第四章
4-1
その遠吠えは、アベニューCを歩いていたアークの耳にも、微かに届いた。
「……エリク?」
もう数十年も、聞くことのなかった遠吠え。仲間に危機を知らせる声だ。
そもそも、エリクは完全な獣型を取ることさえほとんどなかった。この遠吠えは、顔まで狼に変化するのでもなければ、喉の造りが違って出せない。
アークはぶわり、と黒い靄に変化した。
「何があった……!?」
本当ならこのまま飛んでいくのが一番早いが、この昼日中にそこまでの無茶は出来ない。身体を、魔力を無数の蝙蝠へ変えて、ビルの影に紛れながら一路、家を目指す。
こんな普通の、平日の、真っ昼間だ。そうそうおかしなことは起こらないと思っていた。
―――甘かったのか。
ギリ、と奥歯を噛みしめる。急げ。早く。
エリクは強い。だけど今、あの家にはミナが居る。
あの肉の薄い、頼りない身体をした儚い小さな生命が。きっと誰を打ったこともない、ひ弱で脆い少女が。
失われる?
「―――ッ!!」
ぐん、と蝙蝠の飛びすさる速度が上がった。寒気が走った。はっきりと、恐怖した。
あんな脆い身体、きっと簡単にすぐ壊してしまえる。エリクの振った片腕に、間違って当たりでもしたらそれで終わりだろう。ましてや、悪意をもって打たれたら、きっと一発で片が付く。
だめだ。そんなことは許せない。
―――相容れない暖かさだった。居心地の悪い、平穏だった。
それでも、けして入れないはずのそこに自分をすんなりと、至極当然の顔をして招き入れてくれたのは、あの娘だ。ミナ。そうだ、ただ一人のミナという、あの少女だ。
あの平穏、あの清浄、善なるもので造り上げたその場所に。
居ていいのだと、居ることこそが当然なのだと。何の疑問もなく待ってくれたのが、彼女だった。彼女だけが、それを成し遂げてくれた。
―――夜を歩く者。不死者の王。
死と血と破滅と廃頽。それしか持たないはずのアークを、彼女だけが暖かなものの中に。
そうか、俺はあれが欲しかったのか。アークはそう、唐突に気付いた。
あの中に入りたかったのか。けして手に入らないと斜に構えて、いざ差し出されてみれば逃げ出してしまったくせに。
自分はずっと、あの暖かな光の中に入ってみたかったのだ。―――そう、ごく普通の、何の変哲もない、ただの人間のように。
「クソ、足りねえ、もっと早くだ!!」
凄まじい速度で、蝙蝠は飛んだ。それでも少しも足りなかった。気ばかりが急く。風を切って空を征きながら、もっともっとと心が叫ぶ。
―――ミナ。
どうか、どうか無事で居ろ。俺がそこに着くまで、ほんの少しだけだから。
こんな時でなければ、きっとアークは自分を嗤っただろう。化物が、誰に向かっても解らず祈るなんて、と。
それでも、祈りは裏切られた。
「エリク!!」
焼かれた右腕、未だ修復の敵わない半顔。大きく欠けてしまった魔力。
それでも今、出来うる限界までを使って急いだその先でアークが目にしたものは、店のドアの前でぐったりと倒れる知友の姿だった。
「エリク、しっかりしろ!」
伏せた身体を抱え起こす。その引き締まった腹、銀色の毛皮に、厚みのある両刃のコマンドーナイフが突き立っていた。
「クソ、どうすれば」
「アー……ク?」
うっすらと、エリクが目蓋を持ち上げる。根元近くまで突き立てられたナイフの一撃は、狼男でもさすがに重い。アークはその肩をがっしりと支えて、首を振った。
「喋るな。今塞いでやる」
「アーク、……ミナ、が」
「喋るな!」
怖い。
今、いくら見回してもここに姿のないミナのことを考えると、身体中の血が冷えていくような気分になるほど怖い。あれが失われてしまったらと思うと、気が狂いそうだ。
だけど、同じくらいに。
産み落とされてからの大半を共に過ごしたこの、お人好しな狼男もまた、アークにとってけして失えないもののひとつだった。
「……ナイフ、抜い、……」
「ああ、抜いてやる。こんな傷、俺がすぐに塞いでやる。エリク」
「違、……これ、が邪魔、で、治らない」
「何……?」
「い……から、……早、く」
「っ、……解った。少し耐えろよ」
ぐ、とナイフの柄を握った。重い。やわらかな内臓を、刃先はきっと貫いて大きなダメージを与えている。
傷を塞ぐことは出来るだろう。けれど、修復まではどうか。エリクは人狼は人狼でも、精霊種だ。その性質は、善なるものだ。真正の魔でしかない自分とは違う。
