第33話:理想と現実1 誰が為の会食也や

 窓の外は濃い茜色に染まっている。

 どこか物寂しさを感じる空を模倣する様に、薄暗い廊下は松明で赤く照らされていた。もう数時間もすれば世界は夜の帳に包まれる。そんな当たり前な事にバルトは漠然とした不安を抱いてしまう。それはきっと口の軽い印象の案内人が口を開かず、自分達も黙っている空気の重さ。不均一で疎らな足音、松明に踊る影法師。ここは魔王の住む城だと言う無意識の理解からくる不気味さ。その全てをないまぜにした感情が夜の闇に投影されているからだろうと一人納得する。コツ、コツ、と廊下を進み階段を上がって、建物の中央辺りの部屋の前で案内人は立ち止る。

「少々お待ちを」

 簡便な言葉を残し、彼女は部屋へ入っていった。残された四人は空気の重さに口を閉ざして意味もなく周囲を眺めてしまう。生ぬるい風の吹き込む開放された廊下。視界の先には最寄りの街の明かりが遠目にぼやけて見えた。風にたなびく松明は影が生きているかのように形を歪ませる。場所が場所なら不定形の魔物かと疑いたくなる挙動であった。各自、自身を落ち着けるために深い呼吸を繰り返すが肺がぬるい。清廉さのない空気が気持ちを軽くする事はなかった。

「お待たせしました」

 穏やかな笑みを浮かべた案内人は扉を開くと脇に立ち、片腕を軽く持ち上げて中へ入るように促した。数瞬ほど躊躇った後に、バルトは魔王の喉元へと踏み入る。広さは騎士団の生活する寄宿舎の広間と同程度だろうか。大人数で騒ぐ空間とは違い、8人しかいないこの場においては過剰と呼べる広さである。松明で照らし出される室内には長机が平行に並べられ、奥にはお嬢様一行が控え手前は空席。長机の上に置かれた燭台の灯りが、敷かれた白い布の光沢に照り返され柔らかく卓上を照らしている。

「こちらへお掛けください」

 扉脇から数歩歩いた案内人が空席に手を向ける。指先まで伸ばされた楚々とした動作はお嬢様付きの侍女と言われても納得できる品があった。促されるまま4人は空席を埋める。席の前には銀の食器と空のグラス、席間に配置するように燭台が三台並んでおり、グラスの縁を輝かせていた。全員が席に着いたことを確認した案内人は体の前で両手を揃え、頭を下げると背筋を伸ばしたまま対面に座るお嬢様の後ろに控えた。次いでお嬢様の左隣、一番左端の席についていた吸血鬼が席を立ち上がり、深緑色の瓶底を深紅の布で包む様に持ちバルトの前に立つ。

「毒など無粋なものは無い、安心しろ」

 傾けられた瓶の口に合わせるようにバルトはグラスを持ち上げた。やや粘性を感じさせる音と波紋がグラスを満たしていく。適量を注いだ後に赤い糸を切ると、胸元から取り出した布で瓶口を拭き取り左へ進む。吸血鬼に同じ動作をされたデリダは迷いつつもバルトに倣いグラスを持ち上げる。

「この品は希少なものだ。シィラ殿の妹君が収集した植物群から成る果実を複数掛け合わせて作られる特別な果実酒」

 注がれた液体は赤一色、かと思えば上澄みは透き通る薄緑に表情を変える。その不思議な光景に目を奪われたデリダを余所に、吸血鬼は左へ移動していた。二度見た光景に迷いはなく、フィーレもグラスを持ち上げて瓶口から滴る赤を受け取った。

「彼女が友好の証として作る数年に三本しか作れない品。謂わばお嬢様への献上品。二本所有している内の一本は貴殿らに」

 見た目はデリダと変わらない少年と呼べる姿に変貌した吸血鬼。その吸血鬼から紡がれる言葉は揺るぐ事ない落ち着いた声音、注がれる果実酒の音と相まってフィーレは安心感すら抱いてしまう。更に左へ進む吸血鬼を待たずに、ユーリはグラスを持ち上げていた。

