第8話:再会と邂逅2 シィラ篇3

「シィラ、ここでの生活は慣れたか?」

「はぁい、過ごしやすくて良いお城ですねぇ」

「うむ、ケルザは中々に有能でな。お陰で快適に過ごせている」

「最低限を整えただけだ」

「私と一緒に生活したくて整えたのだろう? わかっているぞ」

「そうなんですか、せんぱぁい。女の子と二人だけで生活したくてここまで整えるなんて中々できませんよぅ?」

「好きに言え」

相変わらず朝の早い二人は勇者よりも早く、王座の間で歓談していた。

「そうだ、シィラよ。家具の搬入は済んだのか?」

「はぁい、お陰様でぇ。ありがとうございまぁす、魔王様ぁ」

「何、私の従者だ。部屋が質素すぎては私の沽券に関わる、気にするな。では早速見せてくれ」

「はぁい、喜んでぇ」

ニコニコと笑う女は王座から数歩離れ、魔王が立つのを待つ。立ち上がったのを確認すると歩き始め、二人は勇者の前を通り過ぎる。が、勇者は動かない。

「どうした?」

魔王は怪訝そうに振り返る。

「何がだ」

「シィラの部屋へ行くぞ」

「俺が行く必要はない」

「せんぱぁい、そんなに緊張しないでくださいよぅ。女の子二人と女の子の部屋にいるのが、そんなに恥ずかしいんですかぁ?」

「なんだ、そうなのか?」

「私と二人の時は部屋に来たんですけどねぇ」

「ほぅ。そうなのか、ケルザ」

「……わかった。俺も行こう」

「まったく素直ではないな」

「ほんとですねぇ」

ニコニコと笑いながら女は廊下を進む。次いで魔王、勇者と歩いていく。部屋に着くと女はベッドに座り、魔王と勇者には椅子に座るように促した。サイドテーブルを挟み魔王と勇者は席につく。

「ふむ、可愛らしい部屋ではないか」

「ありがとうございますぅ」

「しかし、大きい衣装箪笥だな」

「まだ何も入ってませんが、これから衣類を増やそうと思いましてぇ」

「ふむ、良いではないか」

「魔王様の部屋に衣装箪笥は無いんですかぁ?」

「そこまで服を持っていないからな」

「駄目ですよぅ、女の子なんですから服装も気にしませんとぉ」

「今ある分で困らないんだがな」

「後で見せてくださぁい。足りない種類の服も増やしましょ〜」

「何処からその費用を出すつもりだ」

二人が勇者を見る。女は小首を傾げた。

「せんぱいのお財布ですかぁ?」

「身銭を切ってお前の私物を買うつもりはない」

「では何処から出ているのだ」

「……前に話しただろう」

そうだったかと首を傾げる魔王に溜息をつく。確かに殆どが寝るだけで生活するのに出費する事を知らない魔王は、金銭に頓着がないのだろう。この女に関しては城の財政について知る由もない。

「まだ蓄えはあるが、城の不要なものを売って作った資産が大半で収入はまだ少ない」

「あぁ、聞いた気がするな。そも収入があったのか」

「多少のツテがある」

「では、せんぱいが収入源ですねぇ」

「そうなるな。資金が尽きるまでに城の維持費、私達の生活費を賄えるように頼むぞ」

「……善処しよう」

くつくつと笑う魔王は仮にも主。色々と言いたいことはあるが勇者は押し黙る。確かに城を勝手に改修した手前、我儘は言えない。だが、あの女は笑顔を崩さず当たり前のように自分を財布として見てくるのはどうにかならないものか。ならないものなのだろうと、勇者は諦めて理解していた。