「…………っ」
ああでも、もう、迷っている時間もない。アークは唇を引き結んで、一気にそのナイフを抜き取った。
「エリク、」
そうして、すぐにいつものように、自分の魔力で傷口に蓋をしようとする。
しかし。
「アー……ク……」
その時になって、やっと気付いた。友の銀色の毛皮が、その色だけでなく、外側からも、包み込まれるようにほのかに輝いていることに。
「……………」
息を飲んで、その様子を見つめた。ぽっかりと空いた毛皮の裂け目、その内側で、もぞもぞと肉が動いている。ぬろり、と粘膜が広がり、神経が伸び、断たれた血管さえ引き合うようにして、その断面から繋がっていく。
「これは……」
「っ、う、」
それ、は痛みを伴うのか、掠れた声でエリクが呻いた。だが、そうしている間にも修復は進み、やがて傷口の肉がゆるゆると盛り上がって閉じていった。
解る。
あの力だ。嫌な気配。相容れないもの。自分を焼いた、光。
―――これは、ミナの内側から溢れたものだ。
何故だろう、今は、少しも不快に感じない。むしろ暖かくてやさしく、どこか甘い。
「はあっ……」
少しして、エリクがひとつ、大きく息を吐いた。やっと呼吸を取り戻した、そんなふうな息だった。
「エリク」
「……アーク。ミナちゃんが、……連れ去られた」
「ああ。そのようだな。……お前の傷はどうだ。見たところ、塞がってはいるようだが」
「うん。……あの子は、すごいね。もうどこも痛くないよ。……でも、血までは戻ってないみたいだ。ちょっとふらつく、かな。だけど動けるよ」
大丈夫。そう言いながら、ゆっくりと起き上がる。
「無理するな」
「するよ。当然でしょ。早く取り戻さなきゃ。泣いてなかったけど、……無茶をしそうで、そっちのほうが怖いよ」
「そうだな……」
ふ、と小さく、アークは笑った。
いっそ儚いと思えるほどの、脆い身体。けれどミナは、そこで蹲って泣くだけの少女ではなかった。
思えば、最初からそうだったではないか。
冷たい言葉を投げかけようと、素っ気ない態度で突き放そうと、鼻歌まで歌いながら店の掃除をして始めた。そうして、結局はすんなり自分たちに馴染んでしまった。
そういう娘だったのだ、初めから。戸惑いながら、それでも一歩ずつ、確かに前を目指すような。
「アーク。俺結局まだ聞いてなかったんだけど、何であの子は攫われたの。あの手紙には、いったい何が書いてあったの」
「それは……」
今、ここで、その話をしていいものか。一秒にも満たない瞬間、アークは迷う。
そして。
「……ミナをお探し?」
その瞬間を見透かしたかのように、カツ、とあのヒールの足音が、二人の前へ響いた。
「それなら、ここに居るわよ。伯爵。あなたの探していた、ミナ・ハーカーが、ここに」
「……お前……」
夢のような女。
ずっと焦がれ続けた、甘い血の持ち主。ただ一人、自分のこの飢えを、渇きを、満たすことの出来る女。
―――ウィルヘルミナ・ハーカーが、まるで小説から抜け出たようにクラシカルな衣服をまとって、端然と、そこに佇んでいた。
身体が重い。
呼吸が浅くて、妙に息苦しい。
「……う、……」
寝返りを打とうとして出来ず、ミナは眉をしかめながら、渋る目蓋をのろのろと持ち上げた。
背中が痛い。身体中が、ぎしぎしと軋む気がする。
「……ここ、は―――」
そうしてやっと映った視界の中、見た事のない無機質な天井と、冷たい壁だけが静かにそこにあった。
「どこ、だろう。わたしどうして、……」
そうして、不意に思い出す。どうして自分が、ここに居るのか。その直前に、いったい何があったのかを。
「っ、エリクさん……!」
目の前で刺された、優しい人狼の姿が鮮やかに蘇る。腹。やわらかな毛皮を突き破って、ナイフはずぶずぶと根元まで彼の腹へ埋まっていった。為す術もなく、その様子をスローモーションのようにただ、見つめていた。
「やだ、だめ、早くここから出なきゃ」
アークはまだ、あの家に辿り着いていなかった。エリクはすぐに戻ってくると言ったけれど、それが本当かどうかは解らない。
だから、戻らなければ。帰らなければ。彼が気を失う前に。誰にも気付かれず打ち捨てられて、そのまま失血してしまう前に。
ミナは勢いよく跳ね起きた。相変わらず、身体が鉛でも詰め込んだように重い。その上、あちこちが油の切れた機械のように軋む。それでも、そんなものにかまってはいられなかった。一刻も早く、あの家に戻りたかった。
