1-2

 最初の記憶は、いつまでも消えず、鮮やかなまま脳に焼き付いている。


 まず感じたのは、とてつもない飢えだった。渇きだった。ひりつくような凄まじい飢餓だった。

 腹が空いていた。喉が渇いていた。細胞のひとつひとつまでもが水分を失ってからからに乾き、萎んでいるような気がしていた。

 だから、探した。

 食糧を。飲み物を。自分にとってのそれらを。

 幸い、ここは餌に困らなかった。そうだ、餌、だ。食事などとはとても呼べない。そんなきれいなものじゃない。ゴミ箱を漁るカラスよりも、情けなく惨めに餌を漁った。

 それでも、飢えは癒えなかった。渇きはより酷く、身体を苛んだ。

 飲んでも食べても、飢えと渇きは治まるどころか悪化の一途を辿った。どんなに食べても、どんなに飲んでも、満たされることは一度も無かった。

 だからもう、諦めようと思った。こんな不毛なことは。

 餌だって、そう乱獲されてはたまったものではないだろう。食べ尽くすような真似はしてこなかったが、どうしても罪悪感が拭えなかった。

 だから、やめた。

 食べるのを止めた。飲むのを止めた。

 そうしたら、少しだけ息をするのが楽になった。自分はけして満たされることがないのだと、認めてしまえばそこまでだった。

 食糧は食糧じゃなくなり、隣人になった。世界がほんの少しだけ、その姿を変えた。

 生まれ落ちてしまった以上、どうせ生きていかなければならないのなら、そのほうが随分ましだと思った。


―――ミナ。出会ったこともないお前。

 どうせお前が、手に入らないのなら。


「……………」

 アークはゆっくりと目蓋を持ち上げた。だが、たったそれだけのことをするだけでも、ズキ、と鋭い痛みが顔中を走る。

「……あ、」

 何だ、と呟こうとしても、声が上手く出なかった。何だ。何が起きている。

 いつもの癖が、伸ばしっぱなしの前髪を掻き上げようとして右腕を持ち上げさせた。しかし、その右腕にも感覚がない。痛みばかりがずきずきと走る。

「―――ああ、」

 そうか、と溜息混じりに呟いて、アークはのろのろと起き上がった。辺りを見回す。しっかりとカーテンを締められた部屋は暗く、時刻が解らなかった。

 見下ろした視界の中、右腕は辛うじて腕の形を留めている。ぐずぐずに崩れて、肘から下がなくなっていてもおかしくなかった。あの時、自分を飲み込んだ光を憶えている。よくぞ生き残れたものだ。

 包帯でぐるぐる巻きにされたその下では、きっと焼け爛れた皮膚が黒く炭に近くまでなっていることだろう。

 左手で顔を触ってみる。顔の左半分に、大きなガーゼが当てられてその上から包帯が巻かれていた。こっちも焼かれたな、と溜息が出た。ガリガリと後頭部を掻く。これは治すのに時間が掛かりそうだ。

 ふとアークは、自分が寝ていたのはベッドではなく自室に置いていたカウチソファだったことに気付いた。何でこんなところに、と舌打ちしつつ寝台に目をやると、誰も居ないはずのそこに一人分の膨らみがある。

