4-2

―――おもてが騒がしくなってる……。

 どこかも解らない飾り気のない小さな部屋の中、ミナはそわそわと椅子から立ち上がった。

 あれから、どれくらい経ったんだろう。壁に掛けられた時計を見上げる。

 時刻はもうすぐ午後一時。……まだ、店の鍵を開けてから、三時間ほどしか経っていなかった。体感では、もっともっと長く、半日以上が経っているような気がするのに。

 ただ待つだけの時間は長い。ミナは知らず、胸の前に両手を重ねていた。神さま。神さま。―――我らが父なる主イエス・キリストよ。

 いつものように祈ろうとして、キュ、と唇を引き結ぶ。

 エリクを傷付け、自分を攫った人たちは僧服を身につけていた。自分を姉、と呼びながら、出来損ないだと嗤った少年は、聖職者の身に付けるカソックを身に纏っていた。

 これが神さまの所業なら、もう、神さまになんて祈らない。だけど。だけどあれは間違った何かで、もし本当に、主の御心に適うのが自分たちなら。

……解らない、とミナは眉をしかめた。

 これまで、ミナの世界は単純だった。

 教会附属の養護院で、牧師に育てられたミナだ。洗礼こそまだ受けてはいなかったものの、神に祈り、清貧を友としながら、毎日を過ごしてきた。

 主は全てをご存知だ。

 その言葉を信じて、正しくあろうとしてきた。汝の隣人を愛せ、分け与えよ、もし右の頬を打たれたなら左の頬も差し出しなさい―――

 けれど今は、もう、それを頭から信じることはできない。

 必ず。必ず、あなたをここから逃がします。

 この部屋を訪れたただ一人の少年は、そう言ってスゥ、と空気に溶け込むように消えた。

 あれは現実だったんだろうか。都合のいい夢を見たんじゃないか。そもそも、本当に逃がしてくれる人、なんてものが、都合良く現れるものだろうか。

 この街に来てからというもの、これまで当たり前だったことが音を立てて崩れている。

 まさか本当にケット・シーや狼男、なんてものが実在するなんて思ったこともなかったし、挙げ句の果てに、自分を保護してくれているのは吸血鬼ときた。そんな妖精や怪異なんて、全部本や想像の中の話だと思っていたのに、現実はその斜め上を見せつけてくる。