「ただ、今後はお前にも働いてもらう」

「えぇ、私もですかぁ?」

「その分、給金は出そう。それで好きなものを買え」

「せんぱいが養ってくれれば働く必要はありませんよねぇ?」

「養う理由がない」

「照れ隠しですかぁ? 養ってくれるのであれば結婚くらいはしますよぅ?」

「ケルザよ、ケッコンとはなんだ」

「……そいつに聞け」

「そいつって誰ですかぁ?」

「シィラ、ケッコンとはなんだ」

「夫婦になるって事ですよぅ」

「なんと、私が寝ている間に随分親しくなったのだな」

「なっていない」

「もう部屋に連れ込まれたり押し入られたりする仲ですよぅ」

「嘘を付くな。止めろと言っても押し入ったり連れ込むのはお前だろう」

「間違っていないではないか」

魔王の言葉に言動を振り返る。なるほど、間違ってはいない。

「間違ってはいないが、好き好んでしている訳ではない」

「魔王様ぁ、せんぱいは押しに弱いんですよぅ」

「ふむ、そうなのか。では、これからは多少強引に接するか」

「それが良いかとぉ」

「不要だ、今のままで良い」

「なるほど、私みたいなお淑やかな淑女が好みか。お嬢様が趣味な貴様を考えると納得できるな」

「今のままの私が好きなんですかぁ? 照れちゃいますねぇ」

女は頬に両手を当てると体を左右にひねる。

「お前達は何を言っているんだ。付き合い切れん」

勇者は立ち上がり、部屋を出ていく。

「ふむ、からかいすぎたか」

「そんな事ありませんよぅ。私達に囲まれて恥ずかしくなったんですよ、きっとぉ」

「奴の恥ずかしがり屋には困ったものだな」

「全くですねぇ。ところで魔王様ぁ」

「何だ」

「せんぱいは何で魔王様の従者をしてるんですかぁ? 住み込んでまでぇ」

「この前に少し話していたが、奴は帰る所が無くてな。仕方無しに此処に居るのだろう」

「名前を捨てたとも言ってましたねぇ」

「私も奴の本来の名前は知らん。今は私のつけた名前を使っている」

「そぉなんですかぁ。何だか大変そうですねぇ」

「そうか? 今の奴は中々楽しそうに見えるぞ。ケルザは人に尽くすほうが性に合うらしい。だからこそ私をお嬢様として仕えているのだろう」

「ん〜、どうせなら私にも仕えて欲しいですねぇ」

「ふふっ、そうか。従者としては奴は中々に有能だぞ。私が寝ている時であれば好きに使うと良い。従うかはわからんがな」

「いやぁ、従いませんよねぇ。むしろ素直に従われたら気持ち悪いですねぇ」

「まったくだな、私にすら素直に従わん」

「困った従者ですねぇ」

「あぁ、困った従者だ。それに引き換え、お前は素直でいいな」

「ありがとうございまぁす、魔王様ぁ。ところで魔王様ぁ、私も魔王様のお部屋が見たいなぁって」

「構わないぞ。この部屋ほど可愛らしくはないがな」

「では、是非見せてくださぁい。それとお洋服も見せてくださいねぇ。足りない種類のお洋服を買い足しますからぁ」

「私はあまり気にしないが、そこはお前に任せよう」

「はぁい、お任せくださぁい。女の子らしい可愛いお洋服を見繕いますよぅ」

二人も立ち上がると魔王の部屋へと向かっていった。



普段どおり朝食を済ませ、城の周辺を見回る。簡単に身体を動かしたあとに王座の間へ行くと、女が王座に腰を下ろし、肘掛けに腕を起き頭を載せていた。

女は勇者を認めると顔を上げ微笑む。

「遅いですよぅ、せんぱぁい」

「そこはお前の席ではない」

勇者は女との距離を保ったまま立ち止まると腕を組む。

「そんな細かい事は気にしないでくださぁい。それよりもぉ……」

両手を肘掛けに添えるように起き、その体勢のまま上体を僅かに反らす。

「せんぱぁい、私の従者になりましょうよぉ」

「ならん」

「魔王様の許可はとってますよぅ、自分が寝てる間なら良いってぇ」

「知った事か」

「もぅ、つれない人ですねぇ。私の従者になってくれるならぁ、私もせんぱいに尽くしてあげますよぅ?」

「不要だ」

「……せんぱぁい。女の子の私がここまで言ってるのに断るなんて、女としてのプライドがズタズタですねぇ」

「早くそこを退け」

「せんぱぁい、私は趣味じゃないんですかぁ? 魔王様より体は大人ですよぅ?」

「頭が足りないようだな」

「多少足りないほうが可愛げがあって良いじゃないですかぁ。普段は魔王様に仕えてぇ、魔王様が寝ているときは私に仕えてぇ。魔王様に出来ないことぉ、私にして良いんですよぅ?」

「そうか、大人しく働いて稼いで来い」

「……もしかしてぇ、魔王様にしか欲情できないんですかぁ?」

「……お前は何を言っているんだ」

起こした体を丸め、無防備に手の上に頭を載せて女は柔らかく微笑む。

「んふ。ここでの生活も慣れましたしぃ、少し位せんぱいで遊んでも魔王様なら怒らないでしょうしぃ。せんぱぁい、少し遊びましょう?」

見下ろしていた女の、細めた双眸に視線が捉えられる。普段ならどうと言うこともない当たり前の動作に強制力が働き、勇者は目を離せない。

「どうしたんですかぁ、せんぱぁい。そんな目で見つめられたら恥ずかしいですよぅ」

「ゴミを見るような目で見ていたつもりなんだが、喜ばれたなら失敗だったな」

「うふふ、生意気なせんぱいをお仕置きするのも可愛い後輩のお仕事ですよねぇ?」

「金にもならない仕事をしろとは言っていない」

「せんぱいは本当に魔族なんですかぁ?」

「人間が魔王に使える理由はない」

「あの魔王様ですからねぇ、自分が気に入ったなら種族は問わないでしょう? せんぱいは随分、街の人に溶け込むのが上手いようでぇ。元々、同じような環境で生活していたのではぁ?」

