3-2

―――きゃあああああ、と高い悲鳴が辺りに響いた。

 女だ。

 女が必死の形相で逃げている。まろぶ足下は靴が脱げて、爪の先まで割れている。

 そのすらりと滑らかに伸びた喉からは、一筋。

 鮮やかな赤が伝い、広く開いた襟ぐりに落ちてじわりと滲ませていた。

 血だ。

 血が流れている。溢れている。

 アークは牙を剥き出しに嗤いながら、逃げる女の肩を掴んだ。

 いやああああああ!!

 牙のごとくに長く、鋭く伸びた黒い爪が、ざくりと女の肩を抉る。血だ。また血が流れる。唇の端を捲れ上がらせながらアークは嗤った。血だ。女の血だ。やわらかな肌の下を、甘やかに流れる己の餌。

 その首筋に、ゆるりと顔を埋めた。じっくりと、牙を沈める。ぷつり、脆く皮膚を突き破って埋め込まれた牙は、そこからずるずると女の命を無造作に啜り上げた。

 だが。

「……違う」

 どれだけ飲んでも。

「違う」

 どれだけ啜っても、叫ぶ女の声が枯れ、捕まえた手の下の皮膚がしわしわとしなびて老い萎んでいっても。

「違う……!!」

 肌という肌から血の色が失せて紙のように白くなり、その下の肉に至るまで一滴すら残さず全ての血を吸い上げても、尚。

「うわあああああ……!!」

 飢えは治まらなかった。渇きは癒えなかった。

 舌に何よりも快いはずの甘露は酷く苦く、飲めば飲むほど次を欲した。

 正気ではいられないほどの、飢え。

 渇き。

 もっと血を。血を。女の血を。成熟した女の甘い血を。

―――ミナ、の、あの女の血を。

 毅然と自分に挑んでくるあの女の血を。隙なくドレスに身を包み、慎ましやかに夫の背へ隠れるように見えて、自分を相手に一歩も引かなかった女の血を。

 ついにはこの自分を滅ぼした、あの女の血を!!

 そうでなければ、この恥辱はすすげない。この渇きは癒えない。この飢えは、いつまでたっても終わることがない。

(違う)

 早く血を。

 もっと血を。女の血を。

(―――違う)

 ただ一人、手に入らなかったあの女の血を。

(違う!!)

 アークは絶叫した。

 俺は、あの女に会った事などない。

 顔も見たことがない。声も知らない。ましてや、肌の匂いも、血の味も、その身体がどれだけ熱いのかも何も知らない。

 それ、は全て、物語の中の話だ。実際に自分が生きた時間の中で、経験したものではない。植え付けられた、そうあれと願われた架空の記憶だ。

 それなのに、何故飢える。

 何故これほどまでに、渇く。気が狂うほどに、ただ一人の女を求めなければならないのか。

……ああそうだ、俺はそのために産み落とされた。

 きっと俺が滅びても、何度でも何度でも、「俺」は産み落とされるのだろう。

 そう望む人々の想像によって。それを恐れる人々によって。

 「俺」は何度でも血に飢え、あの女に狂い、教授と敵対し、―――そしてただあの女によってのみ、滅ぼされる。

 完膚なきまでに、あの女に負けるために。

(それが、俺の)

 それが役割だった。そのために産み落とされた。だから飢える。だから渇く。そうして、いつもあの女を、あの女の血だけを求めている。


 だが、それがどうした。


 何故俺が、そんな望みの通りに動いてやらねばならない。敷かれたレール。既に完成された筋書き。どうしてそんなものを、ご丁寧に何度もなぞってやらなければならない!!

