そうとするのをやめたんだ」
「でも、それでどうして、教授がミナを攫うなんてことになったんだい?」
エリクもこれまでに何度も、アークを狙う教授と出会ってきた。勿論最後の、つまりミナを育てた教授のことも知っている。
その必然が、この少女をアークの元まで運んできた。そしてそれが、アークの世界を鮮やかに塗り替えた。
結果的に、アークは宿敵の手によって生きる世界を変えたのだ。
「どうも、教授自身は俺を殺さず様子見する、と決めたのに、教会側が酷く奴をせっついたらしくてな。俺を殺すための協力者として、教会と教授は手を結んでいたらしいんだが……勿論公然の関係ではないし、教会はそもそも、ファントム自体を悪だと思ってる。滅ぼしきれないし、産み出してるのがそもそも人間だから無視してるけどな。それが人間だとはいえ、ファントムである教授と手を結んだんだ。憶測でしかないが、その中で、何かしらあったんだろう」
それで教授は、教会に―――つまり教皇庁に不信感を抱いた。
「……先刻の、そいつ……ウーノの話を聞くに、教授に助力していたのはアルパエトオメガだったんだろう」
「あり得る話です。あそこは、そういうことを専門とする組織ですから」
ウーノが頷く。これで整合性がとれた。
「だとしたら、教授がそこで行われている実験のことを知っても、そう不思議じゃない」
そうして、そこで教授はみつけたのだろう。
人の手によって産み出された神の子、などという宿命を背負わされた、哀れな子供、ミナを。
「ここからは、奴の手紙にあったことだが。まるでモルモットのように扱われ、母に抱かれもしない赤ん坊の存在が、奴はどうしても許せなかったそうだ。そこで赤ん坊を攫って、教会の影響力が少ない日本へ逃げた。宗教的に、あそこはエアポケットみたいなものだからな。そこで牧師を始めるのが、あいつらしい小賢しさだ。教会ではあるが、新教と旧教は別物だ。教皇庁が新教の組織に手を出すわけにはいかない上、同じ神を奉じる教会である以上、『教会』から逃げた男がのうのうと関わっているとは思わないだろうからな」
そうしてヘルシングは、ミナという娘を育てながら、十数年の穏やかな時を過ごした。しかし。
「だがそれも、最近になってあやしくなってきた。……どうもとうとう、捜索の手が日本まで伸びてきていたようだ。何故今更、とも思うがな」
「それは……私や二番目の、行状のせいだと思います」
「それはこのあと詳しく聞こう。それで、勘付いた教授は、ミナを逃がすことにしたんだ。そこで困ったのが、逃がす先だ。教会を敵に回しても、引かない者。ミナを守り切れる力がある人物。……そこで俺に白羽の矢が立った」
何せ、アークはファントムだ。その上、吸血鬼ときている。どこをどう間違ったとしても、教会と手を結ぶはずがない。
「敵の敵は味方、というやつだな。……あれも変な男だ。途中で一応の和解はした、とはいえ、あれとも五年ぐらいは死ぬ死なないのレベルで争ってたんだ。まあ手紙には、だからこそ一周回って信用できる、と書いてあったが……」
ふ、とエリクが首を傾げる。
「でもさ。何で教授は、自分でミナを連れて来なかったんだろうね?」
「ああ。ミナを育てるための隠し蓑として、教会で養護院を始めたんだ、あいつは。……そこで初めて、ミナも含めてだが……子供というものに触れたらしい。今は、育てている子供たちがいとおしいと」
こんな無償の愛情というものがこの世にあるのかと、私は感動している。手紙には、そう記されていた。
子供たちから一直線に向けられる、無防備なほどの信頼と愛情。教授を変えたのは、ただの方便だったはずの子供たちだった。
「この子たちを置いてはいけない、だから託す、と手紙には書いてあった。……俺がドラキュラとしての生き方を投げ捨てたように、奴も、ヘルシングとしてじゃなく、自分自身の生き方を見付けたんだ。多分な」
これまで伏せてきた、彼女自身さえ知らなかったミナの事情とはこんなものだ。
アークは肩をすくめつつ、当の本人であるミナを見つめた。
「まあ、そんな理由で何の連絡もなく送り込まれてきた訳だな、お前は。俺に連絡を取ってしまえば、そこから足が着く。だからお前には連絡したと言いつつ、黙って寄越したんだろうよ」
