第五章

5-1

 午下がりの街角は、不思議な沈黙に包まれていた。

 音がない。いつもなら聞こえるはずの、賑やかな街を走る車の音さえ。ばたばたと人が倒れ伏す道の端で、一人の少女と三人の男だけが、言葉を選びあぐねたまま佇んでいる。

「……その話、長くなるよね。アーク、多分だけど、君の貰った手紙も関係あるんでしょ? それ」

 肩をすくめながら、慎重に選んだ軽い口調で口火を切ったのは、すっかり人間の姿に戻って耳や尻尾も引っ込めたエリクだった。

「ああ」

「だったら、いつまでもここで話すのもどうかと思う。どっかに移動しよう」

「そうだな」

 頷いてみたものの、そのどこか、を考えても選びかねる。

店は既に、敵に割れている。ましてやこの街の中に、今安全な場所があるとは思えない。

「どうする?」

「……丸投げするな」

「そうは言ってもね。俺も君もズタボロだよ。こんな格好でここから出たら、通報されてもおかしくないよ」

 かといってこのまま街を出たら、エリクの言う通りになるだろう。八方塞がりだ。

―――と。

「あれえ? ちょっとちょっと、皆どーしたの!?」

 この場にそぐわない脳天気な声が、静まり返った通りに響いた。

 この声は。

「ニィ、……か?」

「アーク。やっほー、アルタンから連絡貰ったからさ、ちょっと戻ってみたんだよ」

 そこには、いつものようにオーエンを連れたスウィーニィの姿があった。猫の国、ケット・シーの王国へ帰ったはずの彼が、気楽な顔でひらひらと手を振りながら駆け寄ってくる。そういえば、彼の家はここからほど近くのアベニューCにあった。