 だから、やめる。

 どんなに苦しかろうと。

 どんなに飢えようと。渇こうとも。

 奪って殺して、余計に飢えて何になる。殺せば殺すほど、あの血が欲しくて狂っていく。

 朝も昼も夜もなく、あの女を捜してさ迷うような、そんな時間を繰り返して何になる。

 俺は、俺だ。

―――ミナ。

ウィルヘルミナ、「俺」の永遠の女。

だが俺はもう、会ったこともないお前に焦がれるようなことはしたくない。

 これは、俺の記憶、俺の飢え、俺の渇きではないのだから。




 冷たい。

 酷く噴き出していた汗で、全身がぐっしょりと濡れていた。

 身体がひえる。酷く冷たい。

「……クソ」

 アークはゆっくりと身体を起こした。

「何で今更、こんな夢を……」

 黒と赤とばかりに、おどろおどろしく塗り潰された夢。だが、毒突きながら目を開くと、そこは。

「あ、アークさん」

 蝋燭にも似た、オレンジ色のやわらかな灯りにほわほわと暖められていた。

「――――――」

「おはようございます。もう夜ですよ」

 目の前には、似ても似つかない女。―――あの女よりもずっと幼く、ずっと頼りなく、だが無垢な少女が微笑む。

 ミナ。

 同じ名前を持つことが、まるで悪い冗談のように。

「これは……」

「? あ、照明ですか。磨いたら使えそうなフロアライトが、沢山あったので! 好きに使っていい、ってこの前言ってましたよね? 白熱灯より、こっちのほうが光がやわらかくてかわいいなあって思ったんですけど、どうですか」

 悪夢、こそが現実で。

 今、この目の前の光景のほうが、よほど夢のようだった。

 いつも薄暗く、埃を被った古くさい店。

 このまま忘れられていくだけの廃墟のようなそこに、自分は確かな安堵を覚えていなかったか。それなのに。

「エリクさんがさっき、もうすぐ夕食ができるよって言ってました。ふふ、ここまで良い匂いがしてきますね。お料理上手で凄いなぁ……、昨日のトマトソースのコートレットもすごく美味しかった。今日は何でしょうね」

 この平穏は何だ。この暖かみは何だ。

 こんなものは、俺は知らない。相容れないものだ。

「あっ、そろそろ九時ですね。お店閉めますね」

 ぱたぱたぱた、と、ここ数日で耳に慣れた、軽い足音。かろん、と鍵を閉めるのに合わせて、ドアの鈴が小さく揺れる。

「アークー、起きたの~? 今日は羊だよ~」

「わあ、羊ですか!?」

「うんうん、シニョリータ。今日はやわらかぁいラムのいいとこが買えたからね。たっぷりのルッコラでタリアータ風に仕上げようね。あったかぁいズッパも仕込んだよ、夜はまだ冷えるよね~」

 間延びした口調、穏やかな声。

「うわあ、楽しみです!」

「そっち片付けて、手を洗っておいでね」

「はあい! そしたら、お皿出しますね!」

 緩やかな空気。確かにそこにある、いっそ押しつけがましいほどの、いきいきとした生の気配。

―――チ、とアークは舌打ちした。

「アーク、何してるの。早くおいで。俺、今日は仕事残ってるから、ちゃっちゃと食べちゃってよ」

 死と破滅と廃頽とが常に共にあった。

 あった? いや、そんな場所にいたことはない。ただ、いたことになっていただけだ。物語の中を生きた、オリジナルには。

 自分はずっとここにいた。死なせるほど吸血したこともないし、獲物を隷属させたこともない。だけど、それでも。

「あれっ、エリクさんのお仕事って……そういえば、何してらっしゃるんですか?」

「言ってなかったっけ? 今はエンタメコンテンツ関係のライター! ゲームとかアニメとかコミックとかの紹介記事書いたりね。人間って面白いよねぇ、俺たちみたいなのを産み出すだけあって、次から次へと色んなものを想像して創造してるんだからさ」

「ゲーム……ですか。アニメは小さい子たちとよく見たりしてたんですけど、ゲームはあんまりやったことないなあ」

「えっホントに? それは勿体ないよ、ゲームは現代のテクノロジーで発展した新しい物語の表現方法だよ。小説を読むのと同じに、君を新しい世界に連れて行ってくれるよ」

 何せ神さまがラスボスで悪魔が世界を救っちゃったりするしね~、とエリクは笑った。

「自分たちが縋るために産み出した絶対の『神』を、今度は悪役として産み出した俺たちみたいなのに倒させるんだから。ホント、突拍子もないよねぇ。そこが面白いんだけど!」

