第10話:再会と邂逅3 ベルジダット編1



日も暮れかけ空が茜色に染まる頃、珍しく未だ起きている魔王とにこやかに対応するシィラ、憮然として立っている勇者。傾いた陽光が差し込む王座の間が紅い。その紅色を遮る影を招くように、改修して設けた窓が勝手に開く。不穏な状況を理解した勇者は腰の剣に手を回すが魔王は気にした様子もなく、シィラはぼうっと開け放たれた窓を眺めていた。空いた窓からは黒い霧が流入し、三人の頭上を通ると王座の正面に滞留し徐々に型どられていく。形が出来上がるよりも早く霧から声が発せられた。

「魔王様、お久しゅうございます」

黒い霧が一度逆巻くと、壮年の男性が現れた。片膝をつく男は垂れていた頭を持ち上げる。緩い癖のある黒い髪を肩まで伸ばし、黒い瞳は力強く魔王を捉えている。

「馳せ参じるのが遅れた事を此処にお詫び申し上げます」

全身が黒い男は筋肉質な体からは想像できないほど柔らかい動作で再度頭を下げた。

「よい、頭を上げよ」

魔王は平時と変わらない格好、口調で闖入者に答えるが勇者の警戒は解かれない。シィラは魔王と闖入者を交互に見た後、闖入者を好奇の目で見やった。短い言葉を返し男は頭を上げる。

「して、貴様は誰だ。記憶にない顔だが」

「なんと……。いえ、魔王様は長く眠っていらした。私がわからないのは無理からぬ事。あの頃とは容姿がまるで違います」

「ん? 私が呪いを受ける前の配下か?」

「左様でございます。魔王様は相変わらず……。いえ、以前にも増して見目麗しくなられました。覚えていらっしゃいますか? 貴方様が魔王として世界に君臨していた時、貴方様の身の回りの世話をさせて頂いていたベルジダットです」

「ベルジダット……」

男の名前を噛み砕くように魔王は呟く。体を起こし腕を組むと目を閉じて、背もたれに体を預けた。

「身の回りの世話をしていた奴か……」

言葉を発する度に魔王は記憶を遡っていく。記憶の海に浸る魔王は暗澹とした微睡みを押しのけ遠く重い記憶の底で、ようやく名前が引っかかった。

「……ベルジダット。まさか、ベルジか?」

重い記憶を引き釣り上げながら瞼を開く。魔王の双眸には、外見にはそぐわない程表情を輝かせた男がいた。ようやく思い出した魔王は昔なじみの配下だと理解し、背もたれから背を離すとやや前傾姿勢となった。

「おぉ、そうか。ベルジか。見違えたではないか。私が眠っていた年月が、かようにも貴様を変えるとは」

「思い出して頂き恐悦至極。あの頃の私は幼すぎました」

「それは仕方あるまい。あの頃のお主はようやく人型になれた所であったろう」

「えぇ、お恥ずかしながら」

魔王も旧知の魔族と会えるとは思っていなかったのだろう。会話をする二人の表情は明るい。魔王のこの表情を勇者は初めて見るものであった。そんな二人の会話をシィラは躊躇わずに遮った。

「魔王様ぁ、こちらの方とはどういった御関係でしょうかぁ?」

「うむ、そうさな。まずは互いに紹介が必要だろう。こやつはベルジダット、吸血鬼だ。私が呪いを受ける前から私に仕えていた臣下の一人だ」

「お初にお目にかかる。魔王様に紹介して頂いた通り、かねてからの忠臣ベルジダットと申す」

「まぁ、お前達の大先輩だな。この私の前にいる女はシィラだ」

「初めましてぇ、シィラと申しますぅ」

「それと横に立つ男がケルザだ」

勇者は柄に手を置いたまま警戒を解かない。

「……魔王様。先程から思っていたのですが、何故ここに人間が?」

「何、私の気まぐれだ。気にする事はない」

「お戯れを」

「こやつは従者としては中々に有能だぞ。ここの設備を整え、街の人間との折衝も上手くこなしている」

「左様ですか。して、何故その人間は剣に手を置いているのでしょうか」

「せんぱいは慣れるまではこんな感じですよぅ?」

「すまないな、ベルジ。こやつは私の事を愛してやまないのだ。自分よりも昔から私と付き合いのあるお主に嫉妬しておるのだ」

「魔王様に劣情を催すなど、低俗な人間らしい」

「吸血鬼だったか、見栄を張るな。主に可愛がられたくて振っている尻尾が隠せていないぞ」

「働きすぎで幻覚でも見てるいのか。私が戻ったのだ。その短い寿命が尽きるまで暇を取ると良い」

「主まで謀るとは狐狸の類か。魔王の威を借りようとしているならば、狐のようだな」

「この私が魔王様を謀るだと……?」

一瞬、吸血鬼が膨張したように見えた。広がる波紋のように男を中心に、ゆっくりと黒い霧が溢れ始める。今まで感じ取ることができなかった濃密な魔力が室内を満たしていく。勇者は反射的に抜刀したが、僅かな抵抗が柔らかく制止をかける。

