第35話:理想と現実3 誰が為の会食也や
次に提供されたのが肉料理であった。
本日の目玉だと宣言し、シィラはにこやかに配膳すると改めて食中酒を全員に注ぎ直して席に腰を据えた。白い陶器の皿には拳大の肉が薄めにスライスされ、斜めに広げられている。ゆっくりと熱を通された肉は中央部のみ、ほんのりと赤さを残していた。新しい料理が来た事を区切りにバルトは自分の席へと戻っている。
「こちらの料理は街で一番人気があるお店で、一番美味しいって評判の料理でぇす」
「ブレオノード亭だったか」
「はぁい。以前にみんなでお邪魔したお店ですよぅ」
「落ち着いた内装のお店でしたな」
「この料理はですねぇ──」
東の地方に生息する草食獣の肉を砕いた岩塩で塩漬けして熟成させたものである。肉から出る余計な水分を吸った塩を落としては新しい岩塩に漬け直し、繰り返す内に肉の表面から水分が出なくなった後、今度は風当たりのいい場所に吊るして表面を完全に乾燥させる。その後に低温の冷暗所で20日程度寝かせた物を使用。草食の為、肉食の獣とは違い臭みが少なく、柔らかく甘みのある肉質が特徴である。その肉の硬くなった表面を削ぎ落とし、柔らかい中身だけを香草で燻製にしたものを食べやすくスライス。削ぎ落とした表面を粒状に刻み、軽く水洗いした後に水分を拭き取ってやや渋味のあるベリーソースに混ぜて、皿に並べた肉に流しかけて完成した物──。
「──なんですよぅ。柔らかいお肉とは別に、ソースに混ぜたお肉の粒が良い硬さで食感も愉しめまぁす。まずは何もかかっていない部分のお肉を食べて貰って、お肉の甘さと柔らかさ。香草で燻した香りを楽しんてくださぁい。次にベリーソースのかかった部分を食べて頂くと、刻んだお肉の硬さとしょっぱさ。ベリーソースの甘酸っぱい香りと仄かな甘渋さがお肉の甘い油を洗い流してくれますよぅ」
「ふむ、こうやって解説して貰いながら食べると漫然と食すより味がわかるな」
一切れを3口程で食べた魔王の口の端を僅かにソースが色づける。それをゆっくりと舌で舐め取るも咎める者は誰もいない。
「ここまで料理の説明聞いて食べるの初めてかもしれないわね」
「私は初めてです。良い所で食べると毎回説明があるのでしょうか?」
「僕も初めてだけど、こうして食べると味がわかりやすい気がするね」
「……ブレオノード亭か、王都にも出店してるな。良く貴族の会食に使われている高級店だ」
「そちらはこっちのお店で働いていた方が同じ名前で出したお店らしいですよぅ? こっちは良い意味で大衆店として人気でぇす」
「隠れた名店って奴かしら。これなら王都で高級店なのも頷けるわね」
「これも本当に柔らかいですね」
フィーレがフォークで肉を抑え、その側を抵抗なくナイフが通る。断面から滲んだ油がソースに溶けて皿を染めていく。それを見たデリダも倣って肉を切ると「ほんと、柔らかいよね」と切った肉を口へと運び咀嚼する。
「この癖がない酒が良い」
「ええ、食中酒には最適ね」
一頻り料理の味を堪能した二人は、一息つく様に酒を口に含んで口内を洗い流す。
「何か、ここで食べてる料理が今までで一番品のある食事ってのは癪だなぁ」
ぼんやりと、空いた皿を眺めるデリダの言葉には複雑な感情が込められていた。
「……そうだな、確かに癪だ。戻ったら王都のブレオノード亭に行ってみるか」
「え?」
「良いわね、普段振り回す分出しなさいよ」
「あ、私も行きたいで……もしかして私も出します?」
「何言ってんの。バルトが出すに決まってるじゃない」
「……帰ったらな」
「何か良いですねぇ、ああ言うの」
「そうか? 私達と変わらんと思うが」
魔王にはわからない何か、その何かが良いと言うシィラ。その何かが会食の命題、絶対的な壁だとケルザは対面の四人を眺めながら思う。表面上の気安さはそう変わらないから魔王には違いがわからない。それは絶対的な頂点にいる魔王にはわかるはずもない何か。自分達は魔王の下において公平に扱われており、魔王が許す限りにおいて自由を享受している。だか、あいつらは違う。魔王を討伐すると言う勅命で集められた人選であり、個人間において上下関係は存在しない。魔王に辿り着くまで生活を共にして理解し合った仲。その経験から築き上げられた信頼は互いに人として平等な関係である。その平等は魔王の配下である限り訪れない。シィラの望む平等は、魔王と対峙する存在でしかなりえない。この場において魔王と平等なのは、魔王と敵対する向かいに座る四人のみである。それを理解しているのは自分と、立ち位置が揺らぐ事の無いベルジダットだけだろう。
