3-4
アークのいない食卓で、朝食をとる。
「……………」
ふわふわに焼き上げられた半熟のスクランブルエッグも、表面が焦げるほど炙られた香ばしいベーコンも、皮にパリっと歯の沈む焼きたてのパンも、全部がとても美味しかったけれど、ミナは今ひとつフォークが進まなかった。
エリクはミナのせいではない、と言ったが、アークにとって自分は突然現れた異分子だ。
気付かないうちに何か、彼の気分を害したのではないか。どうしても気になってしまう。
これほどお世話になっておきながら、そんなの、まるでただの恩知らずではないか。
(ううん、それ以上に)
……あの優しい人が一緒にいたくないと思うほどのことなら、きっと酷いことをしでかしたに違いないのだ。
ほんの短期間、まだやっと三週間になるかならないかの付き合い。
それでも解る。彼が、どんなにやさしい人なのかを。口が悪く、酷い雑言で攻撃するように見えて、そこには必ず一本の筋が通っているのだ。彼はけして、どうしようもなかったことで人を責めない。
ミナは何度、自分のせいではないことで謝るな、と彼に言われただろう。
その度に聞こえる気がする。お前が悪いんじゃない、お前が気にすることではない、と。
「……エリクさん、あの」
「うん?」
「アークさん、こういうこと……普段もあるんですか。その、」
「ああ、ごはん食べないで出歩くこと? 昔はしょっちゅうだったよ」
「……そう、なんですか」
昔は。
つまり、最近はなかったということだ。
「……ふふ」
思い悩むミナの耳に、微かな笑い声が聞こえてきた。見ればエリクが、肩を竦めて小さく笑っている。
「君とアークは、結構似ているね」
「わたしとアークさんが?……えっ、それはないです」
「即答か~。でも、似てるよ。何かね、自分以外のことで必死になっちゃうところ」
「え……?」
エリクはとてもやさしい眼差しで、ミナを見つめていた。大きな手が、ブリオッシュをわし、と掴んでいる。千切った欠片をぽい、と口の中へ放り込んで、エリクはまたにこ、と笑った。
「損だよね。自分が傷付くのは大丈夫だって強がるくせに、人に付いた傷は物凄く痛そうに見えるんだ。そして、全力でそれをどうにかしようとしてる。当の本人が諦めてても」
「……わたしは、そんなんじゃありません」
嫌われるのが、怖い。
孤児だから。養護院で育ったから。
良い子でいなければいけなかった。いつでも。良い子にしていても、少し「普通」から外れれば、すぐに言われる。あの子は親が居ないから。外国人の牧師に育てられたから。
そんなのは許せなかった。アイブ牧師がどれほど苦労して、身寄りのない、または事情のある子どもたちを育ててきたか、ミナはよく知っている。
自分は父母の愛を知らない。それでも、優しい心や愛を知っているのは、全て惜しみなくアイブ牧師がミナへ、こどもたちへと与えてくれたからだった。
だから嫌われないように振る舞った。良い子でいようと努力した。
―――それは、小さな小さな、堅い繭。
その中の決まり事を守って、その中の基準とされる良い子でいることは、ミナにとってもきっと、一番に安心出来る簡単な手段だったのだろうと今は思う。
ガイドラインがはっきり解っていた。慣れてもいた。だからそう振る舞うことは、それほど難しくもなかった。
だけど、今。
ここに居る人たちは、何もかもが違う。価値観も、自分を見る目も、何もかも。
だから何が正解なのか、ミナにはてんで解らない。怖かった。正解が解れば、きっと望まれたまま振る舞えるのに。
……だけど。
(お前のせいじゃないことで謝るな)
アークに再三かけられてきたその言葉は、ミナの背中を力強く押す。
自分で見て、自分で決めて、自分のしたことに確かな責任を持つ。
ここではそうやって生きるしかないのだと、言葉ではなく教えてくる。
それは、誰かの価値観や誰かの敷いた決まりごとではなく、素のままの自分自身を生きろ、見せてみろ、と。そう言われているような気がした。
……怖かった。だけど、それ以上に世界が広がる、ような気がした。