「んん……」

 もぞ、と膨らみが動いた。耳慣れない、まだ幼さの残る声。目を凝らすと、毛布から艶のある焦げ茶色の髪が覗いている。

―――誰だ。

 じっ、と見つめるその先で、膨らみはゆっくりと寝返りを打った。それから、少しして。

「あれ、わたし……ここは、えっと」

 起き上がる。まさかここにいるとは思わなかった少女が、寝起きのあどけない顔をして不思議そうに辺りを見回していた。

「え? あれっ、―――きゃあ!」

 アークと目が合うと、小さく悲鳴を上げて毛布に潜り込んだ。

何だ、人を化物みたいに。間違ってはないけどな、と眉を浮かせる。だが問題はそこではない。

「な、何でアークさんがいるんですか。っていうかその怪我、あの、包帯」

 疑問はまずひとつに絞れ。優先順位の高いものから解決しろ。支離滅裂だ。

「お前こそ、何でそこで寝てる。ここは俺の部屋で、お前が籠城してるのは俺のベッドだ」

「え? ええっ? だってわたし、あれっ? 蝙蝠に連れられてどこかのアパートに行って、あれ、でも」

 なんてこった。はあ、と溜息が唇を割る。

アークは天を仰ごうとしたが、焼けた皮膚が引き攣って首を動かせなかった。最悪だ。

「……お前、憶えてないのか」

「何を……ですか? あの、わたしどこかのアパートに連れて行かれたのは憶えてるんですけど、……そうだ、男の人が倒れていて」

 肝心なのはそのあとだ。もぞ、と毛布から顔を出した少女の仕草に苛立ちながらも、アークは取り敢えず続きを待った。

 しかし。

「おっはよー二人とも。起きてるー?」

 それを遮ったのは、コ、ココン、というやや性急なノックの音と、やけに陽気な若い男の低い声だった。

「エリクか」

「あっ、良かった。アーク起きたんだね。開けるよ、いい?」

「むしろ早く来い。これはいったいどんな状況なんだ、説明しろ」

 不機嫌なアークの掠れ声にも、エリクと呼ばれた若い男は動じなかった。はいはーい、と軽い口調で返事して、重い木のドアを開ける。

「あっ、君も目が覚めたんだね! 良かったよ~。シニョリータ、気分は悪くない?」

 現れたのは、見上げるように背の高い青年だった。それでも、ニィやアルタンよりは少し年かさに見える。

 身長に相応しい分だけ鍛えられた逞しさが、シャツの上からでも解るような見事な身体つきをしていた。

「アークはどう? 起き上がれそう?」

「―――脚は問題なさそうだ」

 アークはソファに腰を下ろしたまま、二、三度軽く脚を持ち上げてみた。少なくとも、歩行には苦労しないで済みそうだ。

「そう、良かったね~。昨日はびっくりしたよ。オーエンがやけに焦って呼びに来たと思ったら、アークぼろぼろなんだもん」

 おまけに、こんな美人のシニョリータまで倒れてるしさ。そう付け加えて、毛布を被った娘にウインクなど飛ばしている。

「で、この子誰?」

 アークは頭を抱えたかった。腕が動いていれば確実に抱えた。

「……美人だの何だの、余計な事を言う前にまずはそっちだろ」

「えっ、だって美人は美人でしょ? 俺なんにも間違ってないよね!」

「エリク……」

「まあでも、まずは朝ご飯にしよ。二人とも寝っぱなしで、夜も食べてなかったからさ~。絶対おなか空いてるよ。詳しいことは、食べながら話そうよ」

 エリクはアークの脇を素通りすると、そのまますたすたと未だ毛布に潜り込んでいる娘の傍まで近付いていった。

「恥ずかしがり屋さんのシニョリータ、カプチーノは好き? ミルクたっぷりで淹れたてだよ! 勿論焼きたてのブリオッシュもあるからね。アークが食べるから、表面を焦がしたカリカリジューシーなブラックソーセージにあまーい焼きトマト、おっきなマッシュルームのソテーにふわっふわのスクランブルエッグもあるよ。どう? お腹空いてこない?」

「……す、空いてきま、した」

 きゅるる、と微かな音が毛布の下からくぐもって聞こえた。エリクは暗い部屋の中でも、一瞬明るくなったかと錯覚するような顔で笑う。

「よし! 健康的でいいね。シニョリータ、お手をどうぞ。ベッドから出て、顔を洗っておいで。そこの扉がバスルームだよ。君が支度している間に、最高のカプチーノを用意しておくからね」