「シィラ殿、これで料理は終わりですかな?」
「後はデザートがありまぁす。皆さんか食べ終わってましたら準備しますねぇ」
「……あの、ベルジダット、さん」
弱々しい声に応えたベルジダットはフィーレに顔を向ける。
「何ですかな」
容姿に見合わない威厳のある声に躊躇いがちながら、フィーレは言葉を続ける。
「その、先程はすみませんでした」
「先程とは何時の事ですかな」
「えっと、話を聞かず……」
「……フィーレ殿、でしたな」
「はい」
「過ぎた事です。更に言えば貴殿らが帰らなかったからこそ、この場があるのです。謝罪は結構、自身の非に対して謝罪する真摯さは美徳とも言えますが、自身の立場を忘れてはおりませんかな」
諭すような声音は徐々に叱責へと変わっていく。
「貴殿らは勇者として此処に立ち、魔王様の前に立っているのだ。それを重々に理解し、言葉を選び、発言に責任を持て。……その一言が勇者の言葉となる自覚が足りませんな」
吐き捨てる言葉を拾いケルザが淡々と言葉を繋ぐ。
「悪意に対する警戒心も足りない。純粋さ、無垢さは神に使える身として正しいかもしれないが、それだけでは子供と変わりない。お前が子供でいられるのは周りの大人が悪意からお前を守っているからだ。だが、得てして大人とはずるいものだ。時には必要の無い事を言い、時には必要な事を言わない。今は後者だ。過程はどうあれお前達は魔王の前に立っている。そして交渉の場にこぎつけた。事、交渉においては謝罪一つで不利になる。だからこそ人として非があろうと、それを口にしていない。それを理解せず感情に任せて、この場で謝罪するのは子供の言葉だろうと──」
「ええい、黙らんか。無礼講と言ったであろう。私を殺そうとした男を許してるのだ。子供の謝罪を交渉に持ち込むほど落ちぶれてはおらんわ。まったく、お主らのせいで空気が悪くなったではないか」
「ですねぇ。では気分を変える為にデザートを出しましょうかぁ」
場の空気を払拭するように和やかな笑顔を浮かべたシィラは皆の食器を下げると冷菓を配膳し、新しいグラスをならべて食前酒と同じ酒を注いで席へと戻っていく。
「こちらは複数の果物を凍らせて砕き、ミルクに混ぜてもう一度凍らせて砕いたものでぇす。甘くてひんやりして美味しいんですよぅ」
溶ける前にどぉぞぉ、とデザートより甘ったるい話し方に促され各々がデザートを口に運ぶ。
「安心する美味しさね」
「特別な物は入ってませんからねぇ。此処でも王都でも果物が変わる程度で同じ味にはなりますよぅ」
「何か一番気楽で美味しいかも」
「……少し気が紛れました」
「細かい事は気にするな」
ため息混じりのフィーレは優しい甘さとバルトの言葉に、僅かに頬を緩ませる。
「それにしても、あの最低男。随分人間臭いこと言うのね。大人とか子供とか」
「……確かにそうですね」
「魔族も人間と大差ないのかな」
「んー、わかんないわね。やっぱり人間?」
「剣を学んていた時に人と同じ環境で生活してたのかもしれませんね」
「のぅ、デリダ」
魔王に名前を呼ばれたデリダは一瞬だけ体を強張らせるか、何事もなく取り繕い魔王を見返す。
「……何」
「そう邪険にするでない。ただの世間話だ」
「だから何さ」
「お主から見た……コルドであったな。その居なくなった仲間とはどんな人物であったのだ?」
「なんで僕に聞くのさ」
「お主が意地を張って私と話さんからだ。ユーリとフィーレとは話した。バルトは3回も私を殺そうとした。それで多少なりとも人となりはわかるものだ。だがお主とは接点もなければ会話もない。この世間話はお主の人となりを知りたい私なりの歩み寄りだ」
「僕はあんたに理解されたくないけどね」