(ああ、そうか)
牧師さまは、だからわたしに言ったんだ。広い世界を見てきなさい、と。そういう事だったんだ、と、やっと実感した気がしていた。
そうして、その世界に無理矢理手を引くようにして、連れ出してくれたのは。
「……アークさんは、本当に、やさしいひとだけど」
あの赤い瞳の吸血鬼、ただ一人だ。
彼は何度も繰り返したあの言葉で、誰かの基準を生きようとするミナを、きっと丸裸にしてしまった。
それは或いは、彼の厳しさだったのかもしれないけれど。それでもミナは、それがとても、……嬉しかった。
「わたしは結構、卑怯なので」
「本当に卑怯な子は、きっと自分でそんなこと、言わないんじゃないかなぁ。……良い子でいようとすることは、別に少しも卑怯じゃないよ」
良い子で。
まるで心の中を覗かれたようで、ミナはどきり、と胸を跳ねさせた。
エリクはまた、ふふっ、と笑う。
「解るよ。初日の朝の飲み物騒動、俺、忘れてないからね」
「あ……あの時は、本当に」
恥ずかしい。
手間を掛けさせたくない、という気持ちを押しつけて、彼の気持ちをないがしろにしていた。今までのやり方を、正解を、そのまま押し通そうとしていた。なんて愚かなんだろう。
「ふふ。俺はね、偽善ってこの世にないと思ってるんだよ」
「それは、どういう……?」
「うん。だって、そんなの解んないじゃない。してもらったほうはさ。されて嬉しいことだったら良いこと! 腹の中で何を思ってようと、結果は良いことだったで終わりだよ。多分、これって本音と建て前みたいなものじゃないのかなあ。本音がどうであれ、建前で潤滑に物事が巡っていくなら、結果として悪くないでしょ?」
それこそ穏やかで純朴で、いかにも人好きのするエリクの口から出て来たとは、到底思えないような台詞だった。
ミナはぱち、と目を瞬かせる。
「だからね、その裏側に嫌われたくない、とか、そういう気持ちがあったとしても、俺に面倒を掛けたくない、って君の気遣いは、確かに君の優しさだったってことだよ。シニョリータ。まあ、だけどあの時は、俺のもてなしたい気持ちも無視しないでねってタイミングではあったんだけどさ。それにそもそも嫌われたくない、とか良い子でいたい、って気持ちだって、悪いものじゃないからね。下心とも言えないよ、そんなの。よく見られたいのは、誰だってそう思うもんでしょ」
「そう……なのかな。そう思ってても、いいのかな」
良い子だよね、とよく言われた。それは賞賛であったりもしたけれど、時に皮肉であったりもした。
その度、ミナはどこかで恥じた。良い子でなければ生きられないんだよ。それは、良い子であることを貫き通している努力を誇るものでもあったけれど、必死に良い子であろうとする、縋るような自分の下心を見咎められたような気持ちがせめぎ合っていたからだった。
「いいと思うよ。って言うかさぁ、」
また一口、千切ったブリオッシュをぽい、と口の中へ放り投げる。
顔いっぱいに頬張ったそれをむぐむぐと咀嚼して、ごくん! と豪快に飲み込むと、エリクは太陽のような明るさでニカッ、と笑った。
「そんなの、どう思うか決めるのなんて、自分の自由じゃない? むしろ良いか悪いかなんて、他人に決めつけられたら鬱陶しくて堪んないよね!」
わりと強気で酷いことを、とても明るく言い切られてしまった。
「……フフ、あはは」
何だか笑えてくる。もしかすると、本当に、そんな簡単な事なのかも知れなかった。
「あはははは! エリクさんかっこいいなあ!」
「ヤッター嬉しいな。じゃあ今度デートしようよ、シニョリータ。多分保護者付きになっちゃうだろうけど」
「保護者?……って、アークさんですか? あはは、似合わない」
「似合わないよね~。でもあれでアーク、なんか皆のお父さん的なとこがあるからなぁ」
「お父さんて! あはははは」
あはははは、と、明るい笑い声がダイニングを満たした。おかしい。すごく可笑しい。ずっとわだかまっていたもやもやが、突然スッと晴れていった心持ちがした。
「……お父さんには勿体ないですよ。だってアークさん、あんなに綺麗なのに」