「この品の価値を汲んで、お嬢様は貴殿らと特別な時間、特別な価値、特別な品を共有しようとこの場を設けている。この品の価値に釣り合う時間を期待する」

 注がれた果実酒を、慣れた手付きでグラスを回し転がすと橙に近い黄色となった。グラスの側面に残った薄い膜は燭台に照らされ仄かな緑を黄色に映し出す。ユーリの行動など見てすらいない吸血鬼は躊躇いなく背中を向け、お嬢様の前へと向かい足を止めた。その動作に疑問を持ったお嬢様は小さく首を傾げ、吸血鬼を見上げている。

「如何でしょう。もう一つ同じ品はございますが、せっかくです。彼らと同じ瓶に入っているこちらを味わってみては?」

 柔らかい提案を受けたお嬢様はくつくつと小さく笑うとグラスを持ち上げた。

「気が回るな。せっかくここまで共有するのだ。半端にすべきではない。お主らの分は残っているか?」

 適量を注いた後に燭台に照らされる影で残量を見るが心許ない。

「少し足りないかと」

「食前酒だ。配分して共有しようではないか」

「承知致しました」

 お嬢様の言葉を受け、右隣の空席の前に立つ。後ろに控えていた彼女はにこにことお行儀悪く両手でグラスを持ち上げた。その子供らしい動作に吸血鬼は頬を緩ませる。

「ありがとうございまぁす」

「少しばかり少ないですがご容赦下さい」

 小さく会釈すると一番右端の席の前に立つ。

「出せ」

「あぁ」

 今までの丁寧さなど欠片もない無造作、無遠慮な動作で持ち上げられたグラスを赤く染めていく。雑に入れたせいで残りは配分と言うにはバランスの悪い残量であったが、気にした様子はなく左端に戻り空のグラスに気持ちばかりの赤を滴らせた。空いた瓶を確認して「お預かりしますねぇ」と吸血鬼から瓶を受け取り、彼女は部屋の脇にある通路へ出ると程なくして戻ってきた。

「さて、酒は行き渡ったな。シィラ、一旦座れ」

「はぁい」

 言われるままお嬢様の隣席に彼女は腰を下ろす。

「してケルザ、ここからどうするのだったか?」

「好きにすれば良いが、一般的には会食の目的を端的に伝えて隣の席と軽くグラスを当てればいい」

「世事には疎くてな。しかしながら会食の目的は単純であり壮大だ。私の理想には多くの理解か無関心が必要らしい。そこでだ。会食の前に改めて各々、自己紹介をしようではないか」

 パン、とお嬢様は小さく手を叩き自身へと意識を集中させた。

「回りくどいのは好きではない。端的に済ませよう。私はこの館の主、キルシェだ。この名はなかなかに気に入っているが、この場においては改めよう。私に名前はない。貴様らの想定通り魔王と呼ばれる存在だ」

 刹那、バルトは手首に忍ばせた鉄針を放つ。誰よりも早く一連の動作を済ませ、真っ直ぐに魔王を貫くはずの鉄の針。ユーリも、デリダも、フィーレも、再三彼の言う戦うのは避けるという言葉を信じ切っており何が起きたのか理解したのは全ての事が済んでからであった。放たれた鉄針は透明な見えない壁に阻まれ、空間が波打つと地面に落ちる。バルトがそれ以上の動作を起こさなかったのは喉元に破壊の棘が顕現している事を理解していたからである。

「下郎、貴様をこの場で破壊してやろう」

 憤怒が塗り込められた吸血鬼の言葉を背に、ケルザは立ち上がりバルトの前に立つと三人に見えない様、白い刀の柄を掴むと緩慢な動作で刀身を逆手で半ばまで引き抜いた。

「二度目だ、もう如何な誤魔化しも認めない。ここで──」

「ケルザ、下がれ。ベルジ、お主も引け。シィラ、助かったぞ」

「あはぁ、また眠らせますかぁ?」

「言っただろう? 私の理想には理解か無関心が必要なのだ。人間同士も争い、必ずしも全員が味方というのは有り得ない。魔王と勇者一行となれば尚の事。だからこそ対話するのだ。対話をし、お互いに理解を得られるのか、理解が出来るのかを試すのだ」

