ファントム イン ザ シティ
日生佳
第一章
1-1
ニューヨーク市、マンハッタン島。アルファベットシティのぎゅっと身を寄せ合うようにして建ち並ぶビルの一角に、その店はあった。
看板も何も出していない、一見してもう廃業してしまったかのような店だ。
曇りきったガラス窓から覗いてみても、薄暗い店内には埃にまみれて白くなったガラクタが放置されているだけ。
しかし、光の届かないその奥で、アークは今日も行儀悪く応接セットのソファに寝そべっていた。
開店はしている。一応。
客を迎え入れる気は、全くと言っていいほど持っていないが。
これぞまさしく開店休業だ。開けていても閉めていても、大した変わりはない。
それでも毎日、アークは朝食後の午前十時から、必ず入口ドアの鍵を開けてこの絹張りのソファに寝そべっている。そして夜の九時まで、起きているのか寝ているのか解らない時間を過ごしてきた。きっと今日も、何一つ変わらないのだろう。
薄く開けていた目蓋を、しっかりと閉じる。半分だけ意識を残した浅いまどろみの中へ、このまま落ちてしまおう。
そう決め込んで、アークはひとつ、小さな溜息をついた。どうせ今日は昨日の続きで、明日は今日の焼き直しだ。そこに、これからを変えるような大した出来事なんてない。
だから寝て過ごしても、起きて何かを待っていても、結局は同じことなのだ。
変わらない。何もかも。
再度の溜息が、唇を割りかけた。けれどその時、かろん……、とまろやかに銅の鈴が鳴った。
ドアに括り付けておいた、来客を知らせるためのベルだ。
ア ークはのろのろと目を開けた。珍しいな、と思った。いつもクソ高い金額をぽんと気前よく支払ってくれる、好事家のじいさんが前回来てから、まだ二ヶ月も経っていない。
何か買い忘れでもあったのだろうか―――億劫そうに首を持ち上げたアークの視界を、溢れるような光がいっぱいに埋めた。
逆光。
開いた扉から、眩く差し込んでくる午後の光。その中心に、輝くような人影がくっきりと浮かび上がっていた。
「あのー……、すいません」
アークは咄嗟に目をすがめた。光。嫌な気配だ。自分とは相容れないものが来た。反射的に、そう思った。
「すいません、誰かいませんかー?」
若い女だ。圧倒的な光に相応しくない、戸惑った口調。きょろきょろと店内を見回している。
だが、アークは答えなかった。突然の光に、眩んだような目が慣れてくる。そうして見れば、そこにいるのは何の変哲もない、ただの少女だと解った。
「……困ったなあ、ご不在なのかなあ。遅れちゃったしな……」
弱り切った口調に、ハ、と小さく詰めていた息が漏れる。ただの女だ。不意を刺してきた逆光に、驚かされただけだ。そう自分に言い聞かせる。
アークは不機嫌に眉をしかめながら、殊更ゆっくりと上体だけを起こした。
「……何の用だ」
声が掠れる。だが、それはもう半日ほど、声を出さずにいたからだろう。そのせいだと決めつける。
わあっ、と色気のない声を上げて、娘が小さく飛び上がった。こっちの姿が見えなかったんだろう。アークはますます顔を険しくした。
理由はない。けれど、彼女が何をしても気に食わない。
「す、すいませんっ! あの、遅くなってしまって。空港でバゲッジ・トラブルがあって、時間が掛かってしまったんです」
……意味が解らない。ますます苛立ちが募る。