「うん? アークはきれい?」
「はい」
迷いなく、ミナは頷いた。
「すごく綺麗な男の人だなって、思いました。初めて会った時も。……赤い目も、長い牙も、全部見たけど。やっぱりアークさんは、きれいです」
「……そっか」
エリクは何故か、とても嬉しそうな顔をしていた。
「全然愛想がないけどね~。いっつもこーんな顔してるでしょ、眉間に皺寄せてさあ」
「あはは。似てます」
「でしょ? あれ絶対わざとだよね。……俺もそう思うよ、アークってかっこいいよね」
「はい!」
笑い声に包まれた食卓は、とても和やかに二人の朝を彩った。
皿を片付けて時計を見れば、もう十時が近い。そろそろ、店を開ける時間だ。
「ミナちゃん、店の鍵開けてきてくれる? 俺、あとコップだけ片付けちゃうね」
「了解です! ついでに掃き掃除しておきますね」
「ミナちゃんは働き者だなぁ。じゃあ、お願いするよ。でも程々でいいからね~」
はあい、と返事して、箒を片手に店へ通じる奥の通路を進む。
だいぶ埃はなくなったが、まだまだきれいとは言い難い店内を進んで、ペンキの剥げきったドアの前まで。そうして鍵を開け、大きくドアを開け放った。
「うーん、良い天気!」
今日は空の高い、良い天気だ。鮮やかな青に、真っ白な雲が浮かぶ。
「……アークさん、大丈夫かな」
何時頃帰ってくるだろう。寝ている時には煩くしないで済むように、埃取りと掃き掃除は今のうちにやっておかなくちゃ。
よし、と気合いを入れる。買ったばかりのシャツの袖を捲って、箒をしっかり両手に持ち直した。
真っ白でアイロンのよく利いたシャツと、ベージュのコットンパンツは、あの日にアークが買ってくれたものだ。自分が今まで身に付けていた量販品は何だったのだろう、と思うくらいにカッティングがきれいで、三割増しにプロポーションが良くなった気がする。
腰に巻いた黒いサロンは、こっそりと手持ちで買い足したものだ。働かなくていい、と言われているのに、勤しんでいるのは自分の勝手だった。だからここを掃除する時のための短いサロンだけは、自分の手持ちで買いたかった。
靴は鈍く照る本革のローファー。こうしていれば、自分も一端の、骨董品店の店員に見えるだろうか。
見えたらいいな、とミナは微笑んだ。そうして、夜のうちに玄関前へ溜まった砂埃とゴミをせっせと掃いていく。
アーク骨董品店は、アルファベットシティの外れ近く、アベニューDとCとの間に建っている。周囲はわりと新しい、大きくて立派なビルばかりで、アークが家にしているこのビルばかりが取り残されたように古々しく、ちんまりとしていた。
隣はどういった土地なのか、一応鉄柵の門は付けられているものの、木や草が無造作に生い茂っていて空き地にしか見えない。
だから余計に、この通りでアークの店まわりだけがぽっかりと、時間に置いていかれたように見えるのだった。
ふ、と手を止めて、外側から店内をじっとみつめる。
もう窓ガラスは白くも濁ってもいない。あたたかなオレンジ色の灯りが、ぽう、と夢のようにいくつも浮かんでいる。
少しほこり臭いけれど、やさしい光景だ。そして光の届かない店の奥、どかんと置かれた大きな店主のデスクの一歩前に、申し訳程度の古い応接セットが設えてあった。
アークはいつも、そこのソファで横になっている。
眠っているのかと思えば、案外意識はあるようで、話しかければ面倒そうにしながらもいつもちゃんと、応えてくれた。
二人で長い時間、店内にいるというのに、大抵会話などしない。だけどミナは、何よりもその時間が好きだった。
良い子でいなくともいい、そのままですとん、と受け止められているような、その時間が。
―――酷いことをずばりと切り込むように言ってくる人だ、と思う。特に買い物に行った時などは、失礼すぎて本気で腹も立った。
だけど生意気と言われそうな勢いで思わずやり返した時にも、アークは少しも怒らなかった。腹を立てた様子さえなく、むしろ可笑しそうに笑って、ごすんと頭にチョップをかましてきた。