 諭す声に従い破壊の棘は霧散し、刀身を納めたケルザは席へと戻る。

「一人位、こう言った人間が居た方が飽きないだろう?」

 細い瞳は嘲るようにバルトを見据えている。歪んだ口角は出来るものならやってみろと明らかに挑発していた。ふん、と不快そうに鼻を鳴らしたバルトは魔王から視線を外すと背もたれに深く体重を預けた。その頭を、事態を理解したユーリが遠慮なく叩く。

「あんた、馬鹿じゃないの!? いい!? 終わるまで大人しくしてなさいよ!!」

 怒鳴り声を上げたユーリは腹立たしさを隠すことなく、乱暴に席に戻った。仔細を理解しつつも痛む頭に普段の恨みも込められているのではないかとバルトは邪推してしまう。頭を叩かれたバルトの視界がほんのりと青く染まっており、それは事前に説明されていた嘘を見破れるかもしれない魔法の効果であった。会食時にどうやって魔法を掛けてもらうかを話した際、堂々とみんなの前で掛けた方が疑われないだろうと提案され、バルトが問題を起こしユーリが直接叩き魔法を付与するという手段を選んだのだ。ユーリにとって想定外だったのは、まさか直接魔王を狙うなどと言う無謀極まる手段を取られた事であり、頭を叩く手に魔法と共に抑えられない感情が乗っていたのも事実であった。

「くつくつ、中々に愉快ではないか。仕切り直そう。私はこの城の主、魔王だ」

「魔王様の忠臣、ベルジダットである」

「魔王様のお世話係、シィラでぇす」

「従者のケルザだ」

「バルトだ、王国で騎士団に所属している」

「デリダ。騎士団見習い、になるのかな」

「フィーレです。王国の修道院に身を寄せています」

「ユーリ、"家"に所属してるわ」

「ふむ、これで互いの立ち位置が整理できたな。では互いの理解の為に」

魔王がグラスを持ち上げるのに合わせベルジダット、シィラ、ケルザがグラスを持ち上げ隣人と鈴を鳴らす。遅れてそれに倣うと勇者側からも控えめな鈴がなった。


 先ずは軽く食事を済ませよう。そう提案した魔王はシィラに配膳を頼む。魔王の言葉を受け、裏から一品目を運び出す。配線された陶器の皿には楕円状に切り揃えられた三切れのパンが載せられており、各々薄紫、黄、赤のジャムが塗られている。

「パンは街で懇意にしているお店の物でぇす。ジャムは食前酒に使われているもを使用していまぁす、ここよりも南の土地で取れた物ですよぅ。薄紫は少し渋くて酸味が強くてぇ、黄色が甘酸っぱくてぇ、赤が甘い果実でぇす。食前酒と合わせて頂くと違う味わいになって面白いかとぉ」

「なるほど、流石はムゥマ殿。植物の扱いに長けていますな。特にこの薄紫色の果実はクルスメリア地方の固有種、クルスの実。現地では雪解けの短い時期にのみ実をつけ、春の訪れを告げる果実として親しまれている物ですな」

「ほう、詳しいではないか」

 食前酒を一口飲み下した魔王がベルジを見やる。気恥ずかしそうに眉を下げた彼は小さく頭を下げた。

「時間はありましたので様々な土地を巡りまして。珍しい物を観察してまいりました。すり潰すと特有の甘い香りが立ちます。特筆すべきは僅かながらその土地の魔素を吸収し変質させ、一時的ではありますが摂食者の魔素の流れを滑らかにします」

「学者さんみたいですねぇ」

「吸血鬼に食事は不要ですが、こういった魔素を含んだ物は稀にですが口にします。とはいえ、魔素に関しては本当に些細なもので常に魔素を扱い生活する魔族でなければ気づけない程度のものです。恐らく人間では接食しても魔素が含まれているとは気づけないでしょう」

