第二章

2-1

 アーク骨董品店は、今日も通常通りに開店休業中だ。

―――と、言いたいところだが。とアークはちらり、寝そべったソファの上から視線だけを巡らせた。

 何せ、店の明かりがついている。何年ぶりにいれたかも解らない、照明のスイッチが入っているのだ。

 その上、店内にはアーク以外にも人が居た。ミナだ。何が楽しいのか、真面目くさった顔をして丁寧に商品の埃を払っている。

 ミナがこの街にやってきてから、既に三日が過ぎようとしていた。もっとも、初日は着て早々に気を失って起きたら二日目だったのだろうが。

(……解らん)

 その二日目は、主に彼女の暮らす部屋を整えることで終わった。エリクが嬉々としてアークの隣の部屋を掃除し、そこに彼女を連れて買いに出掛けた家具を運び入れ、一日仕事で仕上げたのだ。

 娘はしきりに新しい家具なんて、と恐縮していたが、脚の折れたベッドや穴の開いたクロゼットを使わせる訳にもいかない。それに、アークは正直なところ、所有している財産にあまり頓着もしていなかった。家主の義務だ、と黙らせて、そこを使わせている。

……もっとも、エリクの趣味なのか何なのか、やたらふわふわした色合いのカーテンだのリネン類だのが運び込まれたことには、少し閉口している。

「こんな立派なお部屋を頂いて、ただ遊んでいるわけにはいきません……!」

 あとは好きにしていい、と言ったアークに、ほとんど叫ぶような勢いで娘は言った。

「こんな広くて立派なお部屋……! わたし、自分の部屋だって今までなかったのに……!!」

「そうか、初体験か。良かったな」

「良くありません! この部屋ならうちの子たち十人でも余裕で暮らせます! 贅沢です!!」

 アークの暮らしている四階は、ワンフロアをふたつに区切って寝室と客室とにしている。

 それぞれ、バスルーム付きのゆったりとした部屋だ。確かに、教会付きの養護院で育ったという彼女にとっては、多少贅沢な部屋に見えただろう。

 しかし、だからといって手狭な部屋に押し込めるつもりもない。引き受けざるを得なかったにしても、面倒を見ると決めたからにはやるべきことはやる。部屋もそのうちのひとつでしかない。

 そう、アークにとっては、それだけのことでしかないのだ。

 それなのに。

(……心底から、解らん)

 娘は本気で楽しそうなのだ。いきいきとして、はたきを片手に埃取りをしている。

 朝一番に、曇りきって白い窓を拭き始めた時には止めたのだ。一応。

 別に店員として雇った訳でもなし、この街でやってみたかったことをやればいい。ただ、一人歩きはまだ危ないだろうから、外に行くならエリクかアルタンを付ける。そう言ったアークに、お世話になりっぱなしという訳には行きませんから、働かせて下さい!……と言い出したのは娘のほうだった。

 やることなど何もない、とも言った。言ったのだ、一応。だから好きにしていろと。

 だが少し考えたあと、それならやっぱりお掃除がしたいです、と娘は言ったのだった。何と物好きな。

(……まあいいか)

 娘を預かったのは別に働かせるためではなかったし、面倒を見るからには働け、などというみみっちい真似をする気はなかった。が、本人がそれでいいと言うのだから好きにすればいい。

 アークとしては、今日も変わらず、ここでうとうとと時間が過ぎていくのを微睡みながら待つだけだ。

―――とは、言っても。

(そうも言ってられない場合ではあるがな……)

 それを考えると、溜息のひとつやふたつもつきたくなる。昨日と同じ今日。今日と同じ明日。その安寧にずぶずぶと沈み込む毎日に何の不満もなかった身としては。

 ふ、と小さく嘆息する。そうしてアークは、昨日の朝食のあと、ニィやオーエンから聞き出した話を頭の中で整理しようと試みた。




 そもそも、娘―――光奈が、自身も知らない神性の光を爆発させた、一昨日の事件。

 あれが何だったのかを、光に焼かれて倒れたアークはまるで把握していなかった。

「痴情のもつれか?」

 娘を連れてエリクが掃除に出かけたあとのダイニング。淹れ直された食後の飲み物を前に、残されたスウィーニィ、オーエンとそしてアークの三人は、改めてその日の事を話し合っていた。