「……目が覚めましたか」
だが。
部屋の隅から穏やかにかけられた一言が、ミナの動きを制した。
「誰!?」
「驚かせてしまいましたか。すいません。……大丈夫、落ち着いて。私はあなたの敵ではありません」
ス、と、足音さえ立てずに、背にした壁際から一人の男が進み出てくる。
まだ若い男だった。青年、と少年のちょうど合間にいるような年頃の男。
焦げ茶色の巻き毛と、同じく濃い焦げ茶色の瞳。その面差しは、嗤いながらエリクの目を抉らせようとしていた、あの少年にとてもよく似ていた。
「っ……」
咄嗟に身構える。目の前の男は、あの時自分たちに襲いかかった男たちと同じ、灰色の僧服を身につけていた。
どこが敵じゃない、だ。あの仲間じゃないか。キッ、と強い眼差しで睨み付ける。男は、肩を竦めて少しばかり苦笑したようだった。
「すぐに信じられるはずもないでしょうが、私はあなたを害するものではありませんよ。……少しだけ、待っていて下さい。必ずここから、あなたを安全に逃がしますから」
敵意は感じない。そうして、あの嫌な、間違った何かも。
「……あなたは、誰。何でこんなことを、するの」
それでも、到底鵜呑みにはできない。問いかけたミナに、男は得も言われぬ微笑みを浮かべた。
「……私は」
その瞳に浮かぶ色を、何と呼べばいいのだろう。
「あなたが、とても慕わしい」
ミナにはまだ、それを上手く言い表す言葉がなかった。しかし、それが嫌なものでないことだけは、何故かすんなりと伝わって来た。
「何が望みなの」
「何も。……私をあなたが知らないのなら、そのままでいてほしいのです」
「どういうことなの。意味解らないです」
「どうか、知らないままで。きっと、自由に生きられるのは、あなただけだから」
「余計解らないんですけど」
「それが私の望みですよ。だから、あなたはこんなところに居るべきではない。あなたを待つ人のところへ、帰らなければ」
「―――帰りたいよ!!」
同意も得ず、無理矢理こんなところへ連れてきておいて、ぬけぬけとよく言うものだ。
「帰りたいよ、当たり前でしょ!? 今すぐだってここを飛び出したいよ、出してよ!! わたしを、あの人たちのところに行かせてよ……!!」
怯えなど、感じる暇もなかった。
突き抜けるように溢れるのは、ただ、怒りだけだ。身体中を暴れ回って、今にも爆発しそうなほどに。
「……勿論、帰します。お願いだから、どうか少しだけ待って。きっとすぐに、騒ぎが起きるはずです。あなたがそれほど想う人たちが、どうしてあなたを取り戻さずにいられるものか。その騒ぎに乗じて、あなたをここから、必ず、逃がします」
ひとつひとつの言葉を噛みしめるように、男は力強く、ミナへとそう告げた。
その言葉に、嘘はないようにミナには思えた。だけど、どこまで信じて良いのか解らない。
「……どうしろっていうの……」
こんなことなら、無茶な要求でもされたほうがずっとましだった。だってそれを叶えれば、あの人たちのところへ帰れる。
「待って下さい。ほんの少しだけ、我慢して」
「信じない」
「ええ、それでもいいんです。……私は、私のしたいようにする。そして望むのは、あなたの自由。ただ、それだけなのですから」
男は静かに微笑むと、またスゥ、と空気に溶け込むように、その存在感を薄くした。
「……必ず。必ず、あなたをここから逃がします。どうか焦らないで。時を待って下さい。すぐにその時がやって来ますから」
どうしてだろう、信じたくないのに男の言葉は染みこんでいく。
「……知っていますか?」
そうして最後に、ほんの少しだけ、男は悪戯に笑った。
「わたしはどこにでもいる。そうして、どこにもいないんですよ」
次の瞬間、まるでそれが映像であったかのように、男の姿は、空気に溶けてサッと消え去ってしまったのだった。
―――確かに、ずっと、探していた。
探すものかと身体は留めながらも、心はずっと、叫ぶようにして求め続けていた。
ミナ。ウィルヘルミナ。ただ一人の女。「俺」を滅ぼした、唯一の女神。
「……誰がお前をここに寄越した。教会か」
さすがにタイミングが良すぎる。アークはじろり、と女を睨んだ。こんなものが、偶然であるはずがない。