 こんな暖かな風景は、やはり、自分の属するものではない。……と、実感する。

 のろのろと店を出て、ダイニングのテーブルに着いた。エリクは食と生活とを大事にする男で、だからアークも三度の食事は長い時間を掛けてきちんと取るよう仕込まれてしまった。

 微かな声で鼻歌を歌いながら、ミナが皿を並べている。ダイニングはエリクの管轄だから、とても清潔に片付けられていて、居心地良く調えられていた。テーブルには小さな花束まで飾られている。理想的な食卓だった。

「はい、お待たせ。今日のズッパも野菜たっぷりだよ~」

 パン籠に盛られた焼きたてのパン、小麦の芳ばしい香り。手際よく並べられていく料理。

―――どうしようもなく、堪らなくなる。

「……すまん、用を思いついた」

「うん?」

 最後の一皿を並べ終え、エリクが席についたところでアークはかたりと立ち上がった。

「準備して貰ったのに悪いな。お前達で食べろ。俺は少し出る」

「ええ~? まあいいけど……その間、俺はここに居たほうがいいよね、やっぱり」

「何時になるか解らんぞ」

「うーん、仕事はどこでも出来るしそれはいいけど……シニョリータを一人にするのは、やっぱりなあ。あっ、ただアーク、PC借りるよ。いい?」

「好きにしろ。どうせ俺は使わん。お前専用だ」

「アーク、そろそろテクノロジーと和解しようよ……」

 知らん、と短く応えて、アークはそのまま家を出た。何十年も暮らしてきたはずの自分のねぐらが、知らない誰かの居場所になってしまったような気がしていた。

 暖かいもの、穏やかな場所、生の気配。

 それら善良ないとなみと自分とが、同じところにあってはいけない気がする。

―――血が、飲みたい、と。

 およそ生まれてから初めて、そう思った。

「……アークさん、どうしたのかな。わたし、何かしてしまったでしょうか」

 静かに閉まったドアを見つめながら、暖かなダイニングに残された娘は、眉を下げてぽつりと呟く。

 エリクは小さく苦笑した。

「うーん。君がどうこうじゃないよ、あれは。だから気にしないで。アークは頑固だからね、……色々、雁字搦めなんだよ。だから今、ちょっとしんどいんだと思う」

 自分で思うよりも、本当はずっと、お人好しな吸血鬼。エリクは行儀悪く食卓に頬杖を突いて、嘆息した。

「昔から、悪ぶってるくせに凄く親切で、やさしいんだよ。吸血鬼は人間の敵じゃなきゃならない、って思い込んでるけど、もう全然、違うものになってるのに」

 言いながら、そっと目を伏せる。

―――八十年以上も前、この街に流れて来たばかりの自分。縋るように人間へ伸ばした手、呆気なく決裂した関係。

 このまま死ぬのか、と思った自分を助けてくれた、面倒見のいい吸血鬼。

「俺だってもう、とっくに狼男の原形からなんてずっと外れちゃってて、だけど好きに暮らしてるのにね~。アークはまだ、囚われてるんだ。これでいいのか、ってね。自分を許せないんだよ」

「……えーと、それは」

「アークはね、俺たちよりずっとそういう束縛が強いんだと思う。俺たちはなんとな~くぼやっと『こういう生き物』って思われて生まれてきただけだけど、アークにはしっかりした原典があるから。いつも自分とオリジナルとの間で、苦しんでるんだよ」

産まれて来ちゃえば、こっちにものなのにね。エリクは実際、そう思っている。

「だっていくら原典があったって、毎日どう暮らしてるかまで、詳細に書かれてるわけじゃないんだから。行間で何をしていようと自由だし、……そもそも、そう書かれてたからって、その通りにしなきゃいけないってこともないんだよ。だってそんなの不可能だもん」