そんなやりとりは初めてだった。……本当に、誰ともしたことがなかった。
ミナは初めて、普通の女の子、になれた気がしたのだった。とても楽に、呼吸が出来た。
それから、多分。
おずおずと、距離を計りながら。
少しずつ自分は、アークに甘え始めたのだと思う。そんなことすら、これまでのミナはしたことがなかった。
養護院で一番の年長はミナだ。だから知らないうちに、頼るのではなく頼られることばかりが普通になっていた。
それがいやだった訳ではないけれど、……こんなふうに、甘やかされるのはくすぐったくて嬉しい。
アークの傍は、何も考えず、片肘も張らずに、「わたし」でいられる。
それをこんなにも易々と叶えてくれたアークが、見せかけ通りの横柄なだけの人だとは、もうミナには思えなかった。
―――早く、早く帰ってきたらいい。
別に、何も話さなくていい。ただいまの一言さえ、なくていい。
いつものようにごろりとソファに寝そべって、まるで店に並んでいる骨董品のひとつになっってしまったようにひっそりと、そこにいてくれるだけでいい。
そうしたらきっと、今日も自分は、充分幸福に店の掃除を楽しめるだろう。……
「失礼、お嬢さん」
「え」
呼び掛けに、ハ、と我に返る。いつの間にか足下へ向いていた顔を上げると、そこには、真っ白なカソックを身に付けた若い男が立っていた。
「ええと、わたし……ですか?」
ミナは小首を傾げて、突然の訪問者を見上げた。若い、というよりも、まだ少年と言ってもいいような幼さの男だ。
ミナによく似た焦げ茶色の髪と、底の知れない濃い茶色の瞳をしている。短く整えてはあるが、くるり、と形良く頬を縁取る巻き毛が、やけに少年を貴人めいて見せていた。
「そう、あなただ。お嬢さん。あの光を追ってはいたが、まさかこんなところで会えるとは思わなかったよ」
少年は微笑む。天使のようにやわらかな笑顔で。
けれどミナは、何故かぞっ、と背骨を凍らせた。悪寒が走る。よくないものだ、と反射的に、そう思った。
縋るように両手が、ぎゅ、と箒を握り締めた。
「……どちらさまですか。何のご用です?」
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないか、姉さん」
「……あなたは、何を言ってるの……」
じり、と後退る。けれどその分を、嗤いながら少年は無遠慮に詰めてきた。
「探していたんだよ。お前が出来損ないだと証明するためにね。ハハ、随分都合がいい。まさか化物どもの親玉のところに居るなどとは」
これは、だめなやつだ。
まちがっているやつだ。あの時に思ったもの、感じたものと、同じものだ。
ミナはじりじりと店内へ向かって後ろ足に歩いた。もう少し。もう少し。追いかけてきたって、その鼻先でドアを閉めてやればいい。
いやだ。来ないで。―――あなたは、違う。
「どうして逃げる……? やっと会えたのに、つれないものだな。姉さん」
「あなたみたいな弟なんか、わたしにはいません」
「酷いことを言う。私は確かに、あなたの弟だよ。父も母もまったくの同じだ」
「知りません!」
今更、何を言っているのだ、この少年は。わたしは孤児だ。ずっと、捨てられた身寄りのない娘だったのに。
得体が知れなかった。薄ら笑いで距離を詰めてくる、この少年が。不気味だった。嫌な気分がした。絶対に近寄りたくないと本気で思った。
しかも先刻から、訳の解らないことばかりを言う。どうしたらこの場から逃げられるか、ミナは少年を睨み付けながら、そればかりを考えていた。
「ミナちゃーん、こっちは終わったよ~。掃き掃除は、……あれ」
しかし、そんなミナの背中から、にゅっと伸びてきた大きな手が。
「エリクさん……」
やんわりと、ミナの肩をやさしく包んだ。ここにいるよ、と、安心させるように。
「どうしたの。お友達……、じゃないよね~。どう見ても」
油断のない目で、じろり、と少年を睨め付ける。穏やかでいつも笑っている、人好きのするエリクとは思えない鋭い目をしていた。
「邪魔をするな、化物」