「落ち着け」

魔王が気だるく持ち上げた掌をケルザに向け、声を投げる。

「魔王様、こんな下等な人間に牙を剥かれたところで仔細ありません」

「ベルジ、お主もだ。私は身内が傷つけ合うのは好かん。控えろ」

「はっ、申し訳ありません」

「相変わらず人間は嫌いか」

「昔程では。ただ、分別のない人間には教育が必要かと」

ズルリと溢れた霧が時間を巻き戻すように男へと集約され消える。同時に部屋に満ちていた魔力も霧散していた。

「ベルジさん、すみませぇん。せんぱいはちょっと生意気な性格でしてぇ。私も手を焼いてるんですよぅ」

「そうでしたか。シィラ殿の心労、お察しする」

「誰の目線で話している」

「まぁ、待て。話が逸れている」

魔王は持ち上げた手を力なく下ろすと吸血鬼に視線を送る。

「さて、ベルジよ。私のもとに来たという事は昔と同じく私に仕えるつもりと判断して良いのか」

「勿論に御座います。貴方様が目覚めた以上、私は貴方様の臣下で御座います」

「相わかった。そなたの忠義、数百年の時を超えて尚揺らがぬ事に感謝を示そう。嬉しいぞ、ベルジ」

「はっ、有難きお言葉」

「ふむ、では最低限の案内と今後の説明はシィラに任せよう。ケルザでは面倒がありそうだ」

「はぁい、お任せくださぁい。それではベルジさん、まずはお城の中を案内しますのでついてきてくださぁい」

「うむ、お願いしよう」

立ち上がり歩き始めたシィラを追い、ベルジも部屋を出る。

「さて、ケルザよ」

「何だ」

「お前は些か手が早すぎる。今までの生き方を考えれば理解もできるが、今のお前は私の従者だ。もう少し落ち着け」

「……善処する」

「まぁ、何だ? お前の愛情が先走って嫉妬した結果だと言うなら許してやらん事もないぞ?」

くつくつと涼し気な瞳を勇者に向けるが、勇者は顔を逸らす。

「勝手に言ってろ」

「お前が否定しないのは肯定していることなのはわかっているぞ? まったくもって度し難い」



一通りの案内と説明を終えたシィラは、ベルジの部屋について聞いていないことに気付く。はて、どうしようかと思ったが、さして重要ではないと判断し自分の部屋の横を充てがう事にした。久しぶりに見た殺風景な客室に来た当時を思い出す。