「いや。確かに僕を刺したのは、僕の可愛いキャス―――キャサリンではあるんだけど……」

 あの日、オーエンに取り押さえられても尚ナイフを片手に暴れていた女。

 それは、ここ三年ほどニィと半同棲の状態にあったキャサリンだったらしい。

「とは言っても、この半年ぐらいかな……、ちょっと彼女の様子が変わってきててね。ここ三ヶ月ぐらいは、もう僕の家にはあんまり泊まってなかったんだよねえ」

 自分を刺し殺そうとしたというのに、キャサリンを語るニィの声色は未だに優しい。

「様子が?」

「うん。最初は悩んでるような感じだったから、ああやっぱり、僕と結婚するには色々考えるのかなあと思って。僕がファントムだってことも、猫なことも、最初から彼女は知ってたから」

「えっ、けっ、……結婚―――っ!?」

 ぶっ、と口に含んでいた紅茶を噴き出したのは、ニィの隣に腰掛けていたオーエンだった。

「聞いてませんよ!! 何ですその話!?」

「あれ、言ってなかったっけ。そうだよ、プロポーズもしたし承諾もして貰ったよ」

「そん、そんなおおごとをお前の一存で!」

「あはは、久々にお前から『お前』って言われたなあ。いつもそんなふうでいいのに。ちなみに、一存じゃないよ。両陛下には、もう許可も貰ってるからね」

「なんっ、なんてことをお前は!!」

―――ファントムと人間の、結婚。

 ましてやニィには立場もある。オーエンが動揺するのも無理はない、が。

「マリッジブルーかと考えていた、というのは解った。それでどうした」

 その話は帰国後、改めて二人でやればいい。話を引き戻したアークに、慌ててオーエンは噴き出して汚したテーブルを拭き始めた。

 ニィは相変わらずの鷹揚さで、にっこりと笑っている。

「ああ、うん。ごめんね。だから少しね、様子を見てたんだけど。そのうち、ちょっと気になるような事を言い始めたんだよねえ」

―――主はお許しにならない、と。

 まるで怯えるように。

「主? っていうのはつまり」

「うん。……彼女、結構敬虔なカトリック教徒だからねえ……。教会にかなりお世話になってたみたいだし。そもそも、聖書を持ち出されたら僕たちみんな悪しき偶像だからねえ。でも、もう三年も付き合ってるのに今更じゃない?」

「……確かにな」

 ニィがファントムだ、ということで悩むのなら、そもそもカミングアウトされた時点で今後の付き合いを考えただろう。

 しかし、この三年間、アークの目から見ても二人の仲は順調だった。小姑のようなオーエンにも文句が付けられないほどに、だ。

「そのうち、段々会えなくなっていったんだよねえ……。会ってもこう、怯えてるような感じがあってさ。泊まってもくれなくなったし、ああこれどうしたらいいのかなと僕も思ってて」

 でも、別れるつもりはなかったからね。と、ニィは当たり前のように言う。

「アルタンにも頼んで、ちょっと遠くからね。様子を見てて貰ったんだけど。とうとう昨日……って感じだね。久々にうちに来たと思ったら、……ハハ」

 化物、って。

「許されない、地獄に落ちる、それだけは駄目だってぼろぼろ、ぼろぼろ泣きながら刺してきてさ。ああ、そんなに悩んでたのかーって僕も悲しくなっちゃってさ。それなら少しぐらい、刺されてあげてもいいかなって思っちゃって」

「刺されて、って―――」

 オーエンが絶句している。そんな親友に、ニィはちょっとばかりすまなさそうに肩を竦めてごめんね、と言った。

「そのくらい、僕はキャスにメロメロだからさ。でも、騒ぎに気付いたんだろうね。アルタンが部屋に飛び込んできて、オーエンが君を呼びに行って。そしてアルタンがキャスを取り押さえて―――あとはアーク、君が見た通りだよ」

「……そうか」

 それは、一見、ただの痴情のもつれにも思える事件。

 しかしアークには、どうもそれだけとは思えなかった。




(……そもそもキャサリンは、敬虔とは言ってもそこまで狂信するタイプの女じゃなかった)

 ぱた、ぱた、と、布を柔らかに打ち付ける音を聞きながら考える。

 そもそもがキャサリンは、アークの見た所内省的な女だった。怒りや悲しみを自分以外の誰か、に対してぶつけるタイプの女じゃない。ましてや、それほど狂信的に聖書に沿って生きるたぐいの女でもない。何せニィと出会って少しするまで、彼女は娼婦として生計を立てていたのだ。それならまず、自分自身に対して自罰の感情が大きくなるだろう。

 ましてや、彼女がニィを深く愛しているのは傍目にも明らかだった。それが化物、などと。

(簡単に口に出せるはずがないんだ)