しかし、そんなアークの苛立ちをもあっさりと飛び越えるような、とんでもないことを彼女は言い出した。
「今日からお世話になります、毬瀬光奈です。宜しくお願いします!」
そうして、深々とお辞儀する、が。
「―――は?」
素で出た。
いや、本気で素で口を突いて出て来た。なんだそれは。お世話? お世話ってなんだ。
「何の話だ」
はぁー、と、肺を空っぽにするような溜息を吐き出した。でもこれは、仕方がないと思う。
アークは思わず天を仰いだ。
だが、ミナ、と名乗った少女は何を言われているのか解らない、という顔をして、こてんと小首を傾げただけだった。
「え? あの、ここ、アーク骨董品店……ですよね。店主さんならご存知だと思うんですが。アイブ牧師さまのご紹介で、こちらへご厄介になることに」
「……俺が店主だ」
勘弁してくれ。ますます訳が解らない。そもそもアイブって誰だ。牧師になんぞ知り合いはいない。
「アーク・ストーカー。ここの店主は俺だが、そんな話なんぞ何一つ聞いてねえよ。どっかと間違えてるんじゃないのか」
言いながら、それはないな、とアークは自分で思っていた。そもそも、アーク骨董品店、と名指しで来ている。この辺りに、同じ名前の店などない。
だとしたら。
「それか、騙されてるかだな」
ああ、面倒くさい。ガリガリと後頭部を掻いた。
「手軽にホームステイだの留学したいだので、適当な民間業者に申し込むとそういうことがある……と聞いたことはある。お前、引っかかったんじゃないのか」
「いえ、あの、そういうのではなくて、」
しかし、娘はふるふると両手を振った。
「あの、アークさんて牧師さまの―――」
だが、彼女がそこまでを言いかけた、その時。
「伯爵さまああああああ!」
がろがろがろんっ、と鈴が乱暴に打ち鳴らされた。次いで、バンっ、とけたたましく扉が壁へ打ち付けられる。
何かが飛び込んできた、と思う間もなく、床を這うように黒い小さな影が飛ぶような勢いで店内を駆け抜けた。
「えっ? えっ?」
娘は辺りをきょろきょろと見回している。闖入者の姿をみつけられないのだろう。
だが、アークは彼女の足下を駆け抜けたのが何者かをしっかりと捉えていた。
「オーエンか?」
「伯爵さま! た、助けて下さい、ニィが……!!」
ぴょん、と跳び上がるのに合わせて、立ち上がる。小さな黒猫が、計ったようなタイミングでその胸元へ飛び込んできた。
「その伯爵さまってのやめろ、オーエン。ニィがどうしたって?」
「刺されたんです! このままじゃニィが、し、死んでしまう!!」
まるい大きな猫の目が、今にも泣き出しそうに表面を潤ませて見上げてきた。
刺された。しかも、死んでしまうなどと言い出すほどだとは。よほどやばい状況なのだろう。
アークはちらり、ミナと名乗った娘に目をやった。娘は目をまんまるにして、え、猫? 猫が喋っ……? と息を飲んでいる。
この娘が何者であれ、どのみちこのまま追い出す訳にはいかなくなった。口止めするまでは帰せない。……仕方がない。
アークはもう何度目かも解らない溜息をこぼすと、長い脚でがばっ、とソファを跨ぎ越した。
「おい、娘」
「え? あ、わたし? えっと、光奈です」
うるせえな、知ってるよ。口に出したくない名前なんだよ。
「どうでもいい。行くぞ、お前も来い」
「えっ? でも、」
「ああもう、めんどくせえな!」
説明している暇なんかないんだよ!