「そうね、協力はして貰ったわ。あなたたちを敵だと思っている、可愛らしい男の子。でも私もずっと、長い永い間、あなたを探していたのよ。だから遅かれ早かれ、私たちは必ず出会ったわ。解るでしょう?」
女は笑った。艶然と。それはアークの知る女の笑みでは、けしてなかった。
「さあ、伯爵。私の手を取って。血が必要なのでしょう? 可哀相に、ずっと出会えませんでしたものね。私の血が、飲みたかったのでしょう?」
言いながら、女の手が詰まった襟のボタンをぷつり、ぷつりと外している。匂い立つような白い肌が、その下から現れていく。
だが、アークはきつく歯を食いしばった。
「……えじゃない」
耐えているのではない。
「なあに?」
「お前じゃない!!」
手に負えないほどの怒りが、目の前を真っ赤に塗り潰しているのだ。
「―――エリク、行けるか。ミナの匂いが辿れれば、一番早い。無理なようなら、蝙蝠を使って探させる」
「出来るよ。大丈夫。どれだけあの子と過ごしたと思ってるの。完璧に憶えてるよ」
手を貸して、自分よりも大きな身体を立ち上がらせた。こんなところでもたもたしている余裕はない。
ミナ。光奈。お前は泣いていないか。怯えていないか。……無事でいるか。
心を占めるのは、あの気弱なようでいて、それでいてけっして譲らない少女だった。いつの間にか、頭を占めていたミナはウィルヘルミナではなく、ちっぽけな小娘の光奈になっていた。
「お前まで……それを言うの」
ぽつり、と、憎々しげな声で、目の前の女が言う。
「私はミナよ。ミナ・ハーカーよ! 私とあなたが揃わなければ、あなたがここに産み落とされた意味なんてないのよ!!」
「意味なんて知るか!」
「そう決まっているの! あなたは私を襲って血を飲むのよ、それが正しい在り方でしょう!? さあ早く、物語を再現しなければ。それでなくとも、あなたと私が出会うまでに百年以上の時間が無駄に過ぎたわ!!」
「そんなもん、クソくらえだ」
アークは鋭く吐き捨てた。物語。小説。原典。そこに描かれたオリジナルと、目の前の女との確執。つい先刻まで、自分もたしかに囚われていたもの。
だけどもう、その何もかもがどうでも良かった。「俺」は俺じゃない。これまでの百年以上、ずっと言い聞かせるように唱え続けて来た台詞は、今やっと実際のものとなってアークの内側に根付いていた。
そうだ、「俺」は自分ではないのだ。
たとえその記録が記憶として植え込まれていようとも。その記録のために、自分がここに産み落とされたのだとしても。
この街を駆けずり回り、出会い、別れて、そしてまた出会い、誰かと様々な時間と出来事とを積み重ねてきたのは、間違いなく自分ただ一人なのだ。それは、物語の中で生きて死んだ「俺」にはけしてなし得なかったことだった。
だからもう、迷わない。迷う必要もない。
「お前はそこで、勝手にしがみついて一人芝居してろ。―――行くぞ、エリク。どっちだ」
「まだ強く残ってるよ。こっちだ。アベニューAの方向に向かって行ってる」
怒りに震える女を無視して、アークはエリクと共に駆け出した。
「……後悔するわよ、伯爵。あなたはどうせ、あなた以外の何者にもなれやしないんだから」
すれ違いざま、まるで呪詛のように女が呟く。捨て台詞だ、と解っていても、アークはそれを笑わずにはいられなかった。
「ああ、その通りだとも」
俺は、俺だ。
俺以外の何者にも、結局はなれやしないんだ。そう、たとえそれが、オリジナルであっても。
「アーク! こっちだ、Cに抜けてイースト五番に入るよ!」
「五番!? 行き止まりじゃねえか!」
だからもう、振り返らない。
先を行くエリクの背中を追って、全速力で走る。見る見るうちに遠ざかる店と共に、女の姿も、すぐに風景へ紛れて見えなくなった。
「……ねえアーク、気になる事があるんだけど」
すぐに追い付いたその隣、並んで走りながら、エリクが顔を険しくして呟く。
アークも真顔で頷いた。
「気が合うな。俺もだ」
「だよね。……何でこんな昼間っからドタバタしてんのに、一向に
俺、すんごいあちこち斬られたし腹刺されてたんだよ!? おかしくない!?……とエリクが嘆く。
アークは短く嘆息した。
「だよな。明らかにおかしい。……そもそも、何でこんなに人通りが少ないんだ」
未だ、時刻は正午にすら届いていない。
だというのに、この有様はどうだ。街が沈黙している。まるで人の姿を見かけない。