「くつくつ、初い奴よ。出会った頃のケルザを思い出す。だがな、デリダ。ケルザも言っていたであろう? 大人はズルいのだ。会食の目的は互いの理解の為にと言ったろう。その会食の目的に沿わないのであれば、お主はその席に座る資格はない。私と世間話をするか、席を立つか選ぶが良い」
デリダは今、目的達成の目前に立っている。それを自分の我儘でふいに出来る訳がない。それを見越した上でこちらを嘲笑う魔王は不愉快この上ない。だが、デリダにはまだ役割がある。それを念頭に置き、不快感を精一杯飲み込むと重い口を開──。
「デリダ、話したくなければ話さなくて良い。世間話どころか殺そうとした俺を許している。黙る程度で席を外させるほど狭量ではない。そうだろう、魔王?」
──くよりも早くバルトが会話を誘導すると、魔王は嫌味を込めてその言葉を受け取った。
「うむ、お主を持ち出されては否定できんな。何よりお主らに狭量だと思われては魔王どころかお嬢様の沽券にかかわる。良いぞ? そこで黙っておっても。せっかく設けた会食の場、活かすも殺すもお主次第だ」
魔王の嘲る言葉に呆れた様子のベルジダットが言葉を繋げる。
「……デリダ殿。どうやら私に吐いた啖呵はただの威勢、大人に守られているからこそ吐けた言葉のようですな」
「俺とシィラに向けて言った大切な仲間など、所詮その程度の意味しか持たないという事だ」
「あらぁ、私なんて誰も前でもせんぱいの目付きはゴミを見てる目付きって言えますよぅ?」
「シィラ殿、それはただ事実を口にしているだけですな」
「自分にとっての事実が他人にとっての事実とは言い切れない、が。他人に自分が思う事実を言い切れないのは、その事実に対する自信がないからだろう。言葉には他人に意思を伝える意味がある。対話によって相手の考えや印象を変える力がある。それは有害な存在を力で屈服させる様な弱肉強食な単純な力では無い。だが、だからこそ平等だ。力で見れば貴様らなど取るに足らない塵芥だが、もし貴様らの言葉に力があれば……。魔王に対して何かしらの目的を達成し、勝利と言える条件が達成できたかも知れない」
自然と出た言葉は既に手遅れだと言わんばかりに淡々としていた。努めて冷静に吐いた言葉は意図せず冷淡な、唾棄する様な言葉尻となる。
「それに関しては食事の後だと言ったろう。しかしまぁ、私としては会話の成り立たない奴に興味はない。せっかく設けた会食の場だ。会話を楽しみたいのだ。無粋な輩に割く時間が惜し──」
「わかった、話すよ」
「ほぅ、何を話すのだ」
「……コルドさんについて」
「ふむ、そうか。だがな、私は既にお主に対する興味がない。コルドについてはお主以外から聞いても何ら差し障りはないのだ。言い換えるならばお主の言葉は私に対して何ら力を持たない。お主のコルドに対する考えも、想いも、共に過ごした時間も、それら全ては言葉によって私に伝える事になる。その全てが今の私からすれば無価値なのだ」
欠片の興味もない事務的な言葉を、ユーリが手を叩いて拾い上げる。
「はいはい、お嬢様。あんたの言いたい事はわかったわ。確かにデリダは一度あんたの言葉をふいにしたわ。でも改めて話そうとしたなら良いじゃない。子供じみたことしてんじゃないわよ」
「そうは言ってもだな、ユーリ。会話には流れや雰囲気もある。そやつは会食の意図を理解していないと見えるのだ。食後の会談において忌憚なく、言いたい事を言うに際し、突然感情を顕にされても私に受け取る下地がない。それでは利的な意味しか言葉から汲み取れんのだ。ベルジやシィラ、ケルザには何かしら言ったみたいだが私は聞いていない。そのくせ話を振っても話したくないとくれば私とて事務的な対話以外に価値は無いと判断しても仕方なかろう?」
「だから私達が話すわ」
「ほう?」
「デリダが言った大切な仲間。それは私達全員の総意よ。それをたかだか話に乗らなかった程度で無価値なんて言わせないわ」
「……そうか。相わかった。冷菓の肴に、お主らの話を聞かせてもらうとしようか」
どこか穏やかな魔王はデザートを一口含むと、甘さに絆される様にゆっくりと瞼を閉じた。