「答える必要はない」

体が硬い。柄へ手を伸ばそうとしたが、何かしらの強制力がやんわりと行動を制限する。

「……思ったよりも冷静ですねぇ、せんぱいは人間ですよね?」

「好きに言え」

「んふ、否定しないんですねぇ。本当に素直な人」

「……用件は何だ」

勇者は緩慢な動作で組んだ腕を解き、剣の柄に手を乗せる。

「前に魔王様の魔力でよくわかんないって言いましたよねぇ。あれからもずっとせんぱいの魔力を感知していたんですよぅ? 魔王様とも近くで過ごして魔力も正確に感知できるようになりましたぁ。せんぱいの魔力って魔王様の分を除くと、どうも魔族特有の癖がないんですよねぇ」

体の制限以上に視線の強制が強い。未だ目を離す事は許されない。

「魔王の強い魔力に紛れているんだろう」

「そもそも魔王様の魔力を譲渡されているのも解せませんよねぇ。何かしらの契約でもしたんですかぁ? 例えばぁ、魔王様の魔力を譲渡してもらう代わりに呪いを緩和させるとかぁ」

「何が言いたい」

「人間も魔族も欲は尽きないなぁって話ですよぅ。魔王様の魔力が欲しいから契約を持ち出したのかなぁって」

勇者はようやく柄を握るが、力が弱い。

「でも、そうすると此処に住み着く理由もわからないんですよねぇ」

「世間話はもう良いだろう」

「世間話だと思ってもらえましたかぁ? 日頃からせんぱいに時間を割いて適当な話をした甲斐がありましたぁ」

意図を読めない女は相変わらず笑顔を貼り付けて笑う。その薄気味の悪さはどこか初めて会ったときの魔王に似たものを感じ、柄を握る手に力が籠もった。

「いい加減にしろ。俺を詮索するな」

「優しいですねぇ、せんぱいはぁ。今までの生活で多少なりとも私に情が移りましたか? それともせんぱいがぁ……」

粘性のある言葉が鼓膜に纏わりつく。

女はゆっくりと身体を起こし、肘掛けから手を離す。自分を抱くように軽く腕を組んだあとに、乱れた髪を片手で後ろに流し整えた。

「人間だからですかぁ?」

今までの貼り付けた笑顔とは質の違う蠱惑的な暗い笑みを浮かべた女の双眸が、深緑から紫に変わる。淀んだ瞳は怪しく光り、勇者の精神を拘束しようと絡みつく。

「……確かに少しばかり、塵ほどに情が移っていたのかもしれない。魔王に害をなす訳ではないと見逃してきたが、いい加減仕置が必要なようだ。矯正してやろう」

水の中で動くような束縛を引きずりながら、鞘から剣を引き抜く。女は緩慢に立ち上がり、胸の下で腕を組み直すと嘲るように笑う。

「うふ、せんぱぁい。遊びましょう?」



勇者は身体に力を込め動作を確認する。意思を持って動かすのであれば阻害はあれど拘束はされない。普段ほど動けないが、この程度なら戦闘は可能だろう。それ以上に厄介なのは視線が女に固定されることだ。周囲の確認が前方のみに集約され、他に目を向けられない。完全に外そうとしても外せない強制力に眉を寄せる。女はエルフだ、魔法主体なのはわかっている。これも魔法の一つなのかもしれないが、些末な事。問題は視界の外から発動された魔法は見えないということだ。重い身体を、相手に悟られない程度になだらかに動かして剣を構える。

「へぇ、凄いですね。人間の癖に私に抗うなんて」

「言って聞かない奴には体で覚えさせる必要がある。どうせ働いていない、怪我で療養しても問題はない」

「んふ、生意気なせんぱいですねぇ。そんなに見つめないでくださいよぅ」

くつくつと魔王のように笑いながら、自分の拘束から逃げられていないと女は嘲る。自分の魔法にかかっている自信があるのだろう。幸い、女の前で戦闘はしていない。初見の動きをし続ければ、いずれ本当に魔法にかかっているのか疑問に思うはずだ。全身の動作に気を払い、違和感を消す。無理をしてでもなだらかな動きを継続する。それによって、先ずは女の精神的優位を崩そう。剣を水平に構え、剣先を後ろに流して手の甲に乗せる。姿勢を落とし、足に力を込めた。普段の6割程度に感じるが、近接で戦えない女相手なら充分だろうと地を蹴り同時に横薙ぎに剣を振るう。