「どうしよう……」

 解らない。そもそも、何でエリクが刺されて自分が攫われているのか。あの場で一番、何の力も持っていなかったのは、自分だ。すぐに殺されたって不思議じゃなかった。

 どうして自分は、ここにいるんだろう。エリクは無事だろうか。何もかもが解らないまま、ただ、この部屋に閉じ込められている。

「……ううん」

 ミナはぽつり、と呟いた。

「祈るだけじゃ、だめなんだ」

 祈って、いったい何が変わったか。主はただ縋るためのものじゃなかった。与えられた恵みに感謝する、祈りはそのためにあるもので、何かを願うものではない。

 だったら。

「……………っ」

 ミナはきゅ、と小さな拳を握り締めた。そうして、今まで座っていた椅子をずるずると引き摺りながら部屋の中を進み、扉の前までやってくる。

「すい……ません。誰か、……いませんか……」

 出来るだけ弱々しい声色を作りながら、ドン、と扉を叩いてみた。

「誰か、……お願い。お腹が痛くて、寒くて」

 ドン、ドン。

 言いながら、ドアを叩く。この部屋が外側から施錠されているのは、既に確認済みだ。

 もし誰かがここを見張っているなら、まだ、できることがある。

「薬を、鎮痛剤をください。それから毛布も」

―――祈るだけじゃ、何も変わらない。

 人事を尽くして天命を待つ、という故事もあった。だから。

「どうかしましたか?」

 ガチャ、と鍵の回る音がした。椅子を掴む手に、ぎゅ、と力が籠もる。

「あの、お腹が痛いんです。冷えたのかも。出来れば毛布と、鎮痛剤が欲しいんですが」

 それでも、やっぱり、やってはいけないことをするのは怖い。それが誰かを傷つけることなら、尚更。声が震えないように、掴んだ椅子を必死に握り締める。

「腹痛?……それは」

 カチャ、とドアノブが回った。ミナは待ちかねたように、そのために運んだ椅子を振り上げた。

「大丈夫ですか。どうか落ち着いて。今、毛布と薬を」

 持って来ますからね。言いながら、灰色の僧服を着た男がドアを開ける。頭を僅かに下げて、そのドアを潜ろうとしている。

「―――っ」

 その頭に、この椅子を叩き付けて。

 昔読んだ小説や漫画なら、そうやって気を失わせて、監禁場所から逃れるのだろう。何度もそういう話を読んだ。

 だからミナも、それに倣おうと椅子を振り上げていた。だが、打ち下ろせない。

(どうするの……!?)

 そんなに簡単に、人を傷付けていいのか。

 鉄とプラスチックで出来た、丸い座面の小さな椅子。それでも、堅いそれで頭や首を打たれたら、きっとただでは済まないだろう。

 そもそも、頭を打って気を失う、なんておおごとだ。普通だったら、病院に運ばれるレベルの話だ。そんなことを、誰かにしてしまっていいのだろうか。いくらここから逃げなければいけないからといって、本当に。

 迷って迷って、……けれどやはり、ミナには椅子を振り下ろすことは出来なかった。

「お嬢さん!? あなたいったい、」

 入ってきた男が、ミナの姿を見てぎょっと目を剥く。そうして、素早くミナの手首を捕まえた。

「いやっ……」

「何をしようとしてるんです! 暴れないで、おとなしく」

 していなさい、と。

「―――『眠りなさい』」

 しかし男は、それを最後まで言い切ることなく、どう、とその場に崩れ落ちた。

「え……」

「……まったくあなたという人は。待っていてくださいと、言ったじゃないですか」

 倒れた男の背中に隠れて、もう一人、同じような灰色の僧服を着た男が立っていた。

 目を瞠るミナの前、困ったように肩を竦めてから、深くかぶっていたフードを外す。

「……あなた、」

「でも、……あなたが椅子を振り下ろせない人で良かった。それでこそ、私はあなたの自由と幸福とを願える」

 そこにいたのは、先刻、空気のようにふわりとミナの前から姿を消した少年だった。

 本当に、来た。

―――必ず、と言ったその言葉は、嘘ではなかったのだ。

「いいタイミングでしたよ。ちょうど迎えに来たところでした。……今、ここはちょっとした騒ぎになっています。ヌーメリが全員出払っている今が好機だ、急いでこれを着て」

 ヌーメリ? 首を傾げるミナに、少年はちょっと笑いながら、自分も身に付けている灰色のだぼっとした僧服を渡してきた。

「英語で言うなら、ナンバーズ、ですね。……番号を振られて名前も呼ばれない、哀れな実働部隊ですよ。さあ、いいから早く、頭からかぶって」

 修道士の着るような灰色の僧服は、頭から爪先までをすっぽりと覆うような重たいローブだ。腰のところを、ファシア代わりのロープで結ぶ。

「フードの中に髪を全部入れて。見えないようにして下さいね。ヌーメリには長髪の子はいないから」

「……これ、そのヌーメリって人たちの服なんですか」

「そう。気に入らないかも知れないけど、我慢して下さい。ヌーメリはここを根城にはしていても、一種の治外法権なんです。これを着ていれば、見咎められることはない。いわゆる、触らぬ神に……というものなんですよ」