こうして駆け抜けているアベニューC、そうして見えてきたイースト三番ストリートでさえ、まったく人影がないのだ。建ち並ぶ店を通りがかりに覗いてみても、開店はしているようだが、そこに店員の姿は確かめられなかった。
「ねえこれホントに何が起きてるの」
「……あんまり愉快な出来事ではない、ことだけは確かだ」
「そんな確約ヤだよ!!」
「俺だって喜んで言ってる訳じゃねえよ!!」
ああ、今、この時。
この男が隣を走ってくれて、本当に良かったと思う。アークは見付からないよう、こっそりと唇の端を緩めた。
緊張感が失われていくのは困りものだが、それでも、たった一人で走っていたのなら、きっと不安に押し潰されて正気じゃいられなかった。
……怖い、と思った。
こんな感情は初めてだった。
喪失の恐怖。
どうして自分は、今までこんなに鈍感でいられたのだろう。
「やっぱ五番に突っ込んでる! このまま行くよ!!」
「だから行き止まりだって言ってんじゃねえか! そのあとどうする……いや、」
なるほど、だからここを通ったのか。アークはチ、と盛大に舌打ちした。
イースト五番ストリートは、奥へ行くに従って店舗が減り、アパートメントやロウハウスの並ぶ住宅街へと変わっていく。
そうして、その行き止まりとなる終着点は、小学校の背面だ。フェンスで区切られたすぐ先は、背が高く幅も広い校舎がどん、と居座っている。用のない者、住人以外はほぼ通らない、そんな場所だった。
だから、そこに。
「行けるか、エリク。無理なようだったら隠れてろ、俺がやる」
「寝言は寝てから言ってよね。録音してミナと聞くから」
ミナを追う二人を待ち構えて敵が大勢、こちらへ向かって武器を携えていたとしても、何ら不思議ではなかったのだ。
「きっと笑えるよ」
ざわり、一度は獣態の解けたエリクの身体が、また膨れ上がる。銀色の毛並みが光を弾いて、やけにきらきらと輝いた。
「―――お前らの前では、死んでも寝ねえ」
めき、とアークの爪が音をたてて鋭く伸びる。瞳が鮮やかな赤に染まり、そうして、その背から。
シャツを突き破り、ばさり、と蝙蝠のような一対の翼が大きく羽ばたいた。
牙が伸びる。唇の端が捲れ上がって、その下の生々しい粘膜を露わにする。
そうして現れたのは、誰の目にも紛うことなき想像そのままの、吸血鬼の姿だった。
「……ろせ」
武器を手に待ち構えていた人々は、エリクを襲った男たちとは違い、僧服を身につけてはいなかった。
「殺せ」
見知った顔がある。何度か、挨拶を交わした者もいる。
「殺せ」
「殺せ」
「化物を殺せ!!」
そこにいたのは、無辜の市民たちだった。同じこの街で、それぞれの生活を営んできた隣人。擦れ違えば微笑んで会釈するような、そんな身近な人々だった。
あの嫌な気配が濃い。息が詰まりそうなほど、酷く強く、この一帯を押し包んでいる。
「エリク。殺すな。……出来れば大きな怪我も、」
「うん。大丈夫。気を失わせれば、取り敢えず何とかなるよね」
彼らは操られていた。キャサリンと同じだ。
―――教会は、用意周到に少しずつ、少しずつ、この街を侵食していた。そして今や、すっかり掌中におさめてしまっている。
ここまで気付かずにいたのは、明らかにアークの失態だった。
「……俺も平和ボケしていたもんだ」
「いいじゃない、平和ボケ! それだけ平和だったってことでしょ、何が悪いの?」
呟きながら跳び上がったアークを目眩ましに、勢いよくエリクが飛び出した。武器を振り上げて迫ってくる男の一人を、その勢いのまま蹴り上げる。
「ガっ……」
「ごめんね痛いよね! 内臓破裂しないように手は抜いてるから、あとで医者行って!!」
「どうせ聞こえてねえよ!!」
「一応言っとかなきゃって思うでしょ!?」
軽口を叩きながら、向かってくる男たちを一人ずつ、丁寧に昏倒させていく。
エリクが地上でその怪力にものを言わせて暴れ回る間、アークは空中から突撃を繰り返していた。本性を現さなければ、到底倒しきれない。けれど、長く伸びた爪や剥き出しになった牙は、よほど気を付けないと呆気なく人間を引き裂く。
……操られた彼らに罪はないのだ。あとに残るような傷を、負わせるわけにはいかない。
「うわ嘘待って!」
一人に肘を打ち込んだエリクが、焦ったような声を上げた。すぐ後ろから、別の一人がエリクの脳天を目がけて渾身で鈍器を振り下ろしてきたのだ。
いくら頑丈な人狼とはいえ、あれが直撃したらただでは済まない。