 言いながら、エリクは苦く唇の端を引き上げた。きっとミナには、自分が何を言っているのか解らないだろう。それでも、一度は言葉にしておきたかった。

 やさしい友人。君は自由なんだよ、と。

「……アークさんはやさしいから、」

 けれど、予想に反して、まだ何も知らない少女も口を開く。

「期待に応えなきゃ、って思っちゃうのかも知れませんね」

「ああ。……そうかもな~。そういうとこ、あるかもね。何しろとにかくお人好しだから」

「だって普通、手紙一枚で人一人の世話をまるっと請け負おうとは決めないと思うんです。私が言うなって話なんですけど」

「ハハ、確かに! でもシニョリータ、君は堂々とここにいていいんだからね。アークはどうせお金も時間もありあまってるんだしさ」

「……お世話になりすぎて、どうやってご恩返しをしたらいいのか解らないなって」

 ああ、この子も良い子だ。とても良い子だ。

 きっと仲良くなれそうな気がする。そしてあの色々と拗らせたお人好しも、いつかこの子と、馴染んでいってくれればいい。

 エリクはにこ、とミナへ微笑みかけると、少し息を吐き出して、ほったらかしのままだったカトラリを手に取った。

「……さ、食べちゃおうか! あったかいものはあったかいうちに食べないとね。召し上がれ!」

「はい。頂きます」

 ミナが食前の祈りを短く捧げる。歌うような声に耳を傾けながら、エリクは、本来の棲み家である夜の中をさ迷う友人が、少しでも心安らかであるようにと願うのだった。




 夜のアルファベット・シティは、昼とはまた全然違った顔を見せる。

「アーク! 久し振りじゃない。どうしたのその怪我!?」

「またどっかでトラブルか? 今回は酷いな」

 本来、自分が生きるべき時間はまさしくこの黒々とした夜の中にあるのだと、街灯と街灯の間、光の切れ目を縫うようにして歩きながらアークは嘆息していた。

 あちこちから声が掛かる。人間も、ファントムも。アークはこの街では、ちょっとばかり顔が知られている。こうして歩けば、声が掛かるのも当然と言えば当然か。

 しかし今は、機嫌良くそれに付き合う気にもなれなかった。

 夜。

―――あの女と会う時も、いつも夜だった。

 いや、会っていない。会ったことなどない。そう本の中に書かれているだけで、でも。

「どうした、不景気な顔して。今日は時間があるのか?」

「いや。……いや、ああ、そうだな」

「何だよ、煮え切らねえな」

 古い馴染みのドワーフが、がはは、と笑う。

 物語に描かれた通りの、ずんぐりとした身体に豪快な笑いかた。彼はすっかり人間の世界に馴染んでいるが、それでも、自分の原形を忘れていない。

「あんたが顔を見せるなんて、このところなかったからな。今夜は飲むぞ!」

「……いいのか。奥方にどやされるぞ」

 うっ、と言葉に詰まった旧友の姿に、ちょっと笑った。区画整備が進んで、ここも随分ときれいになったものだけれど、夜はやはりまだ殺伐としている。

 きれいに均された歩道のあちこちにたむろする、影のような人々。人間もファントムも混ぜこぜに、油断ならない目で通りすがる誰かを値踏みしている。

(……いや、だけど)

 妙だな、とアークは思った。

 人間とファントム、という生まれの別よりも、こういった夜には、善と悪といった性質の違いのほうが、よりくっきりとグループを分ける。あくどい者は同じような者を好むから、たちの悪いブローカーだの女衒だのは、ファントムも人間も関係なくつるんで手を結んでいたはずだった。

 これまでは。

「おい旦那、どうした?」

「……いや、……」

 けれど、今夜はそうじゃない。

 よくよく見ていると、不自然なまでに人間達がかたまっている。誰がそうで、誰がそうでないかを見定めるかのように、疑念の視線を巡らせている。

―――ファントム、の存在は、おおやけにはされていない。

 だがいわゆる世界の上澄み、とされる存在には、それは暗黙の了解のように周知されてきた。

 つまり政府や国家、といった立場に立つ者たちにとって、知らないでは済まされない、けれど緩やかに無視をしておくのが最も無難と判断されている、ということだ。

 実際、ここに確かに存在しているものを、ないものにはできない。けれど、想像から生まれた存在、などというものを、公的に認めることなどできないだろう。丁度いい扱いだ、とアークも思っている。