 おどけたようにそう言った少年は、ミナの被ったフードをちょい、と引っ張って整えると、すぐさま部屋を出て歩き始めた。

「……日本語までご存知なんですね」

「教養のひとつとして、少しかじっただけですよ。会話も読み書きも出来ません」

……あなたは、日本で育ったんですか。振り返らないままそう問いかけられて、ミナは少しだけ、歩調を早める。

「答える義理はないけど、そうです」

「ふふ。確かにありませんね。でも、そうですか。日本ですか……」

……それは確かに、盲点だろうな。極東までは、中々手が伸びない。

 独りごちたその台詞には、どんな意味があるのだろう。思わせぶりはもう沢山だ。

「……なんでわたしは、ここに攫われてきたんですか」

 話しながらも、廊下を進む。階段を上がって、また廊下へ。

 監禁なんてされていたのだ、どんなおどろおどろしい建物かと思ったけれど、見る限りそこは普通のビルか何かのように思える。

 煌々と明るい蛍光灯に照らされた廊下の壁には、時折、子どもが描いたと解る絵やポスターが貼ってあった。

「知らないほうが良い、と言ったでしょう? 知らないままでいてほしいとも」

「それはあなたの都合なんじゃないですか。わたしには関係ないです」

 時折、誰かと擦れ違う。

 フードを深くかぶって俯いたミナには顔が見えなかったが、視界に映る胸から下はカジュアルなトレーナーやジーンズにスニーカー、という格好で、とても自分たちを襲った人たちの根城にいるとは思えないほどの普通さだった。

「……それを言われてしまうと、そうなのですが。知らないでいることは、あなたのためでもあるんですよ」

 少年は進む。擦れ違う人に会釈もしないまま、ただ淡々と。

 やがて行き当たったドアを開けたその先を目にして、ミナはあっ、と思わず声を上げた。

「聖堂……!」

 それは、アークと買い物に出かけた帰り道。

 公園の向かい側、開いた扉の隙間から垣間見えた、あの壮麗な壁画の描かれた聖堂だった。

 ここは、アベニューBに建つカトリック教会だったのか。

「……上手く行きましたね。このまま、教会を出ますよ」

 聖堂には、ちらほら信者の姿があった。子どもを連れた人もいる。どこにでもある、平和な光景だった。玩具の足蹴り車に乗せられた幼児が、ぶうぶうと言いながら一生懸命に床を蹴っていた。

―――この人たちは、ここで何が起こってるのか知らないんだ。

 隠された裏側。きっとミナが知らないだけで、こんなことはどこかでこれまでにもきっと沢山あったのだろう。

 裏側があるなんて知らない人々にとって、それは多分、なかったことと同じなのだ。今までの、何も知らないミナのように。

「さあ、あなたを待つ人のところへ帰りましょう。もう少し進んだら、路地裏かどこかでこの僧服を脱ぎます」

「……はい」

 あの時覗いた、観音開きの扉から外へ出る。誰にも咎められることのないまま、呆気ないほどあっさりと、脱出できてしまった。

「ふふ。気が抜けた、という顔ですね」

 やっとこちらを振り返った少年が、笑う。ミナは嘆息しつつ、ゆるゆると首を振った。

「だって、監禁とかされたんなら、もうちょっとこう……」

「言ったでしょう。彼らはあなたには何も出来ない、と思って、総出で任務に出かけたんですよ。ここに残っているのは、何も知らない善良な司祭と助祭、そして信者たちだけだ」

「……司祭さま? でも、じゃあ、わたしたちを襲ったひとたちは」

「あなたは知りたがりですね。知らないほうがいいと言っているのに。……ここの教会に所属する者ではない、とだけ言っておきましょう」

「あなたも?」

 公園の前を通り過ぎ、角を曲がる。これは、あの時歩いたイーストの七番通りだ。

「……ええ」

 このまま、この通りを進んでアベニューCへ。そうしたらまっすぐ南下して、イースト三番の通りに入れば、アーク骨董品店までもうすぐだ。

 早足に、ミナは歩いた。途中、少年の指示通りに僧服を脱ぐ。ちょうど良くあった路地裏のゴミステーションに、ぎゅっと小さく丸めて捨てた。

 あと少し、あと少し。そう思いながら、道を急ぐ。それほど経っていない、とはいえ、それでも自分たちが襲われてから数時間は過ぎていた。

 最後に見たのは、ナイフで刺されたエリクの姿。店の外だったからきっともう、誰かの通報で救急搬送されているとも思うけれど、それでも何一つ安心は出来ない。

 狼男のエリク。……倒れた時、彼は人狼の姿のままだった。

 騒ぎになったりしていないだろうか。アークもすぐに来る、とは言っていたけれど、本当にすぐ駆けつけてくれたのだろうか。そのまま完全な狼の姿に変わって、もしかして野良犬が倒れていると間違われたりしていないだろうか。……