「間抜け!」
叫びながら、アークは自分を形作る魔力の一部を切り離した。十匹程度の蝙蝠の群れとなった力は、そのままエリクの頭上目がけて飛び込んで、男の顔に我が身を叩き付ける。
「うわっ……」
驚きに叫んだ男の鳩尾を、エリクの拳は正確に打ち抜いた。ド、と重い衝撃が伝わって、そのまま男の身体がうしろへ吹き飛ぶ。背後から更に殺到していた数人を巻き込んで、がしゃん、とフェンスにぶつかり、路上へべしゃりと落ちていった。
「間抜けはないんじゃないの!? 多勢に無勢でしょ!」
正面からナイフを振りかざす男を、振り向きざまに蹴り飛ばす。だが、躱しきれなかった切っ先が、ざくりとエリクの腕を裂いた。
「いけるって言ったのは誰だよ、お前だろ!」
一度切り離した力を戻しがてら、トン、と地面を蹴る。ふわりと浮き上がりながらかかってきた男を蹴り上げ、ついでに背後から迫る男を殴り飛ばそうとして、アークはハ、と腕を止めた。
吸血鬼の攻撃は、大概がその長く鋭い、ナイフのような爪での切り裂きだ。ほとんど反射で伸ばした手は、そのままだと男の身体をずぶずぶと貫通してしまうだろう。
「……っクソ、」
庇う為に咄嗟に止めた腕を、男は容赦なく切りつけていった。そのままの続きで肩を、心臓を突こうとするナイフの切っ先を、身体を捻ってどうにか躱す。
そのついでに脚を振り抜いて、横様に男を吹っ飛ばしたが、刃先はそのままアークの肩のすぐ下に呆気なく突き刺さってそのままになった。
「心臓でなかっただけ、まだましか……」
さすがにこちらも無傷で、とはいかないようだ。自分たちを殺す為の武器が、やりようによっては今敵となって向かってくる彼ら自身を傷付けることになる。そこまでを考えながら昏倒させていかなければならないのは、想像以上に困難な仕事だった。
「いや本当に勘弁して欲しいんだけど、倒しても倒しても湧いてくるんだけど!?」
「きりがねえな……」
一気に場を鎮圧するような手段でなければ、ただの消耗戦だ。まさかこの街の全ての人間を洗脳したのでもなかろうが、数が多すぎる。
「アーク! 君どうにかできない!?」
「手段がない」
キャサリンに使った手は使えない。
自分の血をほんの一滴ずつ、この場にいる全員へ与えることだけなら簡単だ。針状に固めた血を、全員へ飛ばして刺せばいい。だが、問題はそのあとだった。
アークの血の呪縛は、呪いだ。これだけの人間へ無差別に振りまいたとなると、解呪がほぼ不可能になる。一人一人、全員の顔を憶えて訪ねていくなど出来ないのだから。
「お前こそ、何かないのか!?」
「あるにはあるけど……!」
ぐ、とエリクが口元を引き結ぶ。
「俺、こう、……そっちの力の使い方が下手だから。基本、人狼って殴って強いのが強いって考え方だし」
「うだうだ言い訳するな、出来るのか出来ないのかどっちだ!?」
言い合いながらも、二人は向かってくる正気じゃない人々をそれぞれに捌いている。
アークは空中から飛びかかっては蹴り落としてまた空中へ飛び上がるのを繰り返し、エリクはエリクで真っ向から襲ってくる男たちを殴り飛ばしていた。
……本当なら、とアークは歯噛みする。
ここまで力が落ちていなければ、ここまで消耗していなければ、それこそ蝙蝠の一匹一匹に力を持たせ、それで昏倒させることもできただろうに。
今はそれをやってしまうと、もうこの身体を保つことさえ出来ない。それほどに、力を失ってしまった。
長い時間、血を飲まないまま使い続けた力。
今の自分は、もう残りかすだ。少ない手持ちをやりくりして、どうにか動いている。
「~~~っあーもう、仕方ないか!!」
向かってきた男を高く蹴り上げ、やけくそのようにエリクは叫んだ。
「やる! やるよ!! つっても俺のは魔払いの遠吠えだけど! 神サマの力に通用するかわっかんないけど! 精気にあてて失神させるぐらいはできるかもだし!!」
「どういう話だ?」
「多分どうにかなるってこと! でも吠えてる間は俺、無防備になっちゃうから」
「解った、その間は任せろ」
頼むよホントに! 俺なんにも出来ないから!!……と叫んだエリクのまわりに、動かない右手を含んだ右半身分の力で蝙蝠を展開させる。小さな蝙蝠。それでも、一匹一匹がアークの分身とも言える魔力の塊でできているから、人間を近付けないくらいの邪魔は出来る。