 ニィは少しくすぐったそうに、肩をすくめて笑う。

「ありがとね、アーク。キャスに祝福をくれたんだって?」

「……呪いの間違いだろ」

「いや、祝福で間違いないよ。……感謝する、本当に。で、いったい君たちこれどうなってるの?」

 ふ、とアークは苦笑した。この光景を目にしながら、どうなってるの、の一言で済ますのだから大物だ。

「訳あって、少しの間隠れられる場所を探してる。だけどこの格好だから、街を出るのも騒ぎになりそうでな」

「ああ……、うん。ボロボロだよねえ君たち……そりゃ通報されるわ。特にエリク」

「俺ぇ!?」

「いやだってもうエリク、ほとんど裸じゃない。ストリーキングだよねそれ」

「しょうがないでしょ! 本性出さなかったら死んでたんだから!!」

 あっはっは、と声を上げてニィは笑った。

肩の力が抜ける。茶化すな、と怒る気にもなれなかった。きつく張り詰めていた糸が、ふっ、とほどけたような気がしていた。

「まあでも、そういうことならタイミングが良かったよね。ならばご招待しましょう、僕の家においで」

「いや、お前の家と言ってもな」

 アベニューC、すぐそこにあるニィのアパートメント。しかしこの街の中にいたのでは、またいつ操られた住民に襲われるか解らない。

 眉をしかめたアークに、違う違う、とニィは笑った。

「ご招待、って言ったでしょ。実家のほうだよ。オーエン!」

「了解です、ニィ」

 ス、とオーエンが、ニィの後ろから離れて四人の周りを歩き始めた。

「実家って、お前」

「そうだよ! ケット・シーの国においで。何せ僕の命の恩人だ、吸血鬼だろうと人間だろうと、国中が大歓迎だよ」

 見るとオーエンの歩いたあとが、ぽう、とほのかな緑色に光っている。フェアリーリングだ。佇む四人をぐるりと囲んで、きれいな円を描いている。

「それじゃあ、目を閉じて。慣れていないと酔うからね。おとなりの国へ、連れて行くよ。君たちは良き隣人だ、招くのに何の不足もない」

 歌うようにニィが言う。リー……ン、とどこか遠くで澄んだ鈴の音が鳴った。

 リー……ン、リー……ン。段々と近付いて、重なっていく。

「さあ行くよ! いち、にい、さんでジャンプしてね」

 陽気な声に導かれて、ミナを抱いたまま、アークは立ち上がった。

「いち、にの、……さん!」

 声に合わせて、軽く飛び上がる。

―――ふっ、とあれほど近かった鈴の音が途絶えた。

 そして静まり返ったイースト五番通りから、吸血鬼たちの姿はまるで最初からなかったかのように、唐突に消え去ってしまったのだった。




 教皇庁を出て当面の根城に決めたのは、化物どもの棲み着く街の一角だった。

 敵の本拠地へ乗り込んでいくなどやり過ぎか、とも思ったが、敵の身内へ入り込んでじわじわと削り取るならそのほうがいい。

 ロウアー・イーストサイドとやらは、まるでごみ溜めのような街だった。道行く人々の格好も下世話だし、そもそも景観も汚い。

 閉じたシャッターにスプレーで粗雑に描かれた落書きや汚く崩れた文字を、何故放っておけるのか理解に苦しむ。

 その上、あまりにも信仰が薄かった。ここは神に見放された街か、と、本気でそう思った。

 だが、だからこそ自分がここに来たのだ。力の見せ所だ、大掃除をしてやる。なに、簡単なことだろう。

―――人間たちに、ここは自分たちのものだと思い出させてやればいい。

 だからそうした。下賤の者に姿を見せてやるのは惜しかったが、先代も自ら下々の中に降りて声を掛けて回ったらしい。効率の悪いことだ、と思ったが、顔を合わせて語りかけるからこその力というのも侮れない。

「説得」は簡単だった。当然だ、真正なる神の代理人の言葉に従わない人間などいていいはずがない。中には頑固な者もいたが、神の力の前には無力だ。

 上手く行っていた。そのはずだった。

「やはりお前は、偽物だったのだな」

 少年は立ち尽くす女を前に短く吐き捨てた。

「……違うわ。私が、私こそが本物の」

「では何故、お前はここに居るのだ。首筋に牙の跡もない。やれやれ、お前を買いかぶっていたようだ。やはり本物でなければ意味がないのだな」

 本物。

 そう、本物だ。偽物では駄目なのだ。自分のような本物でなければ。失敗作の姉も、本物になれなかった兄も同じだ。自分が、自分こそが本物だ。結果を見れば解る。

 どうやら殲滅するのは失敗したようだが、「本物」たる自分の力はきちんと人々を動かした。やはり自分こそが本物だった。

 結果は残念だが、そこに確信を得られたのは成果とも言えるだろう。

 あとはもう少し手筈を整えて、今度こそこの街から化物どもを一掃してやればいい。

 もうあの失敗作のことは忘れよう。取るに足らない。化物どもも親玉を滅ぼせば、あとはそう手間も掛からないだろう。

 少年はふ、と考え込んでいた顔を上げた。

 もう用もない、というのに、女はまだ唇を噛みながら憎々しげな視線でこちらを睨み付けている。邪魔だ、どうしてもう用もないのだと理解しない。

 少年は改めて、女に向き直った。

「結局、お前はウィルヘルミナではないという一言に尽きるのだろうよ。ウィレミーナ。いくらお前が玄孫にしてはウィルヘルミナに生き写しだと言われていても、彼女にはなれなかった。だからあの吸血鬼も、お前には食指が動かなかった」

「……違うわ」

「どこが違うというのだ。やれ、ミナ・ハーカーは女神のごとき女傑だと聞いたのだがな。やはり偽物では駄目だったということだな」

「私がミナよ! ずっとそう言われて来たわ、私こそがミナの再来なのよ。私以外に、ハーカーの女であれを殺せる者はいないわ!!」

「だがお前は失敗したではないか」

 もういい、と少年は話をそこで切った。無駄な時間を過ごす趣味はない。

「伯爵を滅することはハーカー家の悲願。そう言われてお前に手を貸してはみたが、期待外れだ。これ以上の助力を望むなら、ウィルヘルミナ・ハーカー本人を連れてくるがいい」

