1-3
ファントム。
それは、人の想像力が実際に肉と血とを持たせて産んだ怪物たちを差す。
伝承に残る神々、妖精、そして物語に描かれた怪物。それらの実在を思う人々の思念が、集まり凝ってこの現実に産み落とす、と言ってもいいだろう。
「そこの三人は先刻自分で言った通りだ。ケット・シーとケット・クー。つまりは猫と犬だけどな」
「そこは一緒にしないでよね。まあ猫だけど」
「そうです。一応別物ですよ、伯爵。犬であることは、俺の誇りでもありますが」
途端に抗議の声を上げたニィとアルタンは、この際無視といこう。アークはふ、と視線でエリクを差した。
「で、こいつはベナンダンテ。狼男だ」
「というか、俺まだ自己紹介してなかったよね? エリクだよシニョリータ。俺はちょっと一般的な人狼とは違うから、怖がらないでね。田畑と豊穣を魔女や悪魔から守る為に生まれた狼だから、聖なる力との相性は悪くないし、人間の敵じゃないんだよ」
ああ、そういえばお互いの名前もまだ話してなかったか。それなのに、一番隠さなければならないような素性の話をしているのだから、とんだお笑いぐさだ。
「で、俺は見ての通り―――吸血鬼だ。もっとも設定から外れすぎて、もうほとんどオリジナルとは別物だけどな。日光も十字架もニンニクも平気だから、頼むからニンニク持って押し付けたりして来んなよ。うぜえだけだ」
「……………」
淡々と続けるアークを、娘は息を飲んで見つめている。まあ、そう簡単に信じられもしないだろう。もしこれが演技ではなく、本当にただの人間だというのなら。
けれど。
「で、お前は何だ」
あの時自分を焼いた光は、間違いなくこの娘から溢れたものだ。アークはだから、確信していた。
この娘が、普通の人間であるはずがないと。
そうしておそらく、娘をここに寄越した人物は、その事実を知っているからこそここへ送り込んで来たのだ。
「わ、……わたしは、違います。ただの……、普通の人間です」
「これを見ても、まだ言うか?」
アークは静かに右腕を持ち上げた。そうして、綺麗に巻かれた包帯をするすると外す。
「っ……!」
白く清潔な布の下からは、アークの想像したとおり、炭化した真っ黒な皮膚と肉とが現れた。普通の人間なら、とてもそのままにはしておけないような重傷だった。
「これは昨日、お前から出てきた光に焼かれたものだ。俺に深手を負わせられるのは、もう神に直接連なってる力しかねえんだよ。つまり、お前は」
「―――違います、そんなはずない!!」
それまで怯えるだけだった娘の、想像以上に激しい拒絶。ぶんぶんと強く首を振る娘の強い口調に、アークはそこで言葉を切った。
「そんなはずないです。絶対にないです!! 神様に、なんて……そうしたら、私が本当にそんな特別な子だったら、捨てられる訳ない!!」
―――捨てられる。
その一言に、ああそうか、と合点がいった。
先刻、飲み物を用意しようとするエリクへの、あの過剰な遠慮。他人からの親切や好意に慣れていない反応。
それは、その生い立ちに理由があったのだ。
「わたし、は、……確かに、自分が何者なのかは解りません。教会に捨てられていた子どもだから。でも、だから、……そんな特別な人間であるはずないんです」
「―――それはつまり、お前が人間じゃなくても自分じゃ解ってない可能性もある、ってことだよな?」
ビク、と娘の身体が震えた。
「どっちにしろ、お前をこのまま帰すわけにはいかなくなった。……お前、何でここに来た。一から話して貰おうか」
いい調子だ。このまま洗いざらい、吐かせてやる。そう思って畳みかけたアークの問いは、しかし。
「アーク。君ちょっと、意地悪しすぎだよ」
呆れたようなエリクの声によって、遮られた。
「いじっ……!?」
誰がそんな、子どものようなことをするか!