「では、ベルジさんはこちらのお部屋を使ってくださぁい」

「急に来た私に部屋まであるとは感謝する」

「いいえぇ、お気になさらずぅ。一応、今通ってきた道の手前から魔王様、私、ベルジさんのお部屋になってますのでぇ」

「ふむ、把握した」

「何かありましたら言ってくださいねぇ」

「その時はお願いしよう」

「では、戻りましょう」

遠回りをした道を今度は最短のルート、魔王の私室を通り過ぎ、突き当りの扉を開き王座の間へ戻る。そこには魔王の姿はなく勇者だけが立っていた。

「戻りましたぁ」

「魔王は部屋に戻った、後は好きにしろ」

「わかりましたぁ。では、ベルジさん。魔王様もお部屋に戻ったようなので自由時間ですぅ。お好きに過ごしてくださぁい」

「……それで良いのか」

「はぁい、大丈夫でぇす。ひとまずは明日、魔王様から今後の話もあるでしょうし今日は好きにしてくださぁい。良いですよねぇ、せんぱぁい」

「構わない」

「せんぱいの許可も貰いましたので大丈夫ですよぅ。来たばかりですし、お部屋で休んでくださぁい」

「……ふむ、では言葉に甘えるとしよう」

「はぁい、おやすみくださぁい」

ニコニコとした普段どおりの表情で吸血鬼を見送ったシィラは勇者へと振り返る。

「ベルジさんのお部屋、私の隣にしましたぁ」

「そうか」

「それとせんぱぁい、誰彼構わず威嚇するのはやめましょうよぉ。縄張り争いしてる動物なんですかぁ?」「うるさいぞ」

「そう考えるとせんぱいも可愛く思えてきますねぇ。ほらぁ、怖くないですよぅ」

ニコニコと歩み寄るようにケルザの手に触れようと伸ばした手は空を切る。そのまま歩き出したケルザは一度足を止めた。

「俺は街へ行く。明日の朝には戻る、後は好きにしろ」

「御一緒しましょうかぁ?」

「来るな」

「……そぉですかぁ。あ、そうですよねぇ。せんぱいも大人の男性ですからねぇ」

その言葉を無視したケルザは部屋から出ていった。残されたシィラも口元を隠し一頻り笑うと、日課となっている女子会をするべく魔王の部屋へと向かう。大きな扉を控えめに叩く事に躊躇いはない。返事を待たずに僅かに扉を開き中を覗く。妹の様に可愛らしい少女は天蓋の付いた豪奢なベッドに腰掛けた状態で身体を横たえていた。

「……魔王さまぁ、眠っちゃいましたかぁ?」

扉を叩いた時と同じく控えめな声でシイラは語りかける。

「きちんとお布団に入らないとダメですよぅ」

「そうだな。こんな格好で寝てはケルザに怒られてしまう」

「そうですよぅ。せんぱいなら夜中に魔王様を覗きに来てもおかしくありませぇん」

「私の寝顔を見なければ安眠できないとは可愛いところもあるではないか」

ゆっくりと両手を支えに体を起こした魔王は柔らかい声でシィラを招き入れる。声に促されたシィラ楽しそうに返事をすると、室内に踏み入り扉を閉じた。



翌朝、ケルザが王の間に戻るも誰もいなかった。普段であれば魔王かシィラがいてもおかしくは無い時間。そういう事もあるだろうとケルザは立ち慣れた定位置についた。昨日唐突に現れた男、ベルジダット。吸血鬼である奴にはひと目で人間とバレていた。それが吸血鬼だからなのか、人間嫌いなせいで敏感なのかはわからない。だが、魔王とシィラに比べ人間に敵対的な奴を街に連れて行くのは愚策なのは目に見えている。あいつの手綱を握れるのは魔王だけだろう。ならば魔王と組ませて行動させるのが最善だ。そうなれば基本は城に滞在となる。しかし、早々に街の人間には認知させておきたい。今後、自分がいない時には魔王の代理として街の人間と立ち会う事もあるだろう。それを穏便に済ませる為に思考を巡らせてる間に雑談をする三人が王の間に立ち入った。

「ほう、早いではないか。ようやっと従者としての心構えができたようだな」

「違いますよぅ。せんぱいは朝帰りでぇす。昨日街に行って、今朝帰ったんですよぅ」

「主を放って遊び呆けるなど、如何にも人間らしいな」

口を動かしつつも動作は止めない三人。魔王は流れるように王座に座り、肘掛けに腕を起くと行儀よく足を揃えて頬杖を付く。シィラはそんな魔王の前に座り込み、やや魔王よりも低い位置に頭を置いた。吸血鬼は自分とは反対の、魔王の頭側に立つと腕を後ろに組む。