「―――ミナは私よ!!」

「しつこい。お前ではなかった。お前はただの偽物だ。結果はもう出た。去ね」

 それ以上の会話はもう、必要がない。

 少年は無造作に手を振った。女は動かない。だが、もう構ってやる気も失せた。

 どかり、と粗末な椅子に腰を下ろす。こんなみすぼらしい主の家があるとは思わなかったが、もう少しの我慢だ。

 ここの化物どもを全て殺したら、胸を張って戻ろう。そうして言ってやるのだ、やはり私こそが本物であったのだと。

「楽しみだ……」

 さあ、そのためには一刻も早く逃がしてしまった吸血鬼、この街の化物どもに祭り上げられているあの親玉を捕まえなければ。

 今度は、私自身が出向いてやってもいい。主の威光の前に、ひれ伏す悪魔を見下ろすのも悪くない。―――

 少年はゆるゆると目を閉じた。

 すぐ傍ではまだ女が立ち尽くして、射殺さんばかりの視線で少年を見下ろしていたが、彼がそれを顧みることはけしてなかった。




 着いたよ、と笑う声に目を開ける。

「……アーク」

 抱きかかえたミナの手が、ぎゅ、と肩の辺りで千切れたままのシャツを握った。

「大丈夫だ」

「ようこそ、ケット・シーの国へ! ていうか僕の家へ、かな?」

 ニィはいつもの明るい顔をしている。その背中に、大きな石造りの城がそびえ立っていた。

「アーク。ここ、どこ?」

「話は聞いてただろ。ニィの国だ」

「妖精の国……?」

 さあっ、と涼やかな風が通り抜ける。あの街ではついぞ嗅いだことのない、濃い緑の匂いが鼻先を通り過ぎていった。

「常若の国じゃないけどね。ここもまあ、その一部というか。ともかくまあ、僕の国。僕の家だよ」

 門番だろうか、鎧を身につけた猫が慌てて駆け寄ってきた。

「スウィーニィさま!」

「あー、ごめんねえ、さっき出て行ったばっかりなのにね」

「いえ! お客様ですか」

「うん、そう。僕の友達。父上と母上にお目通りの許可を頂いてくれる? それからね、ごはんの用意と部屋の用意もね」

「はい。畏まりました」

 ニィは鷹揚に笑いながら、とても自然に、兵士へ指示をくだしていた。その後ろで、オーエンが一礼する。

「ニィ、私は一足先に、両陛下へ先触れを。門番には、荷が重いでしょう」

「あー……まあ確かにねえ。門番から侍従に行って侍従から侍従長に行って父上だし、そこからまた女官長に行って母上かあ……。うん、僕らのほうが早く着いちゃうよね」

「はい。……皆さんは、どうぞごゆっくりおいでください」

 再度恭しく一礼すると、オーエンは踵を返してそのまま城の中へと進んでいった。

 頼んだよー! とニィがその背中へ向かって手を振っている。

「……何でお城なの?」

 ミナが呆然と呟いた。

「待って待ってオーエン! その前に俺に何か着るもの!! ちょうだい!!」

 こんな格好じゃ、誰の前にも出られないよ! そう嘆くエリクに、んー、とニィが首を傾げて思案する。

「ちょっと汗臭いかもしれないけど、すぐそこに衛兵の詰所があるよ。そこに行けば、兵士のお仕着せならあると思うけど、それでもいい?」

「もう何でもいいよ! もー恥ずかしい!! 俺それまで狼でいるね!」

 言うが早いか、エリクはくるりと回ってすぐに狼の姿に変わってしまった。

 先刻までの小山のように大きく、堂々とした狼ではない。相変わらず銀色の毛並みはとても綺麗だが、ちょっと大きな犬、といった程度の大きさだった。

「あはは、エリクの狼姿初めて見た。かわいいねえ。……じゃあ行こうか、こっちだよ」

 のんびりと歩き始めたニィのあとについて、ようやっとアークたち一行も歩き始めた。

 振り返ると、ウーノと名乗った少年も大人しくついてきている。驚かないものだな、と目を伏せたその姿にアークは感心していた。

 ミナなど、ただでさえまるく大きな目を更にまんまるく見開いて、物珍しげにあちこちを見回しているというのに。きっと、自分に抱かれたままなことも失念しているだろう。

 アークは密やかに笑った。腕にずしりとかかる重みを、今はまだ、手放したくない。

「あ、エリク、そこだよ。兵士の詰め所」

「ォオン!」

 ニィが指差すが早いか、エリクは一目散に駆けだした。……あの姿のままでいって、混乱は起きないだろうか。ケット・クーの国ならともかく、ここは猫の国だ。

「大丈夫なのか」

「ここ数百年は、クーのひとたちとも交流があるからねえ。大丈夫じゃない?」

 ニィはへらへらと笑っている。それなら心配ないか、と安堵の息をついたところで、トン、と軽く、左の肩を叩かれた。