 他意のない、人好きのする笑顔だった。つられたように、娘もおずおずとエリクの手を取る。

「アークはどうする? 俺、抱えて連れてく?」

「俺は荷物か。脚は大丈夫だと言っただろう、問題ねえよ」

「そう。じゃあ、シニョリータが戻る前にこの部屋出てね。着替えもしたいだろうし」

「ここは俺の部屋だ!」

「部屋はいっぱいあるのに、掃除してこなかった自分が悪いんでしょ。まともな部屋、もうここしかないんだから」

 ダイニングとキッチンは俺が掃除してるけどさ! とエリクは唇を尖らせた。

こと、家事を問題にされるとアークは勝てない。なにしろ何一つまともに出来ないアークの世話を、長年こまごまと焼いてくれているのはエリクだからだ。

 チ、と短く舌打ちする。そのまま部屋を出るのにドアのところまで歩いたが、このままやり込められるのも面白くない。

「あのなあ、エリク」

「うん? やっぱり抱えてく?」

「いらん。―――気を付けろよ。俺のこの怪我は、その女の仕業だからな」

 言いながら、ぱたん、とドアを閉める。えええええ!? と大きな声が内側で響いたのを背中で聞いて、ざまあみろと少しだけ笑った。




 ダイニングは一階。店舗部分―――つまりアーク骨董品店の奥側にある。

 このビルは、隣に並んで建っているビルよりも、かなり幅がない。

 それもそのはずで、ここはアーク個人の持ち物だった。その上、四階まである部屋のどこも人に貸していない。完全に自分だけで使うための建物なのだった。

 ダイニングには既に、エリクの手によってそれぞれの席と皿とカトラリとが用意されていた。

……これまでこの家では見たことのない、クロスだのマットだのまでがセットされている。

 確実にあの娘のためだろう。これだからイタリア男は、とまた舌打ちを漏らした。

「アーク、いつも通り紅茶?」

 アークがのろのろと腰を下ろすのと同時に、ドタバタと騒がしい足音をたててエリクもやって来た。

「ああ。濃い目で」

「朝だもんね。ミルクも付けるんでしょ。……ところでさ、」

 あの子がきみの怪我の原因って、どういうこと?

 慣れた様子でダイニングと続きのキッチンへ進みながら、ほんの僅か声を低めて訊いてくる。

 その口調がいかにも半信半疑というふうだったのは、仕方がないことだろう。見た目は、いかにもひ弱そうな普通の娘だ。

「あんなシニョリータに、きみがやられる訳はないし……」

「―――まあ確かに、油断はあったがな」

 昨日、あのミナという娘が現れてから、たった一時間にも満たない間に何があったのか。かいつまんで説明する。

「ニィが刃傷沙汰!? ええー……それに何そのタイミング。間が悪いったらないじゃない」

「俺もそう思う。せめてお前が居ればな。ここに引き留めておいて、帰ってから改めてオーエンのことをごまかすなり口止めするなり出来たんだが」

「あー、ごめんね……そこは本当に間が悪かったよね。俺昨日は仕事で」

「いや、いい。むしろすぐに駆けつけてくれて助かった」

 さて、問題はこの先だ。運ばれて来た淹れたての紅茶を前に、アークは軽く目を閉じた。

 得体の知れない娘。ミナ。昨日感じた光といい、自分を焼いたあの力といい、ただの人間であるはずがなかった。

 しかし彼女は、ここに「お世話になり」に来たのだという。さすがにアークも、最早彼女がただの間違いや騙されてここに送られて来たのではない、と考えている。

 だが、実際、どこまでを―――そう眉を寄せたところで、タタタ、と軽い足音が階段を降りてくるのに気付いた。

 ゆっくり目を開ける。

「すいません、洗面台使わせて頂きました。ありがとうございます」

 顔を洗って着替えも終え、少しは気分が変わったのだろうか。朝、目を覚ました時より僅かばかり血色の良くなった娘が、席に着くアークをみつけてぴょこん、とお辞儀をした。

 それから。

「あの、お手伝いします。こちらを運べばいいですか?」

 くるりと方向を変えて、迷いなくキッチンへ飛び込んでいく。動き惜しみをしない娘だ。

アークはその様子をじっと眺めた。どのみち、今は他にすることもない。

「あっシニョリータ、着替えてきたんだね。いいね! ブラウスにスカートも可憐だったけど、ニットとパンツの組み合わせも軽快で似合ってるよ~」

 これだからイタリア男は。息をするように、女を賛美しやがる。

 チ、と今日三度目の舌打ちをアークが漏らしても、残念ながらキッチンまでは届かない。

「さ、こっちはいいから座っておいで。シニョリータ、飲み物はどうする? ミルクたっぷりのふわふわカプチーノ? それとも、アークと一緒で紅茶かな。アイ・オープナー代わりにフレッシュジュースのほうがいい? 勿論全部だってかまわないよ!」