「……ユーリさん、わかります?」

「わかるわけないじゃない。クルスの実なんて初めて聞いたわ」

 ユーリは手に取ったパンに塗られた薄紫のジャムをしげしげと観察したあとに口に含み「渋っ、すっぱ……」と眉間に皺を寄せ瞼を閉じる。洗い流すように食前酒を口に含み転がすと、爽やかな甘さと混じり合い心地の良い香りが鼻を抜けた。

「合わせると悪くないわね」

「そうですね。パンだけだと少し味が強すぎます」

 一枚目を食べ終えたフィーレは黄色のジャムが塗られたパンを手に取り、口に運ぶ。

「あ、これ美味しいですね」

「これは何かしらね」

「シィラさん、この黄色いのは何ですか?」

「はぁい、そちらはぁ……」

 フィーレに呼びかけられたシィラは手元のパンに目を落とし、確かめる様に一口齧った。

「美味しいですねぇ。んー、何でしょう? 果物ではなくてぇ……」

「たぶん樹液かな? 何かで似た味のもの食べたことある気がするけど」

 答えを探すシィラに答えるように、デリダが黄色のジャムを口内で検める。

「……南にあるのかは知らないが、テトの樹の樹液に近い味がするな。ただこっちの方が味も匂いも強い」

「あー、それですね。こっちだと牛乳に溶いたのどこでも飲めますよね」

「お二方も中々に良い味覚をお持ちですねぇ。思い出しましたよぉ。こちらで言うテトの樹の原種で、カテトの樹の樹液でぇす。それを煮詰めて少量の水で伸ばしたものでしたぁ」

「ふむ、口の中が濃い甘酸っぱさに満たされるな」

 魔王はほんの少量食前酒を口に含み、ジャムを溶かすように飲み込むと余韻に頬をほころばせていた。一人手早く一品目を食べ終えたケルザは席を立ち、裏の調理場に立ち入る。それに気がついたシィラも調理場へと入った。

「どうしましたぁ?」

「次はスープだったか」

「そうでぇす。つまみ食いは駄目ですよぅ?」

 火のついていない竈の上には僅かに熱を帯びたスープが、小さ目の釜に入っている。

「温め直すのか?」

「そうですねぇ。このままでは少しぬるいでしょうからぁ」

「そうか。沸騰しない程度に火の番をしよう。全員が食べ終わった頃合いに来てくれ」

 ケルザの思ってもいなかった提案にシィラは目を丸くする。この人にそんな気遣いが出来る訳がない。反射的に建前だと理解したシィラは意図せず笑ってしまった。

「居づらいんですかぁ?」

「あぁ」

「んふ、素直ですねぇ」

 竈の前で屈んだシィラは人差し指を伸ばし、薪の上の空間を撫でる。それだけの動作で小さな火が起こり、薪がパチパチと音を立て始めた。

「どうやったんだ?」

「どうとはぁ?」

「どうやって火を起こしたんだ」

 立ち上がったシィラはケルザの問に首を傾げつつ、人差し指を伸ばし虚空を撫でる。それだけで指先に小さな火が灯っていた。

「あー、説明が難しいですねぇ。やってる事は単純なんですよぅ。ただ私達と人では魔法の扱い方が根本的に違うのでぇ。せんぱぁい、魔素はわかりますよねぇ?」

「魔法を使う時に必要な物だな」

「はぁい。でもぉ、本当は魔素って複数の要素が集まった物で、それを一纏めにして魔素って呼んでるんですよぉ」

「そうなのか?」

「はぁい。ベルジさんの話でもありましたが、私達と人では魔素に対する認識能力が全然違うんですよぅ。例えば腕を振ったら空気の流れを感じますよねぇ。私達の場合、それとは別に魔素の感触もわかるんですよぉ。だから魔法としてではなく直接魔素に働き掛けることが出来ましてぇ、私達からすればこの程度の火を起こす事は魔法ですら無いんですよぅ」