 それに、とアークは目を閉じる。

(……計ったかのように、こいつが到着した日に事件が起きる、ってのも……)

 タイミングが良すぎる、ような気がする。いや、これは考え過ぎかも知れないが。

 人間とファントムの小さな諍いやトラブルは、これまでにも多々起きてきた。その為に、自分がまとめ役―――という訳でもないが、世話役のような立ち位置で色々と取りまとめている。

 だが、それでも刃傷沙汰に及ぶような事はそうそうなかった。ましてやファントムの側が生死の境に置かれるようなことなど。

(……どっちにせよ、このまま捨て置くわけにもいかない、か)

 キャサリンは不安定な状態にある。ファントムであるニィを化物、と呼んだのなら、ましてや刃まで向けてきたのなら、この先自分たちにも敵意を向けて来る可能性がある。

 アルタンあたりにでも、少し目を配っておくよう言っておいたほうがいいだろう。……

(……ああ、それに、そうだ)

 ミナの光。あの爆発するような光に紛れて忘れてしまっていたが、あの時確かに、キャサリンからもミナと同じものを感じた。

 光の気配。不快な何か。

 あんなものを、何故キャサリンから感じたのか。これまでに一度だって、彼女から神の気配など感じた事がなかったのだから。

 まるでミナの登場と合わせたように、もう一人の神性持ちが現れるなど、偶然と片付けて良いものではないような気がする。まだ何一つ、確かなものはないけれど。

「…………」

 まったく、頭が痛い。色々と忙しくなりそうだ、というのに、自分はしばらく右腕が使えない。焼かれた目を優先的に修復しているが、右腕に取りかかれるまで何年かかることやら。

 この先、何があるか解らないというのに、この戦闘力と機動力の低下は中々に痛い。

「あの、アークさん。ここの台を拭きたいんですけど、品物を少し動かしても大丈夫ですか」

「……好きにしろ。壊さなければ構わん」

 実のところ、壊しても特に問題はない。元々が適当に置いてあるだけで、売る気も売れる気もしない商品ばかりだ。アークは骨董品などに興味もないのだから。

「ありがとうございます」

……礼を言われることでもない、とアークは嘆息した。調子が狂う。

 足下に置いていたバケツを持ち上げた娘が、ぱたぱたと小走りに奥のドアを目指した。

 途中、アークの寝ているソファを通りがかる。少し埃に汚れてしまった紺のパンツが、昨日、朝食の席に着いた時と同じである事に、アークはこの娘と半日も同じ空間に居ておいて、今更やっと気が付いた。

「……おい」

 そういえば。

「はい?」

 いつまで、と限らない滞在となる身の上のわりに、この娘が持って来た荷物は僅かにスーツケースがひとつ、だけだったような気がする。追加の荷物も、送られてくる様子がない。

「お前、着替えはどうしてるんだ?」

「大丈夫です、ちゃんと持って来てますよ。ブラウスが一枚とニットが一枚と、Tシャツが二枚ありますので! 数も少ないし、手洗いでちゃんと毎日清潔なものを」

「……ちょっと待て。それだけか」

「あ、あとパンツとジーンズとスカートも一枚ずつ」

「それだけか!?」

 年頃の娘じゃなかったのか、こいつは!

 アークは頭を抱えた。今すぐこいつの保護者をやっていた牧師、とやらにもの申したい。

「お前まさか、今までずっとそれだけで着回していたのか」

「え? あの……普段は制服がありましたし。あと、いつ帰るのか期限も決めてなかったので、状態のいい服は置いてきたんです。洋服は、個人の持ち物じゃなかったので……」

 ああ、そうだ。そうだった。

 この娘は、養護院の育ちだった。しかも教会附属で、あの気の利かない教授が個人で経営しているものだ。

「あの、すいません、見苦しかったですか? あとはここに慣れたら働くつもりだったので、そうしたら何か」

「……出かける用意をしろ」

 アークは左手で額を覆いつつ嘆息した。

 別に、この娘に何らかの情があるわけではない。だが、これはさすがにあんまりだ。

 大して外に出ない自分でさえ、クローゼットを埋める程度には衣服があるのだ。ましてや、この年頃の娘なら着飾るものだろう。

「あの、お出掛け……ですか? でしたらわたし、お留守番を」

「お前の買い物だ! 俺の庇護下に置いた者がみすぼらしくては、俺の不名誉になる」

「えっ、あの、すいません!」

「お前のせいじゃないことで謝るな。これは圧倒的に、お前の保護者が悪い。あのバカ……、自分はそれなりの洒落者だったくせに、まったく何なんだ。気が利かないにも程がある!!」

