4-3

 何を得たのかも解らないまま、ただ満ちた、という感覚だけが胸をひたひたと埋めている。

 満足気に目を閉じたアークを、しかし揺り起こすのはやはりただ一人の声だった。

「ふざけないで!!」

「ハ……」

 アークは笑った。

 無事だったんだな。それに、泣いていない。

 怒っている。……ハハ、そうか、お前怒ってるのか。

「何が本望!? バカじゃないの、こんな道の真ん中でぼろぼろで、なにひとつだっていいことないでしょう!」

 ぽた、と。

 何かの雫が、頬に落ちる。ぽた、ぽたとまた続いて。雨でも降ってきたのだろうか。

「……ミナ、アークは」

「聞かない!」

 エリクが何かを言いかける。しかし、ぶん、と首を振ってミナは拒否した。

「知らない! 事情なんて知らないし知りたくない!!……このまま一人で逝ってしまうなんて、絶対に許さない!!」

 暖かい肌、が、唇に触れた。

「エリクさん、首! 支えてて!!」

「えっあっ、ハイ!」

 押し切られたエリクの手が、アークのがくりと力を失った首を横合いから抱える。それを待つように、唇に触れた肌、がずるりと横様に引かれた。

「ミナ! 君、何を」

「だってアークは吸血鬼でしょ!? だったら、これが一番じゃない!!」

 ちた、と、何かが口の中に落ちた。……甘い。何だこれは。ひく、と舌が引き攣るように動く。

「やめなさい。あなたの血は、彼にとっては猛毒だ。助けたいなら別の誰かに」

 知らない男の声がした。温かい肌が、口元から離れる。いやだ、行くな。もっと。

「ならない!!」

 ミナが叫ぶ。そしてまた、ぐいぐいと匂い立つようにやわらかな肌が、甘いそれが、口元へ押しつけられた。

「わたしがそう望む限り、この血の一滴、髪の一本まで、全てこの人の糧になる。だってわたしの心は、この人のものだ!!」

 白い光、が。

 目蓋を下ろしていてさえ、その内側までを眩く照らす。

 アークは震える舌をそろそろと伸ばした。

舌先が皮膚に届く。そこに感じたのは、焼け付くような熱だった。ああ、これはお前の肌か、ミナ。お前はやっぱり、俺を焼くんだな。

「………………」

 それでも。

 流れる血を、求めずにはいられなかった。

苦く砂のように舌を刺すはずの血は、とろけるように甘く、酒でもないのにくらくらと酔うような心地がした。

 べろり、と舌の腹を使って、肌を拭う。ぴちゃ、と微かな水音がたった。浅ましい。そう思いながらも、滴る血を啜らずにはいられなかった。

 飲み込んだ血が、自分の喉を通り過ぎていくのが解る。そうして内臓へ落ちる。熱い。それでも止められず、ずるりと流れる血を啜る。内側から焼かれている。それでもいい。

―――ああ。

 このあと、どんなに飢えてもいい。どれだけ酷い渇きにも、きっと俺は耐えられるだろう。

 醜く血にむしゃぶりつきながら、それでも、アークの口元はうっすらと微笑んでいた。

 ミナ。俺の「ミナ」はきっとお前だった。

ただ一度のお前の血、この記憶だけで、きっと俺は長い永い時間を生きていけるだろう。お前が逝ってしまったあとでも、ずっと。

「……アーク、」

 エリクの戸惑った声がした。

「……何、だ?」

 失っていくばかりだった力が、ゆっくりと戻ってくる。アークはのろのろと目蓋を持ち上げた。

 解る。身体が、肉の器が修復されていっている。乾いて萎んだ細胞のひとつひとつまでもへ潤いが行き渡り、ふっくらと膨らんでいくのを手に取るように感じた。

 傷口の肉が、盛り上がっていく。うぞうぞと蠢いて、やがてぴたりと傷口を閉じる。裂けた皮膚も同じに。

「アーク!」

 エリクが歓喜の声を上げた。バカだな、とアークはちょっと笑う。気の良い狼男。彼の人好きのするちょっと垂れた目の端には、うっすらと涙が滲んでいた。

「ミナ」

 ふ、と持ち上げて気付いた。右腕が、動かなかったはずのそれが自然に動く。

「アークさん……」

 そうして、見上げたその先では。

「……ミナ、」

 顔をくしゃくしゃにしてぼろぼろと大粒の涙をこぼす、ミナの姿があった。

「……っ、ざけ、……ふざけないで、くだ、っさい、」

 ひっく、としゃくり上げながら、小さな唇を引き結ぶ。

「……ああ」

「ほんっ、本望だ、なんて、そんなのっ」

「ああ。悪かった」

 おかしいな。泣いていないと思っていた。ただ、怒っているのだと。だってお前の声は、はっきりと怒っていただろう。

「当たり前です! 悪くない、なんて、……っく、言って、ません!!」