 得意気なシィラは指を軽く振ると、指先の火を消した。

「昔の人は今よりも魔法適性は高かったみたいですよぅ? 私達と同じ位魔素を認識できていたみたいでぇ。その頃は魔素とは呼ばずに属性の欠片って呼ばれていたそうでぇす。確かぁ、全部で14種類に分類して火の欠片とか氷の欠片って呼んでいたそうですよぉ。そういう訳でぇ、私は直接火の欠片に魔力を通す事で火を起こしているって感じでぇす。わかりましたかぁ?」

「話はわかったが、意味はわからん」

「あは、ですよねぇ。そもそも魔法が苦手なのにこんな話されてもわかりませんよねぇ。それでは火の番をお願いしまぁす。焦げないように、そこの木ベラで適度に混ぜてくださいねぇ」

食堂へ戻るシィラの後ろ姿を見送ると、ケルザは木ベラを手に取り水に湿らせた後にゆっくりとスープを撹拌した。


 調理場を出る際にシィラは一本の瓶を手に取っていた。

「それは何だ?」

「食前酒が甘かったのでお口直しのお茶ですよぉ。パンと食前 酒を終えたら一息つきましょうかぁ。お次はスープでぇす」

自分の席に瓶を置いたシィラは調理場から焼き物の小さなコップを持ち出すと各々の席に運び、空いた食前酒のグラスを回収する。

「ふむ、私はもてなす立場だ。少しばかり働くとするか」

「魔王様、雑務は私共で行いますのでそのままで……」

「先程互いの理解の為にと言ったであろう。少しばかり個人として会話がしたいのだ」

「しかし、あの男は……」

「なれば私の話が終わるまでお主に警戒を任せよう。二度目だ、次は躊躇う必要はない」

「承知致しました」

 シィラの席の瓶を手に取ると魔王はバルトの前に立ち、焼き物のコップに向けて瓶を傾ける。それを見てバルトは瓶の口へコップを持ち上げた。

「魔王」

「そうだ、貴様に二度命を狙われた魔王だ」

トクトクと注がれたお茶がコップの中で波を打つ。

「私を二度も狙い生きているのは貴様くらいだぞ?」

「三度だ」

「くつくつ、口の減らん男だ」

 伏し目がちに口角を持ち上げる魔王をバルトは見上げるが目線は合わない。

「何が目的だ」

「食事の後で良いだろう、無粋な奴め」

 言葉を切ると魔王は左へ移動する。未だ幼い敵意を向ける少年を鼻で笑い、机に置かれたコップにお茶を注いでいく。

「まったくもって幼いな。だがその抑えきれない感情は大人になると忘れてしまうものだ」

「知った口を聞くなよ」

「デリダだったな。安心しろ、先程私を殺そうとしたバルトですら今は私の注いだお茶を飲んでいる。今に限っては言葉一つで貴様を殺すつもりはない。存分に強がるが良い」

 嘲る様に細めた鈍色の瞳はデリダの視線と交わるが、彼は視線を逸らさない。それを認めると小さく肩を揺らし、数歩横に動いた。

「フィーレだったな」

 瓶を傾けるより先にフィーレはコップを持ち上げ、小さく会釈をした。

「デリダと年は近そうだがお主の方が大人だな」

「あの……キルシェ、さん」

「無理をする必要はない。元より名前などないのだ。ここでお嬢様を演じる為に名乗っているに過ぎない」

「先程はすみませんでした」

「ふむ? バルトからの謝罪であれば受けても良いがお主から受ける謝罪はないはずだが」

「えぇと、では……。お風呂、ありがとうございました」

「ふふ、気にするな。シィラが許可しているのだ、好きに使うといい」

 魔王はユーリの前に立ち、お茶を注ごうとしたが笑顔で静止される。

「お酒飲みたいなー」

「ユーリ、お主は良い度胸をしておるな。シィラ」

「はぁい。魔王様のお茶を断る悪い人には特別なお酒をあげますねぇ」

 食器を下げつつ調理場から戻ったシィラの手には中身の見えない小さな壺の様な物があった。ユーリの前に雑に置かれた壺のコルクを抜くと手に持った小さな杓子を中に浸す。

「なに、この……くどい匂い」

「きつい匂いだな」

 シィラから杓子を受け取ると軽く混ぜてから掬い上げる。粘度の高いそれは切れることなく、持ち上げた杓子と中身を繋いでいた。眉をしかめながら焼き物のコップを手に取ると、魔王は掬い上げた液体を移す。魔王から杓子を受け取ったシイラは匂いを抑えるように壺に蓋をした。