苛立ちそのままに、アークは怒鳴った。
瞬間。
ぶわり、とアークの身体が膨らむ。黒く煤け、煙のようになって空気へ溶け込むように広がった。
「え、―――」
娘の戸惑う声を聞きながら、アークはいつもの通りに変化した。
光を吸い込むような、真の黒。黒煙。大きく目を見開くミナの目の前で、アークであった煙はいくつもの欠片に千切れていった。
きゃああああ、と高い悲鳴が店内に響く。ああ、うるせえ。こんな非常事態でもなければ、こんな真似は俺だってしなくて済んだんだよ。
「叫ぶな」
千切れた欠片は、もぞもぞと身じろぎするように動いてすぐに、数え切れないほど無数の蝙蝠の姿を形作っていった。
「アー……ク、さん? どこ?」
そうして、そのうちのひとかたまりで、ぐるりとミナの身体を取り囲む。
「黙って口を閉じてろ。舌を噛むぞ」
「え?―――きゃあっ」
返答などいらない。だからそのまま、蝙蝠はミナの身体の至る所に纏わり付いて、彼女の身体を持ち上げた。
「オーエン!」
「はい! ありがとうございます!!」
黒煙のようにけぶる蝙蝠の中から、ぴょん、と先刻の黒猫が勢いよく飛び出す。そうして、また乱暴にバンっ、と店の扉を弾いて出て行くのを追うように、ミナと彼女を運ぶ蝙蝠も、またそのあとへ続くのだった。
アルファベット・シティはマンハッタンの南側、ロウアー・イーストサイドとイースト・ヴィレッジの間にある比較的整備された地域だ。
数十年前までは治安が劣悪で、建物も古くごちゃごちゃとしていたのだが、現在は区画整備も進んで見た目も整っている。
広めの車道に、ゆったりと幅のある歩道。でこぼこと不揃いな、けれど不思議と統一感のあるビルがぎゅっと身を寄せ合うように並んで道の両側を埋めている。
その中を、蝙蝠はばさばさと飛び進んでいた。生き物とは思えない速度で一直線に、中空を行く。
そうして、同じような顔をしたビルのひとつ、一階部分が店舗になっていて上部分がアパートメントになっているうちのひとつへと、蝙蝠は殺到していった。
ビルの四階。互い違いに折り重なっていく非常階段、窓際の踊り場へとミナを連れて降り立つ。
「スウィーニィ!」
ぶわっ、と広がった蝙蝠はまた、逆回転をかけたようにするりと黒煙に戻り、収縮して、人の姿を形作った。闇を溶かし込んだ黒い髪、青白いほどの透き通った肌、暗闇に灯る小さな炎の赤い瞳―――まるで夜そのもののような男の姿に。
抱えていたミナの爪先が床へ着くのとほぼ同時に、アークは完全に元の姿を取り戻した。痩せぎすの、けれど手足の長い長身。ぐっ、と掴んだ窓枠を一気に飛び越えて、乱れた室内に押し入った。
途端、濃い血臭が鼻腔を埋める。
「伯爵!」
叫んだのは、暴れる女を取り押さえている金髪の青年、アルタンだった。頷いて、室内を見回す。
……ラグも何も敷いていない床に、オレンジ色の髪をした青年が倒れていた。腹を押さえて丸くなっている。その手から、留めきれずに溢れる血の赤が鮮やかで、思わず息を詰める。
腕と言わず、脚と言わず、倒れる青年の身体は刺し傷でいっぱいだった。いったいどれほど刺されたものか。これは、死んでしまうとも焦るはずだ。
嫌な空気だった。相容れない気配だ。金髪の青年が乗り上がり、背中を膝で押さえても尚手足をばたつかせて暴れる女から滲み出ている。
不快だ。そう眉をひそめたところで気付いた。
そうだ、この空気。この気配。これは、たった今まで抱えていたミアの内側にもあるものだ、と。
「ニィ! しっかり!!」
考える一瞬、動きを止めたアークの横をヒュッ、と黒い猫が飛んでいった。
「大丈夫だ、伯爵さまを連れてきた。気をしっかり保て!」
「ハ、ハハ……、オーエ……、ごめん、失敗しちゃっ……」
「ニィ!」
……そうだ、今はそれどころじゃない。アークは一度ゆるく首を振って、すぐに倒れたスウィーニィの元へ膝を着いた。
「……アーク」
「いい。喋るな」
視界の端に入り込んだ、女の振り回しているナイフ。滴る赤。嫌な気配。むっ、とむせかえるような血の匂い。
その全てが、アークを追い詰めた。気を付けないと、制御できなくなる。
……与えるんだ、奪うんじゃない。こめかみにぽつり、と小さく汗が浮いた。
「今塞ぐ」
少しずつ、少しずつ。スウィーニィ―――ニィの持つものと自分を形作るものは違う。
あくまでも、表面だけだ。内側に入ってしまわないように、混じり合ってしまわないように。
「……ああ、」
ほう、とニィがひとつ、息を吐いた。翳したアークの掌からじわ、と滲み出した黒いもやが、ニィの傷の上でもぞもぞと蠢いて、自らの落ち着く場所を探している。
ぽつ、と浮いただけの汗が、次第にじわり、と大きく滲み始めた。ああ、だめだ。こんな近くに血の匂いを嗅ぐのは久々だった。気を抜けば全て持っていかれそうだ。
「アーク……、もういいよ。これ以上は君が」
「喋るなと言っただろう」
慎重に、慎重に。傷口へと意識を集中させながら、黒い靄を操る。薄い皮膜のようにひたり、と傷口を覆っていく様子を見て、唇をキュ、と引き結んだ。これでいい。あとはこれを、自分から切り離すだけだ。
そう思ったその時、ふら、と何か、白いものが目の端に揺れた。
窓枠の外側へ放っておいた少女、ミナの履いていたスカートだ、と気付くのに、少しかかった。
「おい、邪魔」
邪魔するな、と。アークはそう最後まで言い切ることが出来なかった。ぎこちない仕草で窓枠を乗り越えて来たミナの身体から、じわ、とあの嫌な光が溢れ始めたからだ。
「伯爵!」
「―――っ!」
咄嗟に身体を丸めた。持ち上げた右腕で、頭と顔とを庇おうとする。けれどその僅かな動作を終えるよりも先に、ミナから溢れ出した光は、まるで波のように室内をざぷんと飲み込んだ。
―――クソ、これは……!