「ぼ、牧師さまは、いつもとても良くしてくださいました! わたしたちは、一度もお腹を空かせたことがありません!!」

 娘の激しい反発に、アークはぱちり、と目を瞠った。

「確かに裕福とは言えない院でした。だけど、牧師さまがどれほど苦労してわたしたちを育ててくれていたのか、わたしたちは知ってます。……思い出のある懐中時計も、素敵なステッキも、教会へ来る前に大切にお使いになっていたもの全てを売り払って、牧師さまはわたしたちをお育て下さったんです……一生懸命、必死で、お腹を空かせないように」

 それは、アークの記憶の中にある「彼」の姿とはだいぶ違った。

 裕福な生まれで、そのまま特権階級を生きる、泰然とした男。いつも仕立ての良いフロックコートに身を包み、品の良い帽子とステッキとを手放さなかった、紳士という言葉を体現したような老人だった。

 情がないわけではけしてなかったが、かといってそれほど慈悲深くもなかった。自分の正しさをそのまま信じ込める、傲慢さを持っていた。

……自分の持つものをなげうってまで、他者に施すような男では絶対になかったのだ。

「……だが、それとこれとは別だな?」

 アークはくしゃり、と伸ばしっぱなしの前髪を掻き混ぜた。

「保護者には保護者の役割がある。お前が衣服に不自由しているのは事実だ。俺がお前を庇護する、となったからには、俺は俺で、庇護者としてお前に不足がないようにしなければならない。それが、俺の義務だ」

「……でも、そこまでは」

「それが誰かを保護する、もしくは庇護下におく、後見するということだ。そこまでが責任だ。お前は俺に、お世話になりますと言ったな?」

―――今日からお世話になります、毬瀬光奈です。宜しくお願いします。

 言った。確かに初日、しかも一番初めの挨拶で言った。

 娘は顔を青ざめさせた。そんなつもりじゃなかった、と言いたいだろうことが、ありありと解る顔をしていた。

「でも、あの、そこまでお世話になるつもりでは」

「お前がどんなつもりだろうと、俺は俺の責任と義務を果たす。いいか、お前は俺の羽根の下にいるんだ。俺が相応しいと思う身なりを整えるのも、お前が世話を受けるうちの義務のひとつだ。……実際のところ、こんな押し問答をするのも本意じゃない。いいからとっとと、出かける用意をして来い!!」

「は、はいっ!!」

 半ば以上押し切るような形で、強引に娘を店から押し出した。ぱたぱたぱた、と軽い足音。華奢で小さな頼りない身体は、足音まで軽くて頼りない。

「どこがお腹を空かせたことがない、だ。貧相な身体しやがって」

 思春期に必要な、充分な栄養を取って育った身体とは、とても思えなかった。はぁ、と溜息を吐きつつゆるく頭を振る。まったく、らしくないことをしていると我ながら思うが、引き受けてしまったものは仕方がなかった。せいぜい、自分が庇護を与えるに相応しくなって貰わねば。

「―――君は本当に拗らせてるよね~、アーク」

 くつくつと、奥の出入り口から小さな笑い声が聞こえた。

「……いつからそこに居た」

 エリクだ。出入り口に身体を凭れ掛けさせながら、両腕を組んでおかしげに笑っている。

「うーん、お前は俺の羽根の下に、ってところからかな? ついさっきだよ。素直に言ったらいいのに。何も心配いらないから、今まで持ってなかったものを受け取っておいで、って」

「そんなつもりじゃねえよ!」

「そこが君の拗らせてるところだよね~……。他の誰はごまかせても、俺はごまかせないよ。君は昔から、懐に入れた相手のことはそりゃあもう大事にするんだ。八十年以上前から、ずーっと変わってないよ」

 何しろ、俺も君に大事にされた一人だからね。

「自覚してないのが、君の拗らせているところだよ。まったく、偽悪趣味なんだから」

「……そんな訳あるか!」

「ハハ、君も素直じゃないからねえ。まあ、買い物楽しんでおいでよ。夕食の用意でもしながら、店番はしておくからさ」

「いらん!」

「いるでしょ。さ、君も用意して行った行った。シニョリータを待たせるのはガランテじゃないよ!」

 さあ、急いだ急いだ。エリクはにこにこと笑いながらアークを自室に追いやったが、本人にとってはまったくもって笑い事ではなかった。

 何が偽悪趣味だ、俺はこれが正真正銘の素の感情だ。そう怫然としながら階段を上がり、自室に飛び込んで上着を羽織る。

 左手一本で身支度をするのには少々骨が折れた。が、意地でもエリクに助けなど求めない、と心に決めた。

 お人好しはどっちだ、と腹の底から思う。

 八十年にも渡る恩返し。しかもちっぽけな、今となっては恩とも言えないだけのささやかな過去の為に、いったいどこまで世話を焼く気か。何度もそう言ってみたものの、エリクは笑うだけで結局、ずっとアークの傍にいる。