「こちらぁ、エルフの里の薬膳酒でぇす。一口飲むと寿命が10年伸びると言われてまぁす」

「ほう、凄いではないか」

「あはぁ、ただ薬効のある物を混ぜただけなので味は保証しませぇん」

 魔王からコップを手渡されたユーリは嫌そうに顔を近づけ匂いを嗅ぐと、顔を顰めた。確かに甘い匂いはする。だがそれはすぐに通り過ぎて重く濃密な植物の青さが鼻を突いた。かと思えばどことなく果実の香りが混じり妙な爽やかさを演出するが、青さが強すぎて不協和音を奏でている。

「……飲めるのよね?」

「まぁ、一応毒ではありませんよぅ」

「貴様のわがままを聞いたのだ、早く飲め」

 好奇を隠さない魔王の表情に背中を押されるようにユーリは一気にコップを煽る、とえずいた。

「おえぇ、何よこれぇ……。なま物の味するんだけどぉ」

「汚い声を出すな」

「あはぁ、泣くほど気に入りましたかぁ?」

「ユーリさん、大丈夫ですか?」

 涙目のユーリの背中をフィーレは擦る。それを見て満足した魔王は愉快と言わんばかりに笑い、シィラにお茶を淹れるよう言い残し席へと戻って行った。

「お酒飲みますかぁ?」

「……お茶ちょうだい」

「はぁい。お待ちをぉ」

自分の席に置いていた空のコップをユーリの前に起き、お茶を注ぐとフィーレは壺と飲みきったコップを手に持った。

「凄いですねぇ。私達でも何かで薄めて混ぜて飲むのに原液を飲むなんてぇ。原液は塗り薬としても使えますので、もしかすると体の中の傷が治るかもしれませんねぇ」

 意地の悪い笑みを浮かべたシィラに恨み言を呟くユーリ。飲み下すお茶が口内に爽やかさを取り戻してくれた。席に戻ったシィラは何気ない動作でケルザのコップを手に取り、お茶を注ぐと一息を入れる。

「魔王様ぁ、話してみてどうでしたかぁ?」

「バルトとデリダは意地を張った子供のようで遊んでやりたくなるな。ユーリとフィーレは浴場でも話したが中々に愉快だ。立場が違えど個人で見れば悪くはない。特にフィーレはお主の様に真面目に働いてくれそうだ」

「あはぁ、誘っちゃいますかぁ?」

「お二人ともお戯れを。それはまた別の機会に致しましょう」

「そうさな、互いの理解を促す場で変な波風は立てるのは控えるとしよう」

「ユーリさん、落ち着きましたか?」

「うん、ありがとね。もう大丈夫」

ユーリの言葉を受け、フィーレは背中を擦るのをやめた。

「あんなわがまま言わなければ良かったのに」

「うっさい、魔王に素直に従うのが癪だったのよ」

 呆れているデリダに心配そうなフィーレ。我関せずなバルトは空のコップを眺めて弄んでいる。仲のいい四人を見ていた魔王はシィラに声をかける。

「そろそろ次にするか」

「わかりましたぁ、少々お待ちをぉ」

 席を立ったシィラは調理場に入るとケルザの横に立つ。

「どぉですかぁ?」

「焦がしてはいないが少し熱いかもしれないな」

「では、鍋をよけてくださぁい。火傷しないでくださいねぇ」

 手近な布を二枚手に取るとケルザは布を挟んで鍋を持ち、横の台に移動させる。シィラは食器を用意すると竈の前に屈み、火を撫でるように指を動かすと火が消えた。ケルザから木ベラを受け取り数度下から混ぜるとスプーンで中身を掬い、口に運ぶ。