「うわぁ、酷い言いよう。じゃあ、その化物の家にはお入りならず、そのまま回れ右で帰ってドーゾ。うちとしても、君みたいな可愛くない子はお断りだよ」
―――とっとと帰りな、
短く言い捨て、エリクはミナの肩を抱いたまま、一歩そこから後退った。
しかし。
「…………っ!」
よくないもの、が、ぞわっと背中を総毛立たせる。おそるおそる見た視線の先では、少年が、髪を逆立てるように激しい怒りを振りまいていた。
「化物が……! よく抜かした!!」
ぞくぞくと身体中を気持ちの悪い何かが走り抜けていく。だめだ。これはだめなやつだ。間違ってるやつだ。こんなふうには、絶対にしちゃいけないやつだ。
「エリクさん!」
「ミナちゃん、中入って!!」
ぐわ、と押し寄せてくる、何か。逃げて、と言うよりも先に、エリクがミナの身体をどん、と突き飛ばした。
「鍵掛けて、奥にこもっておいで! 大丈夫、これでも俺、強いから! アークほどじゃないけど!!」
ざわり、とエリクの灰色の髪が波打った。毛先から色が抜けていく。灰色から―――眩いばかりの、白銀へと。
うぞ、とうねった耳元から伸びた髪が持ち上がり、銀色の毛皮を持つ耳が生えた。グルルルル、と低い唸り声が喉の奥から漏れる。
白いTシャツの肩がぼこっ、と盛り上がったかと思うと、耐えきれなくなった布地を引き裂いて豊かな毛皮が現れた。
顔が前へ、長く伸びていく。口元から鋭い牙が覗き、黒く濡れた鼻と裂けたように大きな口へ変わっていく。
人狼。
ベナンダンテの、エリク。
鋭い牙にも似た爪を構え、狼は吠えた。真昼のマンハッタン、その端から、ウォオオオオ……ォ、と遠吠えが、中空へ高く吸い込まれていった。
「汚らわしい狼男が。よくぞ吠えた」
「ちょっとは黙りな、
「―――っ! 行け、ヌーメリ!!」
少年は大きく突き上げた腕を、ふるうように勢いよく下へ振り下ろした。それまでどこに隠れていたものか、灰色の僧服を着た男たちがわらわらと現れる。
「跪け、化物!」
そうして、少年の指先が、エリクを真っ直ぐに突き差した。が。
「残念! 俺は精霊種だ、善なるものだ! 聖なる力は俺を傷付けないんだよ!!」
襲いかかってくる男達を相手に、エリクは動きを止めることなく反撃している。
ナイフを持って飛びかかって来た男は、片手でぐわっ、と持ち上げられ、そのまま道の端へ叩き付けられた。足下を狙って滑り込んで来た男は、ガンッ、と蹴り上げた一撃でビルの二階よりも高く吹き飛ばされている。
エリクは、人狼の怪力をあますことなく使いこなしていた。
「エリクさん!」
「ミナ、何でそこにいる!? 早く奥へ!! すぐにアークも来るから!!」
右から、左から、次々に襲いかかってくる男達を投げ飛ばし、突き、蹴り上げながら、エリクは叫んだ。
けれどだめだ。そうじゃない、だめなのだ。
確かに彼は強い。普通の敵なら、きっとこのまま、勝ち果せただろう。でも。
「……この私が命じるのだ。跪け、人狼!!」
「っ、!?」
がくん、と、エリクの膝が崩れた。
「何っ、だ、これ……!?」
「……『もしあなたの右の目が罪を犯させるのなら、それを抜き出して捨てなさい』。……」
「っ、や、……やめ、ろ、……」
少年がラテン語で、何かを告げる。不思議なことに、ラテン語などひとつも知らないはずのミナの耳にも、それははっきりと意味を持って聞こえた。
エリクの手が、鋭く牙のように伸びた爪が、自身の右目を抉ろうとしている。左手で必死に手首を掴み、押し戻そうとしているものの、右手は持ち主のいうことをきかないままじわじわと眼球へ近付いていた。
「やめて!」
ふ、と少年が、唇の端を吊り上げる。嫌な笑いかたをしていた。どうして。どうして。
こんな歪んだ笑いかたをしながら、そんな言葉で、酷いことをさせようとする。
「グっ、……う……」
低く低く、エリクが呻いた。あと数ミリで、爪の先がきれいなトパーズ色の瞳に触れる。
「グぁっ……!」
だが、僧服の男達はそれを待ってはいなかった。少しでも左手の力を緩めたら、右手はすぐさま眼球をえぐり出すだろう。動けないエリクの踏みしめた大腿を、繰り出されたナイフがざっくりと切り裂いていった。