「こわぁい。女の子に剣を向けるなんて酷いせんぱいですねぇ」

女に剣が届く前に空間が波打った。見えない壁が音もなく衝撃でゆらぎ、女が歪む。

「近接では戦えないんじゃなかったのか」

「戦えませんよぅ、防げるだけでぇ」

悠々と立つ女は自分の障壁で攻撃を防げるとわかると口角を歪ませた。

「なるほど、良い機会だ。本当に勇者の仲間と戦えるかも確かめよう」

「上からですねぇ、わからせてあげますよぅ?」

見えない壁が弾け、反動で勇者は飛ばされる。力の伝導が遅く倒れそうになるのを、バランスが崩れたように見える程度にフォローしながら数歩下がり体勢を整える。正面からの入口を背にすることで死角が減った利点を活かし、見慣れた部屋全体の距離感を改めて認識し直した。衝撃で飛ばされたのにも関わらず、視界の拘束は解けない。反動で一瞬目を閉じていたが、開くと強制して女を捉える。目を閉じた一瞬を捉えたとは思えないが、再度目を開いたときには女が二人になっていた。

「うふ。どうですかぁ、せんぱい? 可愛い女の子が二人ですよぅ?」

「煩わしい事この上ないな。一人でも五月蝿い」

「失礼な方ですねぇ。まぁ、それも今日までです。今日からは私無しでは生きられなくしてあげますからねぇ」

女の一人が動く。勇者は剣を構え直し、二人を視界に収めつつ動いた女を警戒する。一人は腕を組んだまま、一人は無造作に歩いてくる。距離が縮むに連れ、罠だと強く認識するも無為に攻められても自分が不利になると判断し勇者は手前の女に剣を振るう。

「せんぱぁい、正気ですかぁ? 可愛い女の子に躊躇いなく剣を振るうなんてぇ」

振るった剣は何の抵抗もなく一本の軌跡を描く。障壁の妨害も、女を切った手応えもなく剣は予定通りの軌道を通った。

「幻か」

「そうでぇす。本当に私に対して攻撃してきたのは結構ショックですよぅ」

「お前に対する正当な行動だ」

「強がっちゃってぇ、体動かすのも大変でしょう?」

返す刃で、そのまま残った一人に剣を振るうが想定通り見えない壁が邪魔をする。上段からの振り下ろし、横を通り抜けながら下段からの切り上げ、背面から蹴りを繰り出すも全て防がれる。蹴ると硬いのではなく、柔らかい物に押し戻されるような弾力を感じた。女は僅かに振り返ると横目で勇者を見る。