 だが、この街では。

 ファントムは、公然の秘密だった。

 どうしたって、同じ場で暮らしている。親しく打ち解けた人間には、自ら明かす者も少なくない。

 そもそもが、老いることのないファントムがそれを隠したまま生きていくことなど不可能だ。そうやって、折り合いを付けている。

 だがさすがに、全員が全員、のべつまくなく自身がファントムであることを公言しているわけでも、また、なかった。

 だから。

 もしファントムという存在を知っていて、尚、誰がそうであるかを知らないのなら。

「……あんまりふらふら出歩くなよ、じいさん。夜道に気を付けろ」

 そして、ファントムと人間、という、曲がりなりにもこの街で共存してきたふたつの存在が、分断されようとしているのなら。

「お前さんが言うと、真実味があるな……」

 夜を歩く者。不死者の王。

 ごくりと生唾を飲み込んだドワーフに、アークは少し嗤った。

「今夜は大人しく帰れ。……奥方によろしくな」

「そうするとするか。お前さんも、酷えツラしてるじゃねえか。男前が台無しだ。あんまり狼を困らせるなよ、あいつハゲるぞ」

「いやいっそ見てみたいだろ、それ」

 無毛の狼。想像して、ちょっと笑った。

 ドワーフと別れて、また街をそぞろ歩く。昼間はあんなにも明るく、みっしりと植えられた街路樹の葉がきらきらと光を弾くような道も、夜となれば別の顔だ。

 廃れたビルやシャッターを閉じた店のうらぶれた姿が、やたらと目に付く。けばけばしいネオンサインに目を眇めた。

 夜。

 だけどここにも、闇は少ない。

 アークはふらり、と細い路地に入った。異形が生きるには、ここには闇が少なすぎる。

 しかしそうやって隠れるように踏み入れた路地にすら、紛れる闇は少ない。裏口に灯された明かりや、窓から漏れる光が、アークをくっきりと浮かび上がらせようとする。

 大通りには立てないたぐいの人々も、また。

 アークと同じように、路地へ逃れて細々と日常をいとなんでいた。

 どこにも居場所がないような気がした。

「……しようもない」

 ふ、と嘆息する。それでも、あの穏やかで暖かな部屋よりは、退廃と破滅とが色濃く匂うここのほうが、まだ相応しい気がしていた。

 カツ、とヒールが石畳を打ち付ける音がする。また一人、誰かが路地に入り込んだ。

 これから、どこへ向かえば良いのだろう。

カツ、カツ、カツ。ヒールの足音は近付いてくる。アークは目的も見いだせないまま、ただ道なりにそこを進んだ。

 カッ。

 足音が止まる。視界に、クラシカルなキャメル色のラウンドトゥがするりと入る。

 邪魔だな。何故、人の進行方向に。アークはやっと、目の前を塞ぐように立ち止まったその人影を見た。

「―――お久し振りね、伯爵」

 見たことのない顔をしていた。

 当然だ、一度も会ったことがない。その本、には詳細な描写などさしてされていなかった。

 だからアークは、彼女がどんな形の目をしていて、どんな色の唇をしているかすらまるで知らない。

 それでも、解った。目の前に立つこの女が、何者であるのか。

「探していたのよ。会いたかったわ」

 知っている、このなめらかな皮膚の下に流れる血がどれほど甘いのか。

 知っている、この肌をぷつりと破って牙を沈める、その感触がどれほど恍惚とするものかも。

 掻き抱いた腰の細さ、かぐわしい匂い、何もかもを知っている。触れたことなど一度もないのに、どころか、こうして顔を合わせることすら初めてだというのに、確かに知っているのだ。

 アークは喘ぐように、たったひとつのその名前を口にした。

「……ミナ……」

 誰よりも焦がれた、初めて目にするその女は、似合わない赤い口紅の唇をニィ、と吊り上げて、顔を歪めるように笑っていた。




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