眩い白光。聖らかで純粋な、力の奔流。
皮膚が焼かれる。覆いきれなかった半顔が、炎に舐められたように焼き爛れてめくれあがっていく。
何もかもを飲み込むような光の大きな柱が、天を衝いて更に膨れ上がっていく―――
(……失敗した!)
やはり直感は正しかったのだ。逆光。あの時差し込んだ光。理由のない苛立ちは、きっとこれが理由だった。
皮膚を焼き切った光は、そのまま、その下の肉までもを焼いていく。白く濁っていく庇いきれなかった片目で、それでもアークはミナを見据えていた。
敵だ。これは敵だった。アークを滅ぼせる、ただひとつの力の持ち主。
このところは冷戦状態で、こんなあからさまな攻撃など仕掛けてこなかったはずなのに。ぎりぎりと奥歯を食い縛る。
だが、このまま易々と殺されてやる義理もない―――!
「クソっ、いけるか……!」
ぶわり、とまた、アークの身体が黒く煤けて広がった。かつての強大だった力は、今の自分にはもうない。それでも、せめて刺し違えるだけはして見せよう。
焼かれた右腕を、それでも突き出す。骨の見え始めた手で、娘を捕まえようとした。
刹那。
「アーク!!」
ニィが叫ぶ。力なくぐったりと床に横たわっていたものが、力強く跳ね起きている。
「キャス……? おいキャサリン、大丈夫か!」
光に潰れてかすんだ目では、何が起こっているのか瞬時には判断出来ない。濁った視界の中、あれほど暴れていた女がアルタンの膝の下で、くったりと大人しくなっているのがどうにか解った。
そして。
あの光は、まるで最初からなかったかのように、さっぱりと消えていた。
「アーク、大丈夫か!?」
「ニィ、敵、は―――」
ああ、声が上手く出せない。喉もやられたか。ガフっ、と湿った変な咳が出た。口元にだらり、と何かが漏れた感触がある。血でも吐いたか。
「ああ、いい、喋るなアーク。敵ってのは、あの女の子か? そこに倒れてる」
「倒、れ、?」
「ああ。気を失ってるよ。あの子何なんだ? ああでも、今はいいよ。とにかく君だ。オーエン!」
「はい殿下!」
「殿下はやめて。それと急いでエリクを連れて来て!」
「はい!!」
トタタタタ、と軽い足音が響いて、すぐに遠ざかっていく。黒猫のままのオーエンが、その俊足で駆け去っていったのだろう。アークは呻きながら片手を突いた。左手はどうにか無事だった、が。
(クソ……、ダメージを受けすぎた)
意識を保っていられない。克服したとはいえ、しかも今は昼日中だ。どうしたって、いつもよりは弱る。
「……すまん、ニィ」
「アーク?」
「あとのことは、エリク、に……」
どうにか頼んでくれ、と、言い切ることは出来なかった。それきり、どう、と重い音をたててくずおれたアークは、そこで意識を失った。
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