「無駄ですよぅ」

勇者は納刀すると、女に視線を固定したまま正面へと移動する。

「どうしたんですかぁ?」

「確かに俺の攻撃は通らないようだな」

「やっとわかってくれましたかぁ?」

「だが、お前に攻撃もされないなら放置で問題ない」

「そんなこと言って悔しいんですよねぇ、私を矯正出来なくてぇ」

「お前も俺にお仕置きが出来ていないだろ」

「それは安心してくださぁい」

勇者は不意に背後から抱きしめられた。

「……誰だ」

「んふ、私ですよ。面白いことを聞きますね」

確認ができない以上、不要な問答だったと口から漏れた疑問を破棄する。周囲への集中が切れていたのは過失だが、力は強くない。

「分身か」

話に聞いたことはあるが、高位な魔法だったはずだ。なるほど、魔族だけあって魔法の素養は人間より高いらしい。

「つまらないですねぇ、もっと焦ってくださいよぅ」

「それなりに驚いてはいる」

後ろの分身は物音一つ、呼吸音も聞こえない。魔法で作ったものなら呼吸も必要ないのかもしれない。熱もない。だが、確かな感触だけは伝わってくる。

「どうですかぁ、私の体はぁ。柔らかいですかぁ?」

「この程度の力で拘束して勝ったつもりか」

「強がってますねぇ、私の魔法で力も入らないでしょうにぃ」

「拘束から抜ける位は訳無いな」

朝からの訓練で魔力は殆ど使ったが、それでも多少の残りはある。魔法に力は関係ない。徐々に魔力を剣へと流し込む。

「この魔法、なかなか面白いんですよぅ?」

耳元で甘い声が囁かれる。

「こうやって意識的に操作すれば話すことも出来ますしぃ、感覚の共有もできまぁす」

閉じる唇が耳を食み、柔らかい感触が耳を挟み撫でた。

「うふ、どうですかぁ? こうやって私に耳を食まれながら、私に話しかけられる気分はぁ」

今度は正面の女が口を開く。

「気色が悪い」

「耳は柔らかいのに態度は硬いですねぇ。もっと力を抜いてくださぁい」

後ろから拘束する女の片手が体を弄るように動き始める。

「感覚が共有出来ると言うのは五感すべてなのか」

「そうですよぅ。だからぁ、せんぱいの温かい体温とかぁ、硬い体とかぁ。私はぜぇんぶわかるんですよぅ」

鞘から水が滴り始める。不完全な拘束のまま、勇者は納刀した剣を掴み刀身を僅かに覗かせた。

「抜かせませんよぅ?」

分身が剣を抜こうとした手を諌めるように手首に置かれる。力を込めれば抜刀もできるだろうが、今は不要だった。

「充分だ」

鞘から溢れた水が形状を変え、後ろの分身を貫いた。

「……っ。思ったよりも器用なんですねぇ、せんぱい」

昔、仲間の魔法使いに聞いたことがある。分身は高度な魔法なだけあって使用には集中する必要があり、耐久性はないと。話の通り硬化した水で一度攻撃をされた分身は簡単に霧散した。

「痛覚も共有しているんだろう?」

「一瞬、遮断するのが遅れましたぁ。少し痛いですねぇ」

「安心しろ、まだ傷めつけてやる」

「……少しだけ心構えはできましたぁ。私、痛いの嫌いなんですよぅ」

「そうか。続けよう」

勇者は躊躇わずに抜刀する。刀身は水に覆われ、刃先からは水が滴っていた。

「攻撃魔法は苦手なんですがぁ」

女は腕を組んだまま、片手を前に差し出す。力なく開かれた掌に、無風の室内にも関わらずに風が収束していく。勇者は軽く腰を落として攻撃に備えた。

「曲がりなりにも魔族ですのでぇ、痛いですよぅ?」

収束した風が指向性を持ち、勇者へと飛ぶ。ほとんど視認できない魔法は空間を歪ませながら迫った。それを一歩横にズレることで避けるも、直ぐに2発目が飛んでくる。攻撃範囲のわかりにくい魔法を勇者はギリギリで回避する。発生元は全て女の掌だが、動作がなく魔法の範囲も縦や横に伸びており見分け難い。そのせいで回避が次第に遅れ、数発続いた魔法に追い詰められ肌が幾度か刻まれた。

「よく避けますねぇ、次はぁ」

組んだ腕を解き自分を抱くように片腕を脇腹に置いたまま、今まで風を集めていた手を肩まで持ち上げる。今度は視認できる光が珠になった後、槍状に形を変える。光を集めた手を指示するように勇者へと仰いだ。光の槍が躊躇うことなく、勇者の頭を狙う。予測して行動しなければ回避もできない速度の光の槍を、勇者は水を纏う剣で正面から切り裂く。切り裂かれた光は二又に別れ背後の壁を抉った。気が付くと勇者は切り裂いた光の奔流に、すぐ後ろが壁になるまで押し込まれていた。

「魔法も切れるんですかぁ、びっくりしましたぁ」

こちらは連続使用できないのか、魔法が止まる。その隙を見逃すつもりはなかった勇者は一度鞘に剣を収めるも、間を置かずに居合抜く。鞘から抜かれた剣は水で軌跡を描いた。居合で描かれた軌道は魔力で硬化され、女へと飛ぶ。

──水刃。居合で振り抜いて飛ばした水を硬化して斬撃を飛ばす。物理的な攻撃ではあるが、近接での攻撃を意識させた上で使えば不意打ちとしては効果的である。

「いつっ‼」

「見誤った」

視界が女に固定されたせいで、意識が女に集中されすぎて自分の目測が短かった。結果、女がいたのは魔法が解ける範囲の外。ほとんど効果の切れた魔法の残滓だけが、僅かに女を切った。