 今となっては、こっちこそがその友誼に報いなければならないではないか。まったく、生きるとは、関係とは、面倒なものだ。

「あっ、アークさん! お待たせしましたっ」

 扉を開けた途端、廊下の数メートル先にある扉から、髪を結って上着を引っかけた姿の娘が飛び出して来た。

 化粧気のない顔だった。もうしていても、おかしくない年頃はずなのに。

ただ顔を洗っただけの素顔は、あどけなさが強く残る。長く伸ばした髪もヘアゴムで首のうしろへ結わえたのみで、洒落っ気というものをひとつも持ち合わせていないような、清潔なだけの姿だった。

「……お前、年はいくつだ?」

 そういえば、そんなことさえ聞いていなかった。

「あ、一八です。高校を卒業したばかりなので」

「そうか」

 それは人なら、遊びたい盛りの年頃ではないのか。

「……どうして、日本を出た?」

 並んで廊下を歩きながら、階下を目指す。

「最初は、働きながら牧師さまのお手伝いをするつもりだったんです。教会にはまだ、小さい子どもがいっぱいいるし。世話をする手は全然足りなかったので」

それに、と彼女は続けた。

「牧師さまがいつも、資金繰りに苦労なさっているのも解っていたので……。少しでも、恩返しが出来たらと思った、というのも本当なんですけど」

 あの教会は、養護院は、わたしの家だったので。

「おうちを出たくなかった、というのも、……本音でしたね」

「……そうか」

 そこ、しか知らずに生きてきたのなら、彼女がそう思うのも当然のことだろう。

「でも、進路を牧師さまに相談したら、それじゃいけないと仰られたんです」

「ほう?」

「世界はもっと広いのだから、その目で見てきなさい、って。いっそ日本を出てみるのもひとつだよ、と仰られて―――最初は気が進まなかったんですけど、確かにわたし、教会と学校しか知らないんだなぁって気付いちゃったんですよね……」

「そうなるだろうな」

 二人、並んで裏口を出る。キッチンからひょこりと顔を出したエリクが、いってらっしゃーい、と声を掛けてきた。

「迷うなら、やってみなさいと牧師さまが。古い知り合いがいるから、手始めに渡米してみるのはどうだい、と言われて伺ったのがこちらでした。でもまさか、牧師さまがご連絡もしていなかったなんて」

 どうやら、彼女にしてみれば、飛行機の到着時間からこの店へ何時までに訪れるか、なども、細かに計画を立てていちいち報告していたらしい。だからすっかり、牧師とやらがアークへそれを連絡しているものだと信じ切っていた。

……だが、そんなことをしていたら、彼女がここへ逃がされた意味はなくなっていただろう。

 頼られた先が自分だ、ということを除けば、奴のやり方は正しい。それはアークも認めざるを得ない。

「本当にご迷惑をおかけしました……」

「いや。言っただろう、お前のせいじゃないことで謝るな」

 この娘は、何も知らない。

 その上、何一つ自分で選べないまま、自分の責任ではないことで、振り回されている。

「―――行くぞ。まずは服からだ」

 似ている、とアークは思った。

―――望まないまま産み落とされて、何一つ自分で選べない役割を果たすよう道を敷かれる。

 物語から産み落とされたファントムは、皆、彼女と同じことを望まれている。

 化物は化物らしく。女神や妖精は、物語や伝承のままの姿で。そう振る舞うよう、そう生きるよう、望まれて産み落とされる。そう願った、想像した人間たちによって。

 だとしたら、彼女はやはり、自分たちの同胞だ。たとえその出生が、どんな形であったとしても。

「あの、でも本当に足りないって事はないんですよ?」

「俺が見る分には、少しも足りてない。いい加減諦めろ」

「うーん、でも……」

 未だに渋る娘にはもう構わず、アークはすたすたと表通りに向かって歩き出した。

 その足取りが思ったよりも軽いものであったことに、彼自身、気付かないままに。




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