 ミナだ。

「ん?」

 何故か逸らされている顔を覗き込む。ほつれた髪の隙間から覗く耳朶の先が、ほんのりと桜色に染まっていた。

「お、下ろして」

「……今更か?」

 やっと気付いたと見える。ハ、と短く、アークは鼻で嗤った。

「今更でも何でもです。……自分で歩けるので、というかそもそも、わたし怪我とかしてないし」

「さっきまで、あんなに大泣きしてただろう」

「泣くのは怪我じゃないですよね!?」

「ハ!」

 ハ、ハハ、ハ。

 声を上げて笑うアークへ、一斉に視線が集まった。

「……アークが笑ってる……」

「えっちょっと待ってアークが笑ってる!? なになに、明日天変地異でも起きるの!?」

 詰所の扉をバン、と蹴り飛ばして、着替え途中のエリクまで飛び出して来た。……何の話だ。

「お前らな」

「だって俺八十年以上一緒にいるけど、アークが声出して笑うとこ見た事ないよ!? 初めてだよ!!」

 取り敢えずシャツをひっかけ、トラウザーズに足を通しただけという姿でエリクが力説している。そこまで言うほどのことか、とアークは短く舌打ちした。さすがに顔も険しくなろうというものだ。

「それはともかく、早くエリクさんはきちんと服を着て下さい!!」

 剣呑な空気を感じ取ったのか、慌てたようにミナが口を差し挟んできた。それから、またトン、と肩を小突いてくる。

「そしてアークさんも早く下ろして!」

「何だ、やっぱり降りるのか?」

「当たり前です、自分の足があるんだから」

「このまま抱えてやってもいいんだがな」

「……アークさん、何だかキャラ変わってません?」

 訝しげに鼻へ皺を寄せるその様子に、アークはまた笑った。

 こうして見ると、ミナは何だか少し、変わったように思う。どこか怯えて、優等生の返事ばかりをよこしていた時よりも、このほうがずっといい。

「……やっぱりアークが笑ってる……うわあ」

「それはもういい。とにかくエリク、お前は早くその格好を何とかしろ。生娘の前だ、刺激が強い」

「ちょ……アークさん!」

 しまった、ミナを怒らせるのは存外楽しい。

 くつくつと笑いながら、細い身体を丁寧に降ろしてやる。爪先がトン、と地面を捉えたところで、少しばかり惜しみながら手を離した。

「そ、それにしてもですね」

 ごほん、と必要もない空咳をして、やっと自分の足で立ったミナが辺りを見回す。

「本当に、妖精の国ってあったんですね。すごいです。絵本の挿絵そのままみたい」

 やわらかにそよぐ下生え。さやさやと鳴る葉擦れの音。

 城門をくぐって少し歩いたが、丁寧に世話された前庭は見事の一言に尽きた。刈り込まれた植え込みも、今を盛りと咲き誇る花々も、皆瑞々しく美しい。

「うん? 違うよ。ここも、僕たちと同じだよ」

 目をきらきらと輝かせて興奮しているミナを振り返って、ニィが首を振った。

「え? 僕たちと、って」

「ここもいうなれファントムだってことだよ。妖精の国がある、って人間たちが信じたから、想像したから、この国が生まれたんだ。全ての不思議は、結局きみたち人間が産み出しているんだよ」

「……ちょっと、信じられないです」

「あはは。でも事実そうだからねえ」

 ミナは難しい顔をして小首を傾げている。そうこうしているうちに、やっとエリクも衣服を整え終わった。

 シャツにトラウザーズ、それに軍装の上着という格好だが、鍛えた戦士のような身体には存外よく似合っている。

 アークたちはのんびりと前庭を進み、階段を上って城の正面まで辿り着いた。

衛兵がずらりと並んでいる。ニィを見て一斉に形式張った敬礼を施してきたが、当の本人はいつも通りの気楽な顔で、ひらひらと手を振るのみだった。

「殿下」

 城内へ足を踏み入れる。華やかなホールにわあ、とミナが口を開けて高い天井を見上げている。鮮やかな緋毛氈の伸びる緩やかな曲線を描いた階段。

 その左端から慌ててやって来たシルバーグレーの尻尾を揺らす初老の男が、それでも優雅さを失わないまま、ニィの前で深々と一礼した。

「ああ、侍従長。さっき出て行ったばかりなのに悪いね」

「なんの。じいめは嬉しゅうございますよ。殿下の御友人へお目にかかれるなど、なんと光栄でございますことか」

 初老の紳士は、穏やかな微笑みをたたえながら佇む一同を見回した。

「御友人の皆様方におかれましては、いつも我らが殿下をお心にお留めくださいまして、誠にありがとう存じます。両陛下もことのほかお喜びでございますので、宜しければこのままご挨拶を頂ければと存じますが」