―――今日からお世話になります、毬瀬光奈です。宜しくお願いします。
薄暗く埃の積もった店に、突然差し込んだ光。
「だからお前は、何も悪くない。周りに振り回されて、人生さえ決められかねなかっただけだ。……逃げ出せて、良かったな」
「……、はい」
ぎゅ、と。
握ったままだったアークの右手を、ミナの手がしっかりと握り返す。
その指先は、もう震えてはいなかった。
「それにしても、教授も意地が悪いよね。結果的にアークに預けることになる女の子に、ミナなんて名前を付けるんだから」
「え? 名前……?」
エリクの何気ない一言に、ミナが首を傾げる。アークは苦笑した。
「言ってやるな。奴なりに苦慮したらしい。幸運にも日本人と言い張ることができる顔立ちだったが、ミナには実際、日本の血は一滴も入っていないんだ。聖書の通り、こいつの遺伝的父母はどちらもユダヤ系だ」
だから名前は、日本でも西洋でもどちらでも、呼ばれて違和感のないものを。
―――それでいて、この重い宿命を背負わされた娘に、祝福を与えられるような名前を。
「だからミナ、と名付けたんだそうだ。ミナは、光奈―――光の大樹、という意味を持つらしい。過酷な生い立ちに負けず、大樹のように根を張って、しっかり生きて欲しいと」
「…………っ」
ミナがぎゅ、と唇を噛みしめる。
「……良い名前を貰ったんだねぇ、ミナ」
「はい、……っ」
俯いたその眦がほんの少し赤く染まって潤んだことに、アークは気付かないふりをした。
「で、でも! あの、わたしがミナって、ミナって名前に、アークさんたちも何かあったんですか?」
込み上げた涙をごまかすように、ミナがエリクの台詞を拾う。やぶ蛇だな、と思いつつ、アークはそれにも答えざるを得ない。
どうせこの際だ。全て明らかにしてしまったほうが、きっとすっきりする。
「ブラム・ストーカーの小説、吸血鬼ドラキュラには、ドラキュラを殺す敵が二人描かれている」
「えっと、一人は牧師さま……その、教授、ですよね」
「そうだ。そしてもう一人が、ミナ。ウィルヘルミナ・ハーカーだ。執拗に付け狙い、一度は吸血して隷属させたものの、意志の力で呪縛を振り切って、最後には教授や夫と共にドラキュラを完全に滅ぼした。ドラキュラの、最後の執着の先。それがミナだ」
―――だから、俺は。
アークは苦く笑う。
「だから俺は、実際には会った事もないミナの幻にずっと振り回されてきた。執着してきた。俺が吸血しなかったのは、誰の血を飲んでも、どれだけの量を啜っても、それがミナの血でない限り飲めば飲むほど飢えるし、酷く渇くからだ。気が狂いそうにきつかったぞ、あれは」
小説ではミナの血がそれほど特別だ、などという記述はひとつもなかった。
だが、それは物語が読まれるにつれ、それを想像した人々の中で、ドラキュラにとってのミナという存在が誇張されていった結果なのだろう。
「え。でも、そうしたら」
しみじみ思い返していると、ミナが不意にこちらを見上げてくる。心配そうに、眉をひそめて。
「アーク、さっきわたしの血を無理矢理飲ませちゃったでしょ?……今、もしかして凄く苦しいの? つらい? どうしよう、ごめんなさい。謝って済むことじゃないけど、」
「……ハハ」
アークは笑った。事情を知るエリクもニィも、ミナと同じような顔でこちらを案じている。気付かなかっただけで、いつもこいつらは、きっとこうして自分を見ていたんだな。
唐突に、アークは目が開いたような気さえしていた。
「大丈夫だ。むしろ、やっとあの女への執着もなくなって、せいせいしてるところだ」
「そうなの、本当に? 無理してない?」
「ああ。本音だ」
だが、これ以上のこっ恥ずかしい告白紛いのことまで、素直に口にしてやるつもりもなかった。だから、とウーノへ目を向ける。
「ところでお前。先刻、ミナが今更探されていたのは、お前らのせいだと言ったな。どういうことだ」
「―――それは……」
お恥ずかしい話なのですが、と。
前置きしてウーノは語り始めた。
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