「そうだな」

 動いた右手を、ゆっくりと伸ばす。綺麗だ、と思った。まるく盛り上がっては溢れて、なめらかな頬を流れ落ちるミナの涙は透き通って、まるで慈雨のようだった。

「じゃあ、俺は謝る以外にどうしたらいいんだ?」

 その涙を、右手で掬う。けれど拭った傍から涙は溢れて溢れて、アークの指先までを濡らしても止まらない。

「ミナ。……教えろ、俺はどうしたらいい」

 確かめながら、のろのろと、身体を起こす。エリクの支えを外れて、自分の力で。

 半顔を覆ったままの包帯を、無造作にむしり取った。やっぱりだ。右目も、あれほど焼かれて爛れた皮膚も、全てが元通りに修復していた。

 胸に空いたはずの大穴は、もう、見る影もない。

―――ミナ。

 これは、お前の起こした奇跡か。

「い、いぎ、」

「うん?」

「生きて、ください。諦めないで……っ!」

 置いていかないで、と。

 しゃくり上げる涙の下、それまでの勢いが嘘のように小さな声で、ミナは呟いた。

「もう、いや。……置いていかれるのは、いや。捨てていかないで。ちゃんと、一緒に居て。どうせなら、……っ連れていって」

「……ミナ」

 子どものように泣きじゃくる少女の前に、アークは静かに跪いた。

 そして、両手を広げる。今まで誰にも、したことのない仕草で。

「……っわああああああ……!」

 ミナは恐れ気もなく、アークの腕の中に飛び込んできた。小さな手が、華奢な指が、その頼りなさからは想像もできない力でぎゅっ、としがみついてくる。行かないで。ミナは何度も、そう繰り返した。アークは笑う。ばかだな、俺を置いて勝手に攫われて行ったのはお前だろうに。少しは自分の心配をしたらどうだ。……まったく、お前らしい。

 泣きながら震える身体を、そっと抱き締めた。暖かい。どれほど酷くとも耐えてみせよう、と思った飢えと渇きは、何故かやってこなかった。むしろ生まれ落ちてこのかた感じたことのない、確かな充足が、アークの身体の隅々までを潤している。

 しがみつくミナの背をぽん、ぽん、と叩いてやりながら、アークはゆっくりと首を巡らせた。

「悪かったな、エリク」

「……あのまま死んでたら許さなかったけど。生き返ったから、チャラにしてあげるよ」

 目の端を赤くしながら肩を竦めるエリクに、アークは再度ひっそりと笑った。ああまったく、この狼はどこまでもお人好しなのだ。

 それから。

「お前は?」

 ミナのうしろ、見知らぬ少年に目を留めた。

 何故か、胸を突かれたように切なげな顔をしている。

 まだ年若いのに、白いシャツに仕立ての良いトラウザーズという、随分前時代的な格好をしていた。良く言うなら良家の子息、といった風体だ。少なくとも、この街で見る少年の姿ではない。

「……私は彼女の……、いえ」

 少年は、言いかけて力なく首を振った。

「あなたがたは、知らないほうがいいでしょう。関われば、余計な泥沼に足を踏み入れることになります」

 だが。

「そうもいかない」

 アークは短く、それを否定した。

「こっちは大人しく平和に暮らしてるってのに、手を出してくるのはそっちだ。……お前、『教会』の関係者だな。西から来たんだろう?」

「……………」

「何も知らないまま、やられっぱなしでいるのはごめんだ」

 そう吐き捨てたアークに、少年は哀しそうに微笑んだ。柔和な目をそっと伏せて、少しの間、沈黙する。

 そうして、しばらくして。

「私は……ウーノ。ヌーメリの一番、ウーノ。一番目の子供です」

 迷いながらも、少年は静かに口を開いた。それから、とその視線が、未だ泣きじゃくるミナを差す。

 どこか悼ましそうに。

「彼女はゼェロ。プロトタイプの、ゼェロ。女性だったので試験作となりました」

 ひっく、と腕の中でミナがしゃくりあげる。その丸い小さな頭をそっと撫でながら、アークはひそかに嘆息した。

 少年、ウーノは続ける。まるで全ての罪を、告白するかのように。

「私たちが何かと問われたなら、こう答えるしかないでしょう」

私たちは、神の子。

「神の遺伝子から造られた、人造の救世主予備軍なのです、―――と」

 ひくっ、と、ミナの呼吸が一瞬、止まる。

 腕の中から泣きはらした目を大きく見開いて、弟だという少年を見据えるミナに、愛しいその娘に。

 掛ける言葉を、未だアークは持っていない。




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