「じい、じい。そういうのいいから。父上と母上の手は空いてるって?」

 いかにも仰々しい口上を遮って、ニィが苦笑している。殿下って。相変わらず目がまんまるなままのミナが、ぼそりと独りごちていた。

 このまま目が丸いままになってしまいそうだな、とアークはこっそり笑う。

「両陛下とも、一時間後にはご家族のサロンへお向かいになられますよ」

「あっ、良かった。謁見の間とかじゃなくてホント良かった」

「御友人さまがたのお迎えですから。私的な宮で宜しいかと、オーエン坊ちゃまが」

「さすがオーエン! で、そのオーエンはどうしてるの?」

「お客様がたのお部屋とお着替えとを、手配なさってございます」

「まーたあいつは従者みたいな真似を……助かるけどさ」

 ニィが不満げに頬を膨らませるなど、珍しいことだ。けれどすぐに振り返って、いつものように笑った。

「皆、ごめんね。一度うちの両親にちょっとだけ顔見せしてくれる? で、さすがにその格好じゃちょっとアレだからさ、着替えもしない?」

 そう言えば、とアークは自分を見下ろした。

 いつものシャツにトラウザーズ、それに上着……のはずだったが、シャツはあちこちが引き千切れてぼろぼろだったし、上着に至ってはもうただの布きれだった。エリクは兵士のお仕着せを借りただけ、辛うじて衣服そのものは無事ミナも砂埃だので汚れている。

「ありがたい。世話になろう」

 見れば、その場にいる全員が何とも言えない顔で自分の格好を確認していた。

……あっという間におとぎの国へ来てしまったから失念していたが、つい先刻まで、生きるか死ぬかの戦いだの、誘拐騒ぎだのの渦中にあった。全員が酷い有様だ。

 代表して頷いたアークに、よろしゅうございました、と初老の男がまた一礼する。

「では皆さま、ご案内致します。こちらへどうぞ」

 ぞろぞろと全員で、彼の後ろへついて移動を始めた。

 歩くアークのすぐうしろについたミナは、何やら考えているようだ。ややあって、くい、とアークの袖を引く。

「アークさん、アークさん」

「何だ。もう呼び捨てにはしないのか?」

「あれは……! その、危急の時だったので」

「下らん。敬語も尊称も、もう必要ないだろう」

「あのでもいきなりはハードルが高いです」

「人を叱りつけておいて、よく言う。いいから、そのまま話せ」

「えーとその……追々」

「今すぐにだ」

 今更、さん、などと呼ばれても、逆に落ち着かない。勝手に決めつけて、アークはささやかに背を屈めた。

「で、どうした」

 ミナの声を拾うために、耳を寄せる。

「いえ、あの。……さっきから何か、殿下とか両陛下とか、恐ろしい単語が聞こえるんですけど」

 それにここ、お城だし。嫌な予感しかしません。身を縮こまらせるようにした少女に、アークは少し笑った。

「お前でも恐縮するのか」

「何ですかそれ。アークさんにだって、ちゃんとしたでしょ」

「最初のうちはな。ところでアーク、だ」

「う。……」

 だが結局、アークは言質を取ることが出来なかった。そのあとすぐ、やって来た女官がミナ一人を別室へと連れて行ってしまったからだ。

 お嬢さまはこちらへどうぞ。お湯浴みも用意してございますよ。

 きっちりと髪を纏めた茶色い耳の女官に微笑まれたミナは、心細そうにこちらを見ていた。だが、さすがに着替えや風呂まで一緒でいい、とは言ってやれない。

 安全であることだけは確かなので、諦めて貰うほかなかった。

 そうして案内された一室には、既にオーエンが待っていた。見知った顔を見つけて、やけに大人しかったエリクがほっと安堵の息を吐く。

「オーエン会いたかったよ~。お城怖いよぅ、俺には縁がなさ過ぎるよ~」

 途端に泣き言が始まる。アークはそれを綺麗さっぱりと無視して、用意された着替えを手に取った。

「湯を貰う。こっちでいいのか」

「はい、伯爵さま。お世話の者をお付けしますか」

「構わん。それほど時間もかけられんだろう。ゆっくりはしていられないからな」

「畏まりました。では、こちらのドアの向こうをお使い下さい。湯を運んであります」

「助かる」

「ねえちょっと無視しないで!? オーエン!!」

 あははは。エリクかっこ悪い。ニィが腹を抱えて笑っている。

……つい数十分前までは、とてももう一度聞けると思わなかった笑い声だ。それを背中で聞きながら、アークはぱたん、とドアを閉めた。

 生きている。

 誰も欠けていない。ミナも再び、この手に戻った。

 改めて、実感がやってくる。胸に今まで感じた事のない何かが迫り上がってきて、束の間、アークは術もなくそこに立ち尽くした。




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