その分、アーク自身の力は半減する。背から伸びた羽根を維持することも出来ず、そのまま地上に降り立った。
ここからは、芸の無い肉弾戦だ。だけどエリクがベナンダンテとしての能力を発揮する、それまでの時間だけならどうにかもつか。
「頼むぞエリク……!」
蝙蝠の壁の内側から、苦しげな呻き声が聞こえた。
狼の頭部、毛皮に覆われた全身―――それでも辛うじて二足歩行で人の形を保っていたエリクの身体が、更に深く、変化する。
ぐ、と盛り上がる背中。
手足を覆う銀色の毛が更にふさりと伸び、骨をめきめきと鳴らしながら変形する。
真っ直ぐに立っていたはずの上半身が背を丸めるように前のめりになっていき、そうしてとうとう、毛皮に覆われた手が地面を捉えた。
完全変態。
人の形をしていた頃にも背が高く、鍛え上げた大きな男であったものが、今はそれよりも堂々と大きい。背などビルの二階よりも高かった。
四つ足の巨大な、銀色の狼が、頭をそびやかしてそこにいる。
そうして、その黄玉色の瞳が、陽の光を弾いたように金色に輝いた。
尖った牙の並ぶ口を大きく開き、天を衝くように吠え始める。
―――オォオオオオ……ォオ……
それは、仲間を呼ぶための遠吠えに似ているようで、けれど全然違った。音、がビリビリと身体にまで伝わってくる。
襲撃者たちは一瞬、ぎくりと身体を強張らせて怯んだ。
けれどそれでも、諦めない。動かず天を仰いで吠えている、その間を好機と捉えて、エリクへ殺到する者たちもいた。
「クソっ、エリク。効いてねえぞ!」
蝙蝠だけでは守り切れない。アークはエリクを守るように、その前へ立ち塞がった。
エリクの使う力は、人間を守る。その為に魔女や悪魔と戦う、善なる力だ。アークとはあまり相性が良くない。アーク自身もまた、悪魔や魔女に連なる部類のものだからだ。
ただでさえ半身分の力を蝙蝠へ分散させてしまっているのに、能力を行使するエリクに近付けば更に力は落ちる。
だが、それでも。
「オォ……オゥ」
今やってるんだよ、と言いたげに唸る友は、自分を信じて無防備になるこの時間を選んだのだ。裏切れない。
―――オォオ……オオ……
じわ、と、押し戻されるような感覚。
包丁を振りかぶってかかってくる男に目一杯の蹴りを喰らわせながら、アークは横目で狼を振り返った。
銀色の毛皮が、ふくり、と柔らかに膨らむ。
そうして、ミナから溢れたものとはまた違う、エリクの瞳の色をした光が、滲むようにその毛皮から輝き始めた。
「これだな……!?」
解る。はっきりと、感じる。
魔を払う力だ。豊穣の守り主、ベナンダンテの魔女や悪魔を払う力。
目に見えない、質量もない力のはずなのに、豪快に叩き付けられてくる。エリクらしい、大雑把なやり方だと少し笑った。
がく、と感受性の強い者が、徐々に膝を折って崩れていく。
「あと少しだ!」
それでも、まだ全員とはいかない。よろよろとふらつきながら、武器を向ける者もいる。
「……っハハ、ここに来てかよ……!」
アークのこめかみを、冷たい汗が一筋流れた。群がる襲撃者たちの向こう側、少し距離をおいたその場所から。
新たに駆けつけたのだろう中年の男が、その手に銃をかまえて、エリクに狙いを定めていた。
……だめだ。アークはドッ、と強く地面を蹴りつけて、高く跳び上がった。
このまま撃てば、その銃弾はエリクへ届く前に、操られた襲撃者たちの誰かを貫く。だめだ。自分たちは銃弾のひとつふたつ、撃たれてもどうにかなるが、人間はそうはいかない。
群がる人々の頭上を、高く跳びこえる。少しの間、蝙蝠へ分ける力をもう少し増やして、吠え続けるエリクの守りを堅めた。
……今のアークの身体能力は、もう殆ど、少し鍛えた人間と変わらない。
それでも。
「ハァっ……!!」
彼、は王だった。
その役割を、与えられた物語を捨てたとしても。
全力をもって、自らに課せられた責務を全うする。
―――夜歩く者。
不死者の王。王と呼ばれる、その誇りを以て。
「…………っ!?」
散弾銃が火を噴く。アークは銃口とエリクとの正しく中間へ着地し、その真ん前へと自らを晒した。
もう少し、魔の力が残っていれば。
これほどまでに、消耗し続けていなければ。
結果は違っただろう。もう、蝙蝠に変化して弾を避けるだけの力もない。
衝撃が、ドドドッ、と身体を押す。肩に、胸に、腕に、腹に脚に着弾して肉を穿つ。
―――ォオオオオオオ……!