 次々と心配事ばかりが思い浮かんでいく。唇をぎゅう、と引き結んだまま、ひたすら、ミナは道を急いだ。

けれど、その途中で。

「どうしました?」

 ぴたり、と足を止める。

「……こっち」

「え?」

「こっち、です。こっちに、行かなきゃ行けない……気がします。多分」

 それは、通ったことのない通りだった。角の標識には、イースト五番通り、と記してある。

「あなたの家は、この道ではないのでは?」

 少年が小首を傾げたが、ミナはぶんぶんと首を振った。

「でも、こっちです。行かなきゃ。……急がなきゃいけない気がします……!」

 言うが早いか、ミナはその場から駆け出した。

 道が広く、様々な店舗も多いアベニューCとは違って、飛び込んだイースト五番の道は細く、雑然としていた。道の両側をずらり、と路上駐車の車が埋めている。等間隔に植えられた街路樹の下には、雑然と散らばるゴミ袋。

 そうして、ぎっしりと身を寄せ合うようにして建っているのは、似たような顔をしたアパートメントやロウハウスばかりだった。あまり治安の良くない住宅地、なのだろうか。

……だけど、人の姿がない。

「待って、一人で行くのは危険です」

「じゃああなたも急いで!! 早くしなきゃいけないの、多分!」

 うしろから少年が声を掛けてきても、ミナは立ち止まりも、振り返りもしなかった。全速力で走る。少しすると、歩道のあちこちに人が倒れているのが見えた。また先へ進むと、今度は車道にまで。

「これは何なの……!?」

 思わず呟いた、その時。

 ビリビリと、空気までが震えるような咆吼が、辺りへ響いた。

「知ってる……」

 この声を知っている。つい先刻、聞いたばかりだ。

―――エリクの遠吠え。

 だけど、あの時よりもずっと強く、ずっと大きい。身体が押し戻されそうな圧力まで感じる。

「エリクさん」

 その圧力を押し戻すように、ぐ、と爪先に力を込めて、ミナは更に通りの奥へと進んだ。

 人が倒れている。沢山。奥へ進むほどに、倒れ伏す人の数が多くなる。突き当たりが見えてきた頃には、もう歩く場所にも困るほど折り重なって倒れていた。

「……エリク?」

 そうして、大きな建物と道の終わりとを分けるフェンスの手前で。

 座り込んだ銀色の毛皮が見えた。

「やっぱりここに、」

 近寄ろうとして、けれどぎくりと足を止める。エリクは地面に座り込んでいた。そうして、その腕に。

 力なくだらりと腕を垂らして、倒れ込む、見慣れた黒髪の男の姿があった。

「―――アークさん!!」

 ああ。

(わたしは、)

 ミナは再び、走り出した。もう其処此処に倒れている人々の姿を、うしろをついてきているのかどうか解らない少年のことさえ、どうでも良かった。頭からきれいに消えていた。

(このためにここに来たんだ。今、ここに)

 引き寄せられるような、不思議な感覚。ここに来なければならない、急がなければならない、という胸のざわめき。

 それは多分、全て、ここに駆けつけるためだった。

 確信、だった。揺るぎなく強く、ミナは唇を引き結んで、彼の元へ駆けた。

 わたしは、このひとのためにここに来たんだ。ただ、このひとのためだけに。

 理由なんて解らない。脈絡もない、もしかしたら、意味だってあるかどうかも解らない。

 それでも、それは間違いではない。ミナは走る足を更に速めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る