「可愛い子に意地悪したくなっちゃう気持ちも、まあ男として解らなくはないけどさ~。でもそういうの、かっこ悪いよ」
「エリク! こんな時まで茶化すな!!」
「本気だよ。―――ねえ、アーク。君は人を追い込むような男じゃないって、俺は知ってるよ。こんなの、君らしくない」
ひた、とアークの目を見据えてくるエリクの眼差しは、驚くほど真剣だった。大きな手が、娘を支えるように肩を抱き寄せている。
それにとてもよく似た光景をアークは知っている、ような気がした。
(あれは、夜)
古めかしいドレスを身に付けた、挑むような目の毅然とした女。自分と、真正面に対峙する。ミナ。その後ろには、彼女を支えるように夫が、ジョナサンが立っていて、肩を―――
「……あの、そうです、そうでした! わたし、アークさんにお手紙を預かっています」
―――一瞬の追憶は、娘の必死な声ですぐに掻き消された。
「アイブ牧師さまから、渡すようにと」
「……ああ、そいつか」
娘をここに寄越した人物だ。アークはふる、とひとつ、かぶりを振った。
会ったこともない女との、実際には経験していないはずの思い出。そんなものに振り回されている時間など、ない。
「寄越せ。どこにある」
「あっ、手荷物の中に……持って来ます!」
娘はすぐにパタパタと駆け出て行った。その後ろ姿を、ただ見送る。
光奈。ミナ。
よりによって、どうしてそんな名前の女が今更目の前に現れたのか。
「……アーク」
気遣わしげなエリクの声に、はー、とひとつ、息を吐き出した。
「調子が悪い」
「そうだね。そう見えるよ。怪我のせいじゃないよね」
「ああ。……ただ単に、俺が引き摺られてるだけだな」
揺れている。
自分でも解る。築き上げたものを全て吹っ飛ばして、何も解らずただ設定に沿って、望まれるまま暴れていただけの頃に戻ろうとしている。
……ふー、とひとつ、大きく呼吸をした。エリクやニィの、心配するような視線がいたたまれなかった。
「伯爵。それはあなたの、」
だが、アルタンが口を開いた、その時。
「お待たせしました!」
ぱたたたた、という軽い足音が再び響くと共に、寝室へ手荷物を取りに行っていた娘が再び姿を現したのだった。
ニィがそっ、と目でアルタンを制している。余計な事を聞かれたくない。脳天気なようでいて聡い猫には、感謝するしかない。
「これです。これ……、着いたらお渡しするように、って、アイブ牧師さまから」
「うん、ありがとね。アーク、んじゃこれ読んで。皆はいつまで立っててもしょうがないからさ、とにかく座って食事にしようよ~」
まだいつも通りには動けないアークのために、エリクが娘から差し出された封筒を受け取る。
ニィたち三人は慣れた様子で予備の椅子をがたがたと動かし、テーブルの一角を陣取った。
それぞれへ、飲み物が配られる。ニィとオーエンには紅茶が、アルタンにはコーヒーが。
そうして、すっかり醒めてしまったカプチーノも淹れ直されて娘の前に置かれた。
「さ、ご飯にしよう! いただきまあす!」
「い、いただき……ます……?」
戸惑いながら、娘が手を伸ばす。そうして、彼女の意識が逸れたところを見計らって、アークは渡された封筒をくるりとひっくり返した。
差出人の名前はない。白い、ごく一般的な市販の封筒だった。どこかに落ちていても素通りしてしまうような、そんな手紙だ。
しかし、封を開けて便箋を取り出し、その一行目を見て、僅かに。
「……………」
目を瞠る。
「どう、カプチーノはおいしい? シニョリータ」
「はい! こんなにふわふわしてるのに飲み物なんて……、ミルクもとっても甘いです」
「そう、良かった。ブリオッシュもどう? カプチーノに良く合うよ!」
「は、はい。ありがとうございます、頂きます」
「えっ、それエリクが焼いたブリオッシュ? なら僕も食べる!」
「……お前、朝からよくそんなに食えるな。朝食はもう食べて来ただろう」
「美味しいものは美味しいんだよ、アルタン」