血が。
溢れる。しぶいて、辺りへ飛び散る。
「……っいやああああああああああ!!」
ミナが叫んでも、惨劇は止まらない。足首を切りつけられたエリクが、腱をやられたものか、がくりと膝を突いた。
「やめて、やめてエリクに酷いことしないで! エリク! エリク!!」
「……無力なものだね、姉さん。何だ、やっぱり出来損ないだったじゃないか」
「もうなんだっていいから!! 今すぐやめさせてよ!!」
気持ちが悪い。だめなやつ。まちがっているやつ。―――間違っている、力の行使。
ミナは扉を開けて、エリクの元へ飛び出そうとした。けれど、それよりもほんの数瞬だけ早く。
「エリクさん!!」
ずるずると血の跡を石畳に這わせながら、エリクが動かない膝でにじって店の、ミナを突き飛ばし入れたドアの前まで下がってきていた。
その背中が、ドアを封じる。ドン、とぶつかった重みで、ガラスが震えた。
「だめだって、言ったでしょ。……ミナ、早く、逃げな」
その間も、僧服の男達はエリクを切り刻む手を止めない。未だ目をえぐり出そうとし続けている右手も、それを止めようとしている左腕も。
もう立ち上がることさえ出来ない脚も、無防備に空いた腹も。あれほど眩かった銀色の毛皮が、不吉なほど鮮やかな赤に染まっていく。濡れて、したたっていく。
「やだ……、やだよ、エリクさん……」
泣いている場合ではない。そう解っているのに、じわ、と目が熱くなった。
「ミナ、……アークに……きっと、もうすぐで、彼が来るから」
「だめ! 諦めないで、エリクさん!!『―――立って』!!」
祈るように、ミナは両手を胸の前できつく結んだ。
「『死なないで』!!……っあなたの、傷が、」
光、が。
漏れ出す。白く清浄な光が。
ミナの輪郭を滲ませるように、少しずつ、その内側から溢れ出て来る。
「……ミナ……?」
「癒えますように。……立ちなさい、立ってあなたの信仰どおり、あなたの身になりますように。……」
それは、そらんじられるほど何度も繰り返して読んで憶えた、聖書の一節。
ああ、どうしてわたしは今、そんなことを口にしているんだろう……。
「あ、あああ、ああ」
ミナから溢れた光が、じりじりとその体積を増していく。最初はミナの身の回りにだけ。そうして見る間に膨れ上がり、ふわり、と傷付いたエリクをも包み込んだ。
「ミナ……!」
癒えていく。
しぶいた血がさらさらと光に溶けるように消えていき、その下の傷口は肉が盛り上がって閉じていく。やがて一筋の赤い線となり、それすらもすぐに消えた。
「クソ……! ふざけるな、救世主は俺だ!!」
光は、全ての傷と汚れを包み込み、触れた端からそれらを浄めていった。
飛び散った血に汚れた銀色の毛皮は滑らかな輝きを取り戻し、腱さえ絶たれた足首にも力が戻った。
しかし。
「ぐっ……」
失われた血は戻らないものか、未だふらつくエリクの隙を狙ったナイフの一撃が、深々と、その腹へ突き立てられた。
「エリク、さん……」
じわ、とミナの額に汗が滲む。だめ。今はまだだめ。治さなきゃ、癒やさなきゃ。この優しい人を、傷付けて死なせてしまっては、絶対にだめ。
―――間違った使いかたを、今すぐに、やめさせて消し飛ばしてしまわなければ、だめ。
光はますます膨れ上がる。その分だけ、ミナの身体から力が抜けていく。
「狼じゃない! そっちの女のほうだ!!」
ヒステリックにがなる声を、遠くで聞いた。目の前がぼやけていく。
「ミナ!!」
とうとう立っていられずに、がくん、とミナは膝から崩れ落ちた。エリクが思わず振り返る。その隙を狙ったかのように、重い一撃が、エリクの後頭部を殴り抜いた。
「う、……っ」
どさ、と、重い何かが倒れ込む、嫌な音。
けれどミナは、それが何のたてた音かを確かめる前に、みぞおちへ重く響く衝撃を受けて、そのまま意識を失ってしまったのだった。……
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