「んー、ちょっと熱いですねぇ。まぁ、食器に入れて少し置いときましょうかぁ」

 シィラは少しだけ深さのある木製の食器に均等にスープを移し、台の上に並べていく。手の空いたケルザはシィラの下げた食器を軽く水に流し、湿らせた布で洗っている。

「あはぁ、せんぱいって洗い物出来るんですねぇ」

「騎士団は身の回りの事を自分でするからな、日常生活に支障はない」

「んふ、向こうから逃げてきただけなのに良く言いますねぇ」

「これは何のスープなんだ?」

「これは街のお店で作った物を温め直しただけですがぁ、野菜を煮込んで出てきた水分に牛乳と塩で味を整えたものでぇす。この近辺の野菜だけで作った、この土地の人には馴染みのあるスープらしいでぇす」

「そうか。さっき一口貰ったが懐かしい気分になる味だった」

「つまみ食いなんて行儀の悪い人ですねぇ。たまには街に食事をしに行ってはどうですかぁ?」

「普段は作ってくれるだろう。一人で行くには少しだけ罪悪感がある」

「せんぱいにそんな感情があったんですねぇ。では今度、みんなで行きましょうかぁ。それなら私も作る必要ありませんしぃ」

 スープの上に手をかざすと仄かな熱が手に伝わる。この程度冷めていれば良いだろうと、シィラはスープの入った食器を両手に一つずつ持つ。

「では、私は魔王様達に運ぶので向こうをお願いしますねぇ」

 返事を待たずに食堂へ戻ったシィラの後ろ姿に眉を寄せ、諦めたケルザも同様に食器を2つ手に持つと食堂へ向かう。

 嫌々ながら、いつもと変わらない仏頂面でケルザはバルトの前に立ち、スープをテーブルに置く。

「ケルザだったな」

「そうだ」

「これは何のスープだ?」

「野菜を煮込んだスープだ。街の店で作ったものを持って来て貰った」

 それ以上話す気はないと左に移動し、デリダの前にスープを置く。言葉こそかけられなかったが視線があった時、何かに迷っているような、どこか気弱な表情に見えた。

 改めてスープを取りに調理場へ戻り、次いでフィーレの前にスープを置いた。

「あの、ケルザ……さん」

「なんだ」

「貴方は何故、魔王の元にいるんですか?」

「答える必要はない」

 躊躇いがちな言葉を叩き落とすと最後の一つをユーリの前に置く。

「何よ、理由くらい良いじゃない」

「必要ない」

「ねー、お嬢様ー。キルシェー、まおー?」

 やや大きめな声を出したユーリは眼前のケルザではなく、スープを口に運ぶ魔王に躊躇うことなく言葉を投げかける。その声に少しばかり目を丸くした魔王はスプーンを食器に乗せた。

「どうした?」

「この最低男が何でここに居るか教えてくれないんだけどー」

「おい」

「そやつは秘密主義でな、隠し事が格好いいと思っておるのだ」

「せんぱいは子供っぽい性格ですからねぇ」

「……ユーリ殿、客人とはいえ魔王様に対して些か気安さが過ぎるのではないか」

「そう言うな、ベルジ。この場において一般的な会話であれば無礼講でいいだろう。互いの理解の為に設けた会食だ」

 苦言を呈するベルジダットを制し、魔王はケルザに視線を投げる。

「まおーさまー、教えてー」

「ふむ、ケルザ」

「話すな」

「だそうだ。すまんな、こやつに臍を曲げられては此処の運営に支障が出る。私からは言えんな」

「そもそも何でこいつ魔王に敬語使わないし従わないのよ、配下じゃないの?」

「んふ。せんぱいはお子様なんでぇ、わがままで敬語なんて知らないんですよぅ?」

「まったく困ったものだ」

 やれやれと溜息をつく魔王を無視してケルザは自分の席に着くとスープを口に運ぶ。野菜の甘さに牛乳のまろやかさ、仄かな塩味が後味をぼかさないように締めている。スープをには一口大の野菜が数種類入っており、味に変化があって飽きがない。単純な味ながら日常的に食べる家庭の味と言えばわかりやすいか、柔らかく懐かしさを感じる味にケルザはゆっくりと意識を溶かしていた。

 

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