「え、あの、そんな豪華な」

「遠慮しないでいいんだよ! どの道ここにあるものなんだから。それより、君の好きなものを教えて欲しいな」

「……ありがとうございます。あの、一番手間がかからないものでいいので」

「あのね、シニョリータ」

 エリクがへにゃ、と眉を下げる顔が見えてくるような声で、言った。

「君の遠慮は、俺が君をもてなしたいって気持ちを無視するものだよ。それが君のやさしさや、慎ましさから来ているものだとしてもね」

「……すいません」

「うん、謝ってくれてありがとう。俺はね、君のような可愛いシニョリータをもてなすのが大好きなんだよ! だからね、君が何を好きか教えてくれたほうが嬉しい。それにね、女の子のワガママに振り回されるのも叶えてあげるだけの力量を持つのも、男の甲斐性だからね。俺に情けない思いはさせないで欲しいな」

 さ、何を飲む? そう続けたエリクの声に、少ししてからやっと、おずおずカプチーノと答える娘の声が聞こえた。

 それは遠慮、というよりも、何かしらの物慣れなさのようにアークは感じる。

 そう、例えば他人から無償で与えられる親切や好意への物慣れなさ、というべきものに対して。

「嬉しいな! やっぱり朝といったらカプチーノだよね」

「あの、……わたし、飲んだことがなくて。だから憧れだったんです」

「えっ、珍しいね。コーヒーは苦手? それともミルクが?」

「いえ、……その、機会がなかったので」

 毬瀬光奈―――名前からして日本から来たのだろう、少女。だが、日本にもシアトル系のコーヒーショップはある。娘の答えは、何かしら違和感を覚えさせるものだった。

(……まあ別に、どうでもいいけどな)

 自分好みに淹れられたミルクティーを、苦労しながら口元へ運ぶ。暫くは右手を使えない。どうやって見苦しくなく食事を済ませるか、それが今一番の問題だった。

「おっはよー! アーク、生きてるぅ?」

 短く嘆息した刹那、脳天気な声が突然裏口から聞こえてきた。

「……ニィ、か?」

 聞き慣れた声に、ティーカップを下ろす。

 ぱたぱたと騒がしい足音と共に、すぐに予想通りの人物がひょこり、ダイニングへ顔を出した。

「朝からすいません伯爵! 一応、止めたのですが!!」

 昨日の大怪我が嘘のようにつるりとした顔のスウィーニィと、彼の後ろで慌てている黒髪の青年。そうして、そんな二人を更にその後方から呆れ顔で見ている、体格の良い金髪の男。

 いつも通りの、見慣れた三人の姿。思わずアークはフ、と笑った。

「お前にニィが止められる訳がないだろう、オーエン。それより、いつも言っているが伯爵はやめろ」

「いえ、そういう訳には」

「そうですよ、伯爵。序列はおろそかにしていいものではありません」

「お前も大概堅いな、アルタン」

「あれ~? ニィたち来たの。朝ごはん食べる?」

 ひょこん、とキッチンから顔を出したのはエリクだ。もてなし好きの彼にしてみれば、朝からのこの騒ぎも歓迎するべきものだろう。

「おっはよーエリク。ありがとう! でも食べて来たから大丈夫。お茶だけ貰っていい?」

「ありゃ残念。いいよ~、三人ともいつものでいい? すぐ出るから座って待ってて~」

 のんびりとした口調のエリクといい、自分のこの酷い怪我さえなければ、まるでいつもの朝の繰り返しだ。アークは小さく苦笑した。

 元凶がすぐ傍に居るというのに、まったく、肝が太いのかそれともただの阿呆なのか。

「あれ、昨日の子だ。おっはよー」

「え? あの……えっ?」

 キッチンからコーヒーカップを手に戻って来た娘だけが、驚いた顔をして三人の頭上を見ていた。

「うん? どうかした?」

 ニィがこてん、と首を傾げる。そのオレンジ色の髪の上で、動きに合わせた猫の耳がひょこ、と動いた。

「っ、耳! あの、耳、動いて」

「へ? そりゃ動くでしょ、耳なんだから。おかしな子だねえ」

 けらけらと笑う。そのすらりと伸びた脚の間で、髪と同じ色をした長い尻尾が楽しげにゆらゆらと左右に揺れているのを目にした娘の顔色が、寝起きと同じにサーッ、と青くなっていくのを、アークはただ醒めた目で眺めた。