勇者一行と呼ばれてはいるが、国王に集められただけで元々の付き合いがあったのはバルトとコルドだけだった事。勇者と呼ばれているが国王が決めただけでコルドに特別な力が無い事。初めはバルトが勇者になる予定だったが、帯同する代わりにコルドを勇者にした事。互いに知ってる事、知らない事を織り交ぜ会話が進む。
「私、初めてコルドと会った時普通だなって思ったわ」
「あー、僕も思いましたね。勇者ってこんな感じなんだって」
「当たり前だ。勇者なんて所詮肩書で選定理由に大した理由はない」
「そうなんですか?」
「国政の一部と言っても過言ではない。自分たちの国から魔王を倒す勇者が現れたら国民の支持を得られるだろう。だから騎士団の中でそれなりの実績があって、死んでも国の戦力として問題のない妥当な範囲から選出されただけだ。その候補がたまたま俺とコルドだったんだ」
「うわぁ、聞きたくなかったなぁそれ」
「何と言いますか、夢がありませんね……」
「知らないからこそ勇者に対して過大な期待を抱けるからな。だからこそ余計なことは伝えない事で国民からは支持を得ることができた」
「何か嫌ねぇ。オババ様にもう少し勇者について聞いておけばよかったわ」
「私早く帰りたいから次行きたかったのにフィーレ煩くてさぁ」
「うぅ、すみません。でも見かけたからには放っておけなくて」
「最初は結構喧嘩してたよね。ユーリさんとフィーレ」
「フィーレは存外に意固地だったな」
「んで、結局コルドがフィーレの肩持ってバルトが決定してさぁ」
「ユーリさんの愚痴聞き飽きるくらい聞いたよ」
「ふふ、でもユーリさんが折れてくれて感謝してますよ」
「否が応でも動かなかったからな。俺とコルドでユーリを説得した」
「え、そうなんですか!?」
「そうよ、二人して私に文句言うからさぁ」
「でも思い返すと不思議よね、私達がどうするかの最終的な判断ってバルトが多くない?」
「そうだよね。確かにバルトさんが決めて行動してたような」
「それは違う。俺がしてたのは号令だ。コルドの判断を見て俺が全員に伝えていただけだ」
「そう、ですね。コルドさんは表立って指揮する事はそんなに無かった気がします」
「あいつは全員の言葉を聞きすぎるからな。それを聞いてどうするかは判断するが、はっきり伝えるのは昔から苦手だった。だからそれを俺が代弁していただけだ」
「そうだったんですね。私の我儘もよく聞いてもらってましたし、優しい人でした」
「僕の事も気を使ってもらったなぁ」
「私は気を使ってもらった覚えないんだけど」
「お前は言いたい事を言うから気を使う必要がないだけだ。騎士団の団員みたいって言ってたぞ」
「何それ、男みたいって事? むかつくんだけど」
「こうやって話してると色々話せるものですね」
「そうだね。コルドさんが居ないのが惜しいけど」
「表立ったことはあまりしないが、俺達に必要な存在だったのは確かだ」
「まぁ、そうね。たぶんコルドがいなかったら私、あんた達と喧嘩別れしててもおかしくないもの」
「うーん、私も最後まで一緒には居られなかったかもしれません」
「野宿とかも慣れないと大変だよね。僕はその辺問題なかったけど」
「デリダ。お前は辞めたいと思った事はないか?」
「それはまぁ。元々一人でいたから複数人でいる環境は慣れるのに時間はかかったし、良くわかんないからとりあえず一緒にいればいいとか、僕いる意味なくねって思ったりはしたかなぁ」
「それでもここまで来たな」
「……うん。それもコルドさんが居たからかなぁ。僕一回、抜けようとしたの知ってる?」
バルトだけが「聞いている」と答えたのを聞き、デリダは食前酒で唇を湿らせる。
「何かめんどくさくなっちゃってさ。みんな寝てる間にどっか行こうと思ったんだよね」
「いつよ」
「3つ目の街だったかな」
「……その頃ならほとんど喧嘩もなくなったと思いますが」
「……そうじゃないんだよ」
「じゃあ何よ」
「なんかね、ただ辛かったんだ」
そう、意味なんてない。ただ意味もなく辛かった。