「……せんぱぁい、見えますかぁ?」

女は下腹部あたりの服の切れた部分を指で押し付けながら軽く持ち上げた。

「血が出ちゃいましたぁ」

白い肌に横に赤い線が引かれており、血が滲み滴る。

「女の子を傷物にした責任は取ってくれるんですよねぇ?」

「これも仕置だ」

「そう言って今までも女の子を泣かせてきたんですかぁ? 悪い人ですねぇ」

「口が減らないな」

「痕が残ったらどうしましょうかぁ。痕を見る度にせんぱいを思い出しちゃいますねぇ」

「俺に逆らう気も無くなるだろう」

「こうやって女の子に消えない首輪をつけて、自分はこの人の物なんだって思わせるんですねぇ」

「思考が噛み合わないな」

「これで私が負けたら身も心も屈服してしまいますねぇ」

「お前が俺を煩わせなければ、これ以上傷は増えない」

「うふ、身も心もせんぱいの物って理解させられるのも悪くありませんがぁ、せんぱいが私に屈服するのも見たいですねぇ」

女の瞳が強く光った。身体にかかる負荷が強くなり、視界の女以外が霞み始める。それに伴い思考も徐々に女に汚染されていく。

「んふ、多少の耐性はあるみたいですがぁ、私がすこぉし魔法を強くするだけで無意味になりますねぇ」

不意に後ろから柔らかいものに抱きしめられる。それは拘束するものではなく包むような、力の込められない行為だった。また耳元で甘い声が囁かれる。

「ほらぁ、せんぱぁい。力を抜いてくださいよぅ。もっと私の声を聴いてくださぁい。もっと私を見てくださぁい。もっと私のことを考えてぇ……ね?」

視界が揺らぐ、思考が揺らぐ。甘い声は脳を溶かしていく。

「そんなに頑張らなくていいんですよぅ? 優しくしてあげますからぁ。だからぁ、一緒にダメになりましょう?」

女は甘い声で甘美な言葉を耳に流し込む。

なぜ自分は頑張っているのだろうか。汚染された思考は女の言葉に容易く揺らぐ。この誘惑に乗っても良いのではないか。何を意固地になっている、何に意固地になっている。勇者は自分の揺らぐ思考の中、先ほどの魔法で枯渇した魔力を救い上げ、少しでも女の魔法に抵抗しようと試みるが救い上げる魔力がない。懸命に手を伸ばすも魔力は残っておらず、水がめの底に触れるばかり。女の誘惑に負けると感じた時、水がめの底に指が沈んだ。それは硬く重く持ち上げようとする指を、逆に引き込もうとする粘性を持った何か。自分が何に意固地になっているかを思い出すように懸命に指に引っかかった何かを、指に触れた極一部の何かを救い上げようともがく。

「ほらぁ、せんぱぁい。目を閉じてぇ、忘れましょう? 別に今は負けても良いじゃないですかぁ。せんぱいが負けても魔王様が寝ている間だけ私の従者になるだけですよぅ? 代わりに私は何でも言うことを聞いてあげまぁす。悪い条件じゃないでしょう?」

──魔王。そうだ、魔王だ。指先が何かに沈み込んでから少しずつだが思考が正常化していることに気づく。枯渇していたはずの魔力が体を巡り始めているのを実感し、同時に別の何かが思考の方向性を誘導しているのも感じた。しかし些末事だ。今は現状の打破が優先される。

「……せんぱぁい、まだ抵抗するんですかぁ。何が不満なんですかぁ?」

「俺は……、俺の認めた相手にしか従うつもりはない」

「まだ理性があるんですかぁ、呆れちゃいますねぇ。それなら私も認めてくださいよぉ」

「認めさせてみろ」

「…なんだか、魔力が回復していませんかぁ? ……違いますね、魔王様の魔力が強く──」

抜き身の刀身から滴る銀色の刃が背後の分身を切り裂く。一度目とは違い、分身は完全に両断された。女は最初から痛覚を遮断していたのか、痛みに反応する事もない。

「何で魔王様の魔力を扱えるんですかぁ?」

「長く体に滞留していたからな、馴染んだんだろう」

「そんなので扱えるものでは無いはずなんですけどねぇ」

「魔王の魔力には魔法に対する耐性があるようだな、意識もはっきりした」

「せっかく揺らいでたのにぃ。言ったじゃないですかぁ、私は攻撃魔法が苦手だってぇ」

「厄介だったが、これで拘束も……」

体は軽く、意識もはっきりしている。だが、目だけは女から離せない。

「嘗めないでくださいよぅ、せんぱぁい。そんな付け焼刃の他人の魔力で私に抗えると思わないでくださぁい」

「なるほど、過小評価していた。お前は戦闘で充分に使える」

「認める気になりましたかぁ?」

「勘違いするな。俺は強いだけの存在を認めるつもりはない」

「魔王様が自分より強いから認めたのではぁ? よくわかりませんねぇ」

「それがわからない以上、俺はお前を認めることはない」

「むぅ、頭にきましたよぅ。魔王様の魔力は魔王様が使うからこそ強いんであってぇ、せんぱいが使っても無駄なことをわからせてあげまぁす」

途端に軽くなった体が倦怠感を覚えた。急に抜けた力に剣を落としそうになるも、柄が指に引っかかり握りなおす。女の目が強く濃い紫に輝く。それと同時に亜麻色の髪が魔力を帯び始め、紫色に変色した。