アーク、と、叫ぶような狼の咆吼が、ひときわ力強く響いた。
大音声の、圧倒的な暴力。空気さえビリビリと震わせるその力にあてられた人々が、次々に白目を剥き、中には口から泡を吹きながら、その場にがくんと崩れていった。
目の前の、自分を撃った男も。
「ふ……」
やりゃあできるじゃないか。アークは笑う。どうやらこれで、どうにかここから進めそうだ。……自分はもう、ここで終わりかも知れないが。
ふら、と身体が傾いだ。倒れ込みながら、目に映るものを確認する。
操られていた住人たちはもう殆どが、エリクの放った力に当てられて気を失っていた。
エリクは放った力を治めるため、苦しげにハッハッと荒く呼吸しながら完全変態を解いている。逆再生をかけたように、その身体が小さくなっていき、手足の毛並みも短く戻っていった。
「アーク!!」
人型に戻ったエリクが、愕然とした顔で振り返る。アークはふ、と小さく笑った。喉の奥から血が迫り上がって、ゴフっ、と咳き込む。口からみっともなく、血が溢れた。
「アーク!! なんで君こんなこと、なんで!!」
泣き出しそうな声で叫びながら、エリクが駆け寄ってきた。
ハハ、泣くなよ。笑ってやりたいけれど、内側から溢れる血がごぼごぼと不格好に鳴るだけで、声が出ない。
「アーク! アーク!! どうしよう、どうしたら、ああもう、こんな、……っ」
エリクが慌てて、血に伏した身体を起こそうとする。大丈夫だ、と口にする代わりにその肩をのろのろと拳で打った。
大丈夫だ、死にはしない。ただ、今の自分にはこれを瞬時に修復できるような力は、もうない。
胸に空いた、いくつもの穴。
……もともと、そこはずっと虚ろだった。ぽっかりと空虚に空いていた。
物理的にも空いただけだな、と思って、下らないと笑う。
「……エリク、」
がはっ、と、口に溜まった血を吐き出しながらどうにか声にする。
死にはしない。それでも、しばらくは動けない。ミナ。早くお前を、迎えに行かなければならないのに。
「捨てて、いけ」
「出来るかよバカ!」
今は、こんな瀕死の自分よりも。
ミナ。お前を早く、早く、取り戻さなければならないのに。
……これだけの欠損を埋めるには、何百年の眠りが必要になるだろう。
だが、それだけの眠りに今の身体で耐えられるのか。力が消耗していき、とうとう塵となって消えるのが先ではないか。解らない。どちらを選ぶにしても、きっとギリギリの賭けだ。
今、目を閉じたら、おそらくもう、あの少女とは会えない。
泣いていないか。強がっていないか。……また自分を、責めていないか。無茶な重荷を、背負おうとしていないか。
それだけが気懸かりだった。だが、自分がここで眠りに就いても、きっとエリクやアルタンが彼女を助け出してくれるだろう。信じている。
……自分の手で、それが出来なかったことが悔しいけれど。
「アーク!!」
エリクの声が、遠くなった。間近で叫んでいるはずなのに、やけに遠い。畜生。ここまでか。
アークはそれでも、落ちそうになる目蓋を必死に留めていた。まだだ。まだ、閉じたくない。まだもう少し、……彼女の居る世界を見ていたい。
霞んできた目を、それでも開く。その耳に、あり得ないはずの声が聞こえた。
「アークさん!!」
高く澄んだ、清浄な声。……ハハ、ばかばかしい。幻聴か。
けれど。
「アークさん!……アーク!! アーク、いや、なんで、どうしてこんな」
その声は、不思議なほどはっきりと、アークの耳を打った。
―――ミナ。……泣くな。
ああ、クソ、とうとう見えなくなってきた。
「っ……、許さない」
泣き出しそうな声が、それでも、決然と呟くのを聞いた。
「許さない。こんなことで死ぬなんて、許さない!!」
絶対に。
その声に導かれるように、あのとても目を開けていられないような白い光の爆発が、アークをうわんと飲み込んだ。
ああ、そうか、……俺はお前に焼かれて終わるのか。
それでもいい。……それがいい。
お前の手で終われるとは、思ってもみなかった。ああ、やっと終わるのか。長かった。もう生きるのに、倦いていた。
「……いっそ、本望だ」
アークは静かに、瞳を閉じた。
気の狂いそうな飢えと渇きに支配されてきた、長い時間。
けれど最期のこの時、不思議なほど、アークの胸は満たされていた。
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