それは誰かに責められるわけでも、自分で自分を責めるわけでもない辛さ。きっとこの辛さは理解できる人と理解できない人がいる。そして誰かに理解して欲しい辛さではない。その行き場のない辛さは本来誰とも関わらない時間を一人で過ごし、漠然と、世界から隔離される事で癒やされる。僕はそう思っていた。
「まぁだからさ。僕一人いなくても問題ないし、このまま知らない土地をふらふらするのも良いなって。みんな寝てる間に出てこうとしたらコルドさんに捕まった」
深夜とも早朝とも言えない朝と夜の境目、地平がうっすら朝を出迎える時間。自分の少ない荷物だけを手に音を殺して宿屋を出た。今に思えば旅の路銀を幾ばくか盗ることもなく宿屋を出たのは、きっとみんなを自分の生活の為の存在だと思いたくなかったのだと思う。この時間でも建物の窓からはチラホラと明かりが見え、何となく誰かに見送られてる気がして安堵したのも覚えている。人のいない道を歩き街を出た所で聞き馴染んだ声が死角から飛んできた。
「おはよう、デリダ」
そのいつもと変わらない声音に足を止めてしまう、振り返ってしまう。視界に彼を納めて、遅れて一拍強い鼓動を打った。胡座をかいて地べたに座る彼は、なんの気なしに手を上げ軽く振る。平静を装って僕も口を開いた。
「おはよう、コルドさん」
「まだこの時間って少し肌寒いよね」
「そうですね。何してたんですか?」
「んー、いやぁ。朝焼け好きなんだよね。だからちょっと見たくなってさ」
「……僕は夜の方が好きかも」
「そっかぁ。宵の口とかも好きだなぁ。たぶん、空の色が変わる時間が好きなのかな?」
ひどく優しい、普段と同じ柔和な笑みだが、今の僕には都合が悪い。
「肌寒いならもう少し寝ても良いんじゃないですか?」
「それも良いけどさ。ちょっと付き合ってよ」
「何にですか?」
「体を温める運動」
よいしょ、と腰を持ち上げたコルドは腰を叩いて汚れを落とすとデリダに向かい、軽く構えた。
「え、え? 運動って組手?」
「そうだよ。普段はバルトがやってくれてるからさ、たまにはやってみたいなって」
「えぇ? 冗談じゃ、なさそうですね」
手に持った少ない荷物を軽く放るとデリダも緩く戦闘態勢に移行した。
「素手で戦えるんですか?」
「バルト程じゃないけど、まぁ負けはしない程度かな?」
「勝てませんね、それ」
「勝ち負けだけじゃないよ、組手は。運動には丁度良い」
遠慮する必要がない事は、日頃バルトと組手をしているデリダには充分に理解できた。だが、コルドが素手で戦うのは初めて見る。そして初めての組手である。デリダは仕掛ける前に改めて彼を見た。自分に対して半身で構え、右半身を後ろへ下げている。右腕は緩く垂らし、左腕は胸元まで持ち上げ、両手は力なく握られていた。
左側から攻めるか。決めてからの行動は早く正面まで駆けた後に、コルドの死角に潜り込むように舵を切ると同時に左前足に足払いをするが足を持ち上げ回避され、そのまま回転して胴体を蹴りで狙うが持ち上げた足のまま倒れ込み、上体を深く寝かせる事でやり過ごされた。二発目が不発になった所で初めてコルドの目を見たが、それは普段見るような柔らかい目線ではなく、感情を感じない無機質な、ただ何もない景色を見るような無色な目線であった。
コルドさんはこんな目もするのか。それが初めて対峙して初めて知る彼の目線に対して、初めに思った感想である。
デリダは低い体制のまま一歩踏み込み、完全にコルドの背後を取ると背中を狙い、足を振り上げて蹴り下ろす。コルドは折り曲げていた左足を伸ばしつつ、体全体を右に回す。追従した右腕がデリダの蹴り足を側面から受け、いなし、振り払うように押しのけ回避した。蹴り足の軌道を変えられ僅かに体勢を崩したデリダは軸足に力を入れると距離を取り、体勢を取り直す。
「バルトさんとは全然違いますね」
「まぁ、バルトは力任せな所があるからね。こっちはそんな筋肉ないから出来ないし」
「ほんと、それ。防がれた僕の方が痛いもん」
「わかるよ。正面から殴られるのとか受けたくないし」
「だからそんな戦い方になったんですか?」
「鍛えてはいるけど、あんまり筋肉つかなくてさ。だから直接防いだりしないようにしたんだよね」
「攻撃できるんですか、それ?」