「この状態は疲れるので本当は使いたくないんですがぁ」

どろりとした欲望のような重い声を出す。それは今までの声音と口調に変わりはない。だが確かに勇者に絡みつく。

「私の攻撃魔法は効きそうにありませんしぃ」

粘つく声は、魔王の魔力を纏っても勇者の生気を吸うように耳にこびりつき離れない。

「本気でいきまぁす、廃人にならないでくださいねぇ」

甘い毒は声を聴くだけで体を巡り、全身を弛緩させた。膝が体重を支えるだけで悲鳴を上げる。剣を持つ腕が、剣の重さで抜けそうな感覚に陥る。力の入らない全身を引きずり、どうにか剣を持ち直し構えるが思考が鈍く纏まらない。視界は女以外を霞ませて、女の存在だけを無理やり認識させた。

「どうですかぁ? まだ動けるのは流石ですが立ってるのがやっとですよねぇ」

「そうだな、正直言って立つのも辛い」

「うふ、素直ですねぇ。せんぱいの辛そうな表情、可愛いですよぉ」

「悪趣味だな」

「これだけ話せるなら廃人の心配は無さそうですねぇ。それじゃあ、このまま私だけを見て、私の声だけを聞いて、私だけを認識して……」

クラクラする頭で意固地になる理由を思い出す。俺は魔王を認めたからこそ主として使える事にした。では、何故主として認めたのか。仲間と共に戦い惨敗したからか。違う。俺たちを殺さなかったからか。違う。

「しばらくは一人で動けなくなりますねぇ。でも安心してくださぁい、私が助けてあげますからぁ。なのでぇ、そんな辛い顔なんてしないでくださぁい。抵抗しても辛いだけですよぅ。力を抜いてくださぁい」

あいつは、魔王は命の重さを知っている。伝承が嘘だと思えるほど魔王は下手な人間などよりまともな感性を持ち、自身に敵対する人間にすら寛容だった。何より、本来必要のない口約束を守るという凡そ魔王らしくない律儀さも持ち合わせていた。

「ほらぁ、だめになりましょう? 甘やかしてあげますよぅ」

俺はあの時、死を覚悟していた。俺の命と引き換えに仲間の命を求めた。にも関わらず、俺は生かされ仲間を助けてもらい見逃してもらった。俺はその礼を返す必要がある。

「もぅ、焦れったいですねぇ」

女は見下す様に勇者を見る。淀んだ紫の瞳が勇者を強く射抜くと、自重に負けて片膝をついた。

「……俺の主は魔王だけだ」

剣を納刀して腰をひねる。深く息を吐き、握った柄から魔王の重い魔力を流す。指先で触れる程度掬い上げただけの魔力で鞘からは銀色の水が溢れ出す。まだ足りない。一瞬で良い。女の絡みつく魔法を払拭できるだけの耐性が足りない。勇者は水瓶の底だと思っていた硬く重い、沈殿した魔王の魔力に手を押し込んだ。

「んふ、まだ反抗的ですねぇ」

片手を口元にあて目を細める。勝利を確信している女は口元を歪めた。

「もぅ消化試合ですよぅ。私はせんぱいの生気を吸ってぇ、倒れるのを待つだけでぇす。早く倒れた方がせんぱいの体力も残って楽ですよぅ? まぁ、動けなくなるまでは倒れても吸い続けますがぁ」

「……魔王はお前の様に俺を無理に従えようとしない」

「それは魔王様ならいつでも力づくで従えられる余裕でしょう?」

「違うな、お前は魔王の性格を知らない」

「そうですかぁ? それなりにお話して理解しているつもりですがぁ」

「そんな表面的な話ではない」

魔王の魔力に指の全てが沈み込む。掬い上げようとする指に抵抗する硬い魔力は、指に絡みつき勇者の意識を引き込もうと粘つく。

「わかりませんねぇ、それが意固地になる理由ですかぁ?」

「そうだ」

吸収される生気とは別に体を弛緩させる。不意に魔王の魔力が柔らかくなった。

「元より魔王に拾われた命だ。ならばこの命、魔王の為に使う事に抵抗はない」

魔王の魔力は糸を引きつつも、指から溢れる量を抵抗なく掬い上げた。



全てが鮮明になり、倦怠感が払拭された。絡みつくような女の魔力を押しのけるように、魔王の魔力が体を巡る。霞んだ景色は輪郭を取り戻し、女を正しく認識した。数度まばたきをするだけで、女の拘束が完全に解けたのを理解する。