「して、ケルザ。街では何をしていたのだ」

「雑務だ。お前の生活に支障はない」

「ほう、雑務に一日もかけたのか。仕事熱心な奴だ」

くつくつと笑う魔王に合わせて、シィらも小さく笑う。

「魔王様ぁ、せんぱいをいじめたら可愛そうですよぅ。せんぱいも大人なんですからぁ、私達に言えない事くらいありますよぅ」

「そうなのか? ケルザ、私に言えない事とは何だ」

「知るか。話を振った奴に聞け」

「シィラ」

「私は男の子ではないのでわかりかねまぁす。ベルジさんなら知っているかとぉ」

「なるほど、性差の問題はあるな。ベルジ」

「魔王様もシィラ殿も人が悪い。肉体を持たない私には性差など関係ありません。それこそ答えを持ち合わせるのは、そこの人間だけかと」

「だそうだぞ、ケルザ」

穏やかな作り笑いを見せる吸血鬼は勇者を見ない。魔王とシィラだけが底意地の悪い笑顔で勇者を見上げていた。それを認めてケルザは鼻を鳴らして顔を背けた。

「まったく、世間話も出来ないとは嘆かわしいな」

「魔王様の問いに答えられないとは、やましい事でもあるのか」

「……お前の様な犬とは違い、人には自由と言うものがある。仕事以外の情報を共有する必要はない」

「せんぱいは隠し事が好きですからねぇ。仕事でも言わない事のほうが多いですしぃ」

「ふん。魔王様の庇護のもと生きて好き放題振る舞うなど、貴様の方が余程狐らしいな」

厳しい表情を崩すことなくベルジは口だけを動かした。その言葉にケルザはピクリと眉を動かすも平静を装う。

「主に尻尾を振る以外やることが無いお前とは違う。誰が見ても尻尾を振るっているのがわかるならば、確かに隠し事をする必要はないな」

「何、強がる事はない。貴様より遥か先に魔王様に仕えている私だ。幼少に見た魔王様の力強い存在感。それは今も霞むことは無い。絶対的な安全圏にいる安堵感は心地良いものだ。だからこそ私を守ってくれていた魔王様に恩を返すため、今度は私が魔王様を守る為に此処に馳せ参じたのだ。今の貴様はまるで幼少の頃、魔王様に守られていた私の様に見える」

「お前の思い出話に興味はない。だが得心はいった。やはり狐は成長しようと狐のようだ」

「……魔王様、恐れ多くも具申します。やはり戯れが過ぎます、このような人間を配下にするとは」

「まったく、昨日も言っただろう。そやつは私にもお主にもシィラにも出来ない仕事をしている。シィラもケルザに出来ないことを担っている。そのお陰で私は快適な生活を送っているのだ。私の意向は覆らない」

溜息をついた魔王は心労を癒やすように手を伸ばし、シィラの頭をを撫でる。抵抗なく受け入れる彼女は朗らかな表情であった。何か言葉を飲み込むように吸血鬼が眉を寄せたのを勇者は見逃さない。

「昨日、お前は俺に低俗な人間と言ったな。その割には俺を追い出したいような言葉が散見される。本当は魔王が俺を庇う事に嫉妬しているんだろう。魔王を独占したいと言う欲求がだだ漏れだぞ。外見だけは成長したようだが、未だに幼い頃の影を追うなど精神的な成長が見られない。男の嫉妬は醜いぞ、吸血鬼」

「……魔王様ぁ、今日のせんぱいは口が達者ですねぇ」

「ふむ、私達に鍛えられたようだな」

「私達に口で勝てない鬱憤を晴らしてるんでしょうかぁ」

「かもしれんな。偉そうなことを言っても子供みたいなところが多々ある奴だ」

くつくつと笑う魔王に反し、吸血鬼は眉をしかめながら深く息を吐いた。

「なるほど、シィラ殿の言う生意気の意味がよく分かりました」

「いっつも生意気なせんぱいの面倒見ないといけなくて大変なんですよぅ」

「魔王様。私に最初の仕事として、この人間を躾けさせて頂きたい」

「ほぅ、どうするのだ」

「私は魔王様を守るために来ました。この人間も生活を維持するために必要な事はわかりました。もし私がこの人間に負けるようでは魔王様を守るなど夢のまた夢。私が此処に来た意義がなくなります。ですが私が勝つならば、この人間よりも魔王様を守る事に適していると思いませんか」

「ふむ、力比べがしたいという事だな。確かにお主がケルザに負けるのであれば、それはケルザが賄える仕事だと言える。自分の能力で自分の望む環境を手に入れんとする姿勢は好感が持てるな。ならば、ベルジ。お主が私に仕える事においての立場を明確にしろ。ケルザ、それで良いな」