「せっかくの組手だし、試せるよ」
その通りだ。蹴りを受け流し立ち上がったコルドは、そのまま体勢を立て直している。デリダは足元の石を拾い上げるとコルドの顔に向けて軽く投げた。
「いいね」
顔の前で石を掴み取った瞬間、一瞬だけコルドの視界が手に隠れる。その瞬間に懐に飛び込み、眼前で足を止める。慣性を体で感じつつ重心を移動させ、背中をコルドに向けると利き足で地面を強く蹴る。慣性と体重をかけた体当たりを左半身を下げる事で回避し、同時に石を離した手でデリダの襟首を掴み地面へと押し付けた。
「いだっ」
「殴ったり蹴ったりしたくなかったら、こうやって動かない物に叩きつければ充分攻撃になるよね」
「あー、流石」
「バルトみたいに正面から潰すのも良いけど、力ないと難しいから」
コルドが襟首から手を離すとデリダはゆっくりと身体を起こした。
朝から疲れたなぁ。地平の先から顔を覗かせた朝日に目を眩ませながら重い息を吐く。見上げた先の彼は手で影を作りつつ、まっすぐ朝日を見据えていた。
「朝だね。おはよう、デリダ」
「……朝ですね。おはよう、コルドさん」
「疲れたし戻ろっか」
「……そうですね」
ただそれだけ。朝方に逃げ出して、コルドさんに見つかって、何となく組手して、ちょっと疲れて、一緒に朝日を見て、たった一言。戻ろうと言われただけで逃げるのは今度でいいかと思ってしまった。意味もなく辛かった気持ちは意味もない一言に絆された。きっとこの一連は全てがどうでも良い事だったのだ。だからこそ、いつもと変わらない一言に負けたのだろう。
「なによ、それ。たまたまコルドがいただけじゃない」
「うん、たまたまコルドさんだっただけ。でもね、嘘なんていくらでもついて一人でどっか行く事も出来たんだ。たぶんユーリさんやバルトさん、フィーレと偶然会ったとしても適当な事言ってどっか行ってたと思うんだ」
思う、ではない。逃げていた。この三人は僕の言葉を信じるだろう、本心を理解するだろう。だが理解した上で僕の考えを尊重してくれる。もしかするとこの優しさも辛さの一つだったのかもしれない。コルドさんだってあそこにいたのは偶然じゃない、きっと僕の雰囲気を察していてくれたのだ。
「……そうなんですね。辛かった事は解決出来ましたか?」
「んー、それは微妙かも。ただその気分に従うのは後回しで良いやってなって、今はそれどころじゃなくなってた」
「……あいつは優しいが我儘だからな」
コルドさんは変に意固地な部分が確かにあった。それは別に旅する上で迷惑な事ではない些細な拘り。いつでも平時の状態を保てる様に、大変な時こそ世間話をする。街では必ず3日は滞在し自由時間を作るが、夕食だけはみんなで食べようと言われていた。あと好き嫌いは少しだけは見逃してくれる。
全員で魔王に挑み生還する。これも口にこそしていなかったが、拘りだったのだろう。僕に戻ろうと言ったのも拘りがあったからだとも思う。でも、その一言を聞くまで僕達は目的が同じだけの個人の集まりで、みんな他人に無関心だと思っていた。必要なことをこなせば良いだけで、誰でも良いと思っていた。その場に居ることを許されるという事は、その場に居ないことが許されないわけではない。そんな逃げ道は戻ろうの一言で防がれて、それが嫌ではなかった。結局僕は、なし崩し的に充てがわれた場所に、居ることを許された場所で、誰かに僕個人を認めて貰いたかっただけなんだろう。
「まぁ、そんなわけで僕はまだここにいるんだよ。なのに僕を引き止めた人がいないってズルいじゃん。だから否が応でも見つけて五人で勇者一行名乗って帰りたいんだよ」
「……なるほどな。うむ、もう良いぞ。デリダ、お主の事もコルドの事も多少理解する事ができた。少しばかり休憩しよう。その後に本題だ」
少し疲れたから部屋に戻る。と言い残した魔王はベルジダットを連れて席を立っていった。取り残されたシィラは少しばかり考え込んだ後、手を叩く。
「それでは魔王様が戻るまで、食後のお茶会をしましょうかぁ」
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