「僕はスウィーニィ。ケット・シーだよ。うしろのオーエンも、僕と同じで猫の国の子」

「宜しくお願いします、お嬢さん」

 そう言って恭しく一礼した黒髪の青年は、昨日の黒猫と同じ声をしている。

「俺はケット・クーだ。こいつらとは同じと思わないでくれ。アルタン。よろしく」

 三人を並べてみると、確かに耳や尻尾のかたちがニィたちとアルタンではかなり違った。もっとも、これは猫種や犬種の違いもあるだろう。

「け、ケット・シー……? それってでも、妖精じゃ」

「? そうだよ? そのケット・シーだよ。何でそんなに驚いてるの?」

 娘の手が、カタカタと震えている。このままではせっかくのカプチーノがこぼれてしまいそうだ。アークは短く溜息をついた。

「君も同じようなものでしょ。待って、当ててみるから。昨日の感じからすると、天使とかそういう系だよね。僕の傷は塞がったし、なのにアークは焼けちゃってたから」

「何の話ですか。わたしはそんなこと、」

「え、だってそういうものでしょ? 僕たちは精霊だから、神の光には焼かれないよ。聖と魔が半々だからね。でもアークは百%魔のものだから、」

「解りません! 何なんですか何の話なんですか!?」

 かちゃん、と娘の手元でカップが跳ねた。危ない。アークが眉をひそめるのと同時に、娘のうしろからにゅっ、と大きな手が伸びてくる。

「大きな声を出して、どうしたの? 危ないよ、シニョリータ」

「あっ、……」

 自分の手ごとを覆ってカップを支えた大きな手と、先刻まで一緒だった男の声に、娘はほっ、と安堵した顔を見せた。

 けれど、振り返ったことでそれも終わる。

「こぼさなくて良かった。さあ、君も座って」

「え、あの……その、耳、と尻尾」

「あ、うん。気が抜けると出ちゃうよね~。さすがに完全変化まではしないけどさぁ」

 呑気に笑うエリクの頭からも、三人とはまた違う形の耳がぴん、と伸びている。そうして、腰からはふさふさと毛並みの豊かな尻尾も。

 娘は大きく目を見開いたまま、じり、とあとじさった。けれどエリクの手は相変わらず娘の手ごとカップを覆ったままだし、目の前にはアーク、そうして出入り口には三人がいる。どこにも逃げ場はない。

 アークはク、と唇の端を吊り上げて笑った。その僅かに開いた隙間から、鋭い牙が長く伸びて覗いていた。

「どうした。何を騒ぐ」

「……アーク、さん」

 ごくり、と娘が息を飲む。そのあからさまな怯えた顔に、やっと少しばかり溜飲が下がった気がした。

「お前もお仲間だろうよ」

「解りません。どういうこと、なんですか」

 怖がって泣き出すか、それとも半狂乱になって逃げ出すか。

 そう思った娘は、しかし気丈にもきゅ、と唇を引き結び、まっすぐにアークを見つめてくる。

 それでも、手の震えは止まらない。カチャカチャと鳴り続けるカップとソーサーの触れあう音が、どうしてかアークの耳には心地良く聞こえた。

 スゥ、とアークの瞳の色が変わる。たゆたうウイスキーのような深い色から、鮮やかな血のような赤へ。

 酷薄な笑みをその薄い唇に浮かべながら、アークは淡々と告げた。

「どうもこうもねえよ。ここはファントムの相談所みたいなもんだ」

「ファントム、って」

 ああ、やっぱりそこからか。アークはクク、と喉の奥で嗤った。

今のこの娘の怯えようなら、説明してやるのも悪くない。

「人間の想像や信仰から産み落とされて受肉した、想像上の怪物。それが俺たちファントムだ、―――ご同輩」

 娘は愕然と手を落とした。エリクの手の上、カチャン、と一度だけ大きくカップが揺れる。

 アークは薄笑いを浮かべて、ただその様子を眺めていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る