賑わう食卓を横に、アークは息を飲んだまま忙しく文面を辿った。
脳裏にぐるぐるといくつもの考えが回る。そんなことになっていたのか、道理でここ最近は姿を見ていなかったはずだ、いやそもそも、あいつまだ生きていたのか、代替わりもしていなかったのか―――なんてことに首突っ込んでいやがる。
最後の署名、を目にした時には、乾いた笑いが口を突いて出て来た。ハハ、ハハハ。そりゃそうだ、こんな手紙、あいつにしか書けねえだろうよ。
「アーク?」
さすがに、訝しげな顔でエリクがこちらを窺ってくる。
敵の敵はかつて敵だったとしても味方。
一周回って一番信頼できる、のは、確かにその通りだろう。何しろ、自分がそちら側と手を組むことは絶対にあり得ないのだから。
「クッソやりやがったな、教授……!!」
だが、こんなに問答無用で巻き込むとは。
確かにこの状況では、事前に連絡を取るのもかえって危険だろうと理解出来る。
出来るが、納得はしたくない。
「アーク。教授、ってまさか」
ぐしゃ、と左手の中で握りつぶした手紙を、テーブルの上に放り投げる。そうしてアークは、額を覆って天を仰いだ。
はー……。
特大級の溜息を吐ききりながら、一呼吸置く。その様子を、テーブルについた全員にじっと注目されているのも解っていたが、もうどうでもいい。
「……エリク、そいつはミナだ。毬瀬光奈」
「あ、うん。ミナ……、ちゃん、か。そっか。うん。あー……なるほど。よろしく」
「あ、はい。よろしくお願いします」
で? と目問いしてくるエリクと三人に、やはりこれを言わなくてはならないのだろうか。ならないのは解ってる。だけど心が許容しない。
アークは天を仰いだまま、渋々口を開いた。
「……しばらく、そいつはここで預かる」
何とも言えない沈黙が降りた。やめろ気遣うな。ありがたいが、いたたまれない。
「俺の庇護下に置く。周知しろ」
「了解した。伯爵、では俺はこのことを皆に伝えてくる」
席を立ったアルタンに、頼む、と短く頷いた。アルタンは機動力が高い。午前中には、街中のファントムがこのことを知るだろう。
「僕たちも何か……、と言いたいところなんだけど、さすがにあんな大怪我しちゃったからね。一度国に帰らなきゃならないんだよねえ。本当は今日、その挨拶に来たところだったんだ」
世話になったのに、手伝えなくてごめんね。
ニィはすまなさそうにへにゃりと耳を伏せるが、彼には彼の立場と役割がある。
「気にするようなことじゃない」
「うーん。でも君のその怪我、元を正せば僕のせいだからね……。猫は仇を絶対忘れないけど、恩もまあまあ忘れないんだよ。だからそのうちにね」
お嬢さんも。そう言って、にこ、と笑いかける。娘はまだ戸惑ったままだ。
「さて、そうと決まればシニョリータの部屋を用意しないとね!」
ぱん、とエリクが両手を打ち鳴らした。何が楽しいのか、こっちもにこにこ笑っていやがる。アークはガリガリと後頭部を掻いた。
―――それでも、ここへ寄越されたのも、自分の名前ですら、何一つこの娘自身のせいではない。
それでも気に入らない、と、八つ当たりをするには、アークの自尊心は高すぎた。
どうせ一時のことだ。
「―――まあ、そういうわけだ」
ニヤ、と唇の片端を吊り上げる。
「ようこそ、お嬢さん。ファントムの住む街へ」
かたん、とエリクが席を立った。次いでニィ、オーエンも。
アークはギ、と椅子を鳴らして、ゆったりと背もたれに身体を預けた。唯一、自由に動かせる左手を、ゆるゆると持ち上げる。
エリクが胸に右手を当てた。オーエンも同じ仕草をし、ニィは鷹揚に両手を広げた。
「我ら不死者の王の名のもと、一同、これを歓迎する」
―――そうして、昨日と変わらず繰り返すだけの明日が、ほんの少し姿を変えて、アークの前にやって来たのだった。
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