「悪い冗談ですねぇ」

女をぞわりとした仄暗い魔力が肌を撫で、万全な状態で負荷を与えているにも関わらず拘束に至れない。

勇者は腰を捻り女を視界の端で捉える。後ろ足に体重をかけ、今では慣れ親しんだ魔力が全身を巡っている事を感じ取る。魔王の魔力は重く消費が激しいが、自身の魔力とは比べるべくもなく強大なものだと、実際に扱ったからこそ理解できた。この一瞬、この一刀で決着がつく。掬い上げた魔力を全て使い切り、刀身に水を纏わせて後ろ足で床を弾いた。

「そんな……」

シィラは拘束の意味がないと勇者にかけた魔法を解き、防壁に全魔力を込める。攻撃魔法は不得手だが、それ以外の魔法には自信もあった。事、誘惑と防壁は破られる事を想定していなかった。その一つ誘惑は破られた。だが防壁は、これだけは、私だけは侵させない。飛び込んでくる彼がコマ送りの様に写る。鞘から抜き出される銀色の水を纏う刀身が徐々に明らかになる。抜かれた刃は鞘よりも幅が広く、透き通るほど薄い。彼は魔王様の魔力を無理に使っている。これが最後、これを凌げば今度こそ彼は抵抗できない。全魔力を込めた防壁が魔力に染められ淡い紫に変わっていく。視認できるようになる不備はあるが、防壁の密度は上がる。魔法だろうと物理だろうと全ての衝撃を分散させ受けきって終わり。眼前の彼は銀色の刃全てを抜き出し、軌道は首へ繋がっている。揺らぐ必要はない、防壁が破られるわけがない。私は十全の魔力を持って、完璧な防壁で彼の攻撃を受け止める。それが決められた結果、そのはずなのに……彼の迷いのない瞳は自身の防壁を超えてくる。銀色の刃が防壁に触れた。触れた衝撃が防壁を伝播して揺らいだ、様に見えた。しかし、刃は止まらない。衝撃を伝播する揺らぎも小さい。極限まで薄く研ぎ澄まされた銀の刃は、魔法を構築する粒子の隙間を切り裂いていく。それを理解した時、シィラは初めて自身の死を感じ取ることが出来た。防壁の抵抗で軌跡が揺らぐこともない。風を切るように銀色の刃は紫に染まった防壁を切り抜いた。シィラの癖の強い髪が数本散る。見えないほど薄くなった刃が首筋に触れたところで止まり、銀色の刃には赤い線が流れていた。

「まだやるか」

彼ももう戦えないのは理解できていた。だが、それ以上に自身の心が折れたのをシィラは理解していた。誘惑が破られ、防壁を裂かれ、絶対的な空間が侵された。死を感じたにもかかわらず自分の意識が途切れない。それに安堵し、同時に自分は生きている事を実感したことで全身の力が抜け、その場に崩れ落ちた。

「……ふぇ」

現状を正しく理解するよりも早く、自分の生に安堵して息が漏れる。力なく見上げた先の彼はいつもと変わらない表情で、下ろした刃先から紅い雫を垂らしていた。不意に視界が滲む。銀色の刀身は刃先の血を洗い流すように床に零れ落ちると鈍色になり、彼は納刀した。

「……降参、しますぅ」

自分が死に直面した事実が、死ななかった安堵感を浮き彫りにした。呆けた頭は思考せず、自然と涙が溢れ出る。震える唇が、ようやく彼の問いかけを理解して拙い言葉で返事を返した。

「お前が使えることはわかった。少しだけお前を認めよう、シィラ」

勇者は急激な頭痛に顔をしかめ、額に手を当てる。ふらつく足を引きずり、シィラに背を向けると自室へと向かった。残されたシィラは思考も気力も放棄して、ただただ滲む視界の中で勇者の背中に視線を投げていた。



勇者は廊下の壁に体を預けながら、足を引きずり歩く。頭痛は恐らく、無理やり魔王の魔力を行使した反動だろう。いくら自身の身体に滞留して馴染んだとはいえ自分の魔力ではない。使い勝手もわからず、結果力づくで行使することになった。頭が熱い、視界が白む。部屋までは遠くないのに、果てしない。……足が進まない。無意識に膝をついていた。息を吸っているのか吐いているのかもわからない。両手を床につけ体を支えようとしたが、力が入らず体の重さに潰される。冷たく硬い石床感触を最後に勇者の意識は途切れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る