「構わない。どうせどこかで能力を確かめる必要はある」

「相わかった。私とシィラが立ち会おう。本気でやるのは構わんが、互いの殺生は認めん。怪我くらいは認めてやる」

「よかったな、人間。魔王様の慈悲がなければ私が躊躇うことはなかった」

「魔王、明日から数日間眠るはずだな。さっさと済ませよう」

「まぁ、待て。私は起きたばかりだ。何が悲しくて朝早くからお主達の立ち会いをせねばならんのだ。私はまだ眠い、昼過ぎまで好きにしろ」

「そうか。部屋に戻る」

短い言葉を残したケルザは3人が来た扉をくぐり廊下へと消えていった。自身の横に立つベルジダットに向かい、魔王は視線を投げる。

「ベルジ、お主も好きにしろ」

「魔王様の御側が私の居場所ですので」

「頭は固くなったのかもしれんな」

「もう、魔王様ぁ。ベルジさんは魔王様に会えて嬉しいんですよぅ。時間が許す限りは一緒に居たいのかとぉ」

「好きにしろと言った手前、文句も言えんな。そこに控えていろ、ベルジ」

その一言はベルジダットにとって、勇者との会話で蓄積された苛立たしさを払拭して有り余るものであった。



部屋へ戻った勇者はベッドに腰を掛ける。深く沈む布団の柔らかさに促され、ゆっくりと息を吐いた。大枚を叩いているだけあり、肌触りもよく寝心地も悪くはない。ただ無骨な生活を送ってきた勇者には些か上品が過ぎる。腰を左右にひねると軽快な音がなった。日課の運動も既に済ませており、体調は万全である。腰に下げていた剣をベッドに立て掛けて手放し、勇者は今後の展望を夢想する。吸血鬼が魔王を守り、シィラが魔王の世話をする事が前提となるのはわかりきっている。足りないのは城の運営をこなせる人材だ。それさえ手に入れば自分は自由の身だ。ここまで尽くして生活環境を整えたのだ。魔王も今の生活が続くならば問題はないと答えるはず。一人で旅に出て何処へ向かおうか。ここは最北の地、であれば最南の地を目指すのは道理とも思える。人はいつでも足りないものを埋めたくなるものだ。きっと此処とは正反対の地は自分の知らない事が多いだろう。見た事がないもの、食べたことが無いものなど無数にある。それはきっと楽しいものだと勇者は体を倒して、瞼を閉じた。そう、世界は広いのだ。例え顔が知られて魔王の手下と言われようが逃げてしまえばいいだけの話。追われて逃げて、世界をめぐるのも悪くないと柔らかいベットに意識は溶けていった。



シィラとの昼食後、そのまま城の裏手へと誘導される。崖下から吹き上がる風は荒々しいが、眼下に広がる一面の海は穏やかに見えた。潮風による城の腐食も考える必要がある。

「せんぱぁい、飛び込むんですかぁ? 流石に危ないかとぉ」

「死ぬだろうな」

「だめですよぅ、勝手に死んだらぁ。ちゃんと魔王様に許可をもらってくださいねぇ」

「許可を貰ってまで死ぬつもりはない」

「それなら安心しましたぁ。どぉですかぁ、ベルジさんには勝てそうですかぁ?」

「さぁな、吸血鬼と戦ったことが無い」

「ふぅん、そうですかぁ。もう少ししたらお二人も来ますのでぇ」

独り言のように呟くシィラは、崖から幾分離れたところで風に晒される。吹き上がる風こそ荒いが、城の近辺は比較的穏やかに流れており、シィラの髪やスカートの裾を揺らしている。両手を前で揃え瞼を閉じたシィラは軽く俯いて、風を受けていた。そのシィラの耳がピクリと動く。間をおかずに人影が現れた。

「ふむ、来ておるな」

「お待たせした、シィラ殿」

「いいえぇ、涼しくて快適でしたぁ」

二人は城の際を歩き、合流するためにシィラも振り返ると歩きだす。勇者はただそれを眺めていた。

「ベルジさん、準備は済んでますかぁ?」

「お気遣い感謝する。無論、問題ありません」

「それは何よりですねぇ。魔王様ぁ、始めますかぁ?」

「あやつも問題あるまい」

「わかりましたぁ」

シィラは二人から離れ勇者の元へと歩いていく。それを見た勇者も意図を理解して歩き始めた。ある程度歩いた所でシィラは立ち止まり、その場まで勇者は歩を進めたが彼女は動かずにニコニコと微笑んでいる。そこで彼女が立ち止まる理由がわからず勇者は眉を寄せた。

「どうした」

返事をする事は無く、微笑んだまま僅かに首を傾けると何事もないように城の方へと向き直り歩いていく。それと入れ替わるように吸血鬼が勇者の前へと進み出る。

「万全か、人間」

「言われるまでもない」

「せめて口だけでは無いことを願いたい」

「同感だ」

「二人とも準備は出来ている様だな」

ゆっくりと風に逆らい魔王が歩いてくる。銀色の長い髪が風に靡き、陽光が煌めく。勇者とベルジの間に立つと目元にかかった髪を指ですくい、風に流した。

「最低限のルールだけ設けよう」

「不要だ」

「一つ、相手を殺すな。一つ、致命傷は避けろ。一つ、私が制止した時点で終わりだ。異論はないな」

「ご随意に」

「但し手を抜くなよ。互いの技量を知ればこそ、信頼できる部分もあるだろう」

「……早くしろ」

「まったく、せっかちな奴だな。では私がシィラの横に戻り手を叩いたら開始だ。退屈にさせるなよ」

それだけを言い残し、魔王はシィラの横へと戻っていった。

ケルザは柄に手を置くが、ベルジダットは両手を下げたまま動く事は無い。だが、眼光だけは確実に勇者を捉えていた。



──遠くで鳴った乾いた音が風を裂いて二人に届く。









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