著者コラム―「神、人に創造されたモノ」

 我々信徒は、常日頃から、悪意や嘲弄に満ちた自称一般人や、知恵者と言った人々に試されていることを自覚すべきである。

 それというのは、そのような人々を回心させるべく、メシアに倣って清廉潔白純真無垢聖人君子に生きよ、という意味ではない。まあ、そのように生きよとバチカンから言われても、私は後述する私の信仰告白によって従う気は毛頭無いのだが。

 私が言いたいのは、この世には多種多様の神がいて、どの神を選ぶのか、どの教えを選ぶのか、少なくとも私達が選んだ神は、それらを人間に完全に任せている寛大な御心を持っていらっしゃるということだ。即ち、聖書の中や、厳しく言うなら低俗な教会が言うように、彼等は我々の敵ではなく、我々とは違う正義、違う愛を為せ、と、主に命ぜられた盟友である。少なくとも私の神は、そのように仰っている。然るに我々は、神を恋い慕うのと同時に、我が神の持つ害毒について勤勉であるべきだ。往々にして彼等は、私達の信仰を侮辱し、愚弄し、自分達の神を押しつけてくるが、それは彼等の神が劣悪なのではなく、いつかどこかの場所で、私達の神が、彼等にそのように働きかけたからに他ならない。神を語る上で、自分の信仰や自分の在り方を騙る事は出来ないからだ。

 彼等の「無神論」の詳細についてはここでは触れないが、自称科学的リアリストがよく言うのは、このような言葉である。

「神が人を創ったのではない。人間の脳が神を創ったのだ。」と。

 愚昧なる我が同胞が奇声を挙げているのは横においておいて、私達はこのような意見に真摯に耳を傾け、この言葉を我々への敵意ではなく、神からの問いかけと考え、答えるべきだ。即ち目の前に居る自称科学的リアリストは、神が私達にコミュニケーションをとるための仲介者なのである。

 私自身、無神論にかぶれていた頃は、人の持つ無限の可能性の中の一つとして、「神の創造」があると考えていた。その時の経験もあって、私は「神は妄想」という永遠の命題について、我々がつまらない水掛け論に発展しないように、答えを用意しておくべきだと考える。

 二千年前、史実的側面から見て、ヨシュアという男が十字架刑に処せられた事は、ローマの記述に残っているらしい。その後、聖痕や奇跡など、精査しても尚、科学的に説明の付かないものは現代にも残っている。その中で、聖痕の写真というのは、実に恐ろしいものだ。私は多少の流血は気にならないのだが、それにしても大量の血が、両手や両足の甲から流れ出ているのである。モノクロが多いので、尚のこと迫力がある。これらは長らく、イエスの十字架の杭の傷だと思われていた。

 …の、だが、最近の研究で、イエスの釘は関節、つまり掌では無く手首に、足の甲ではなく足首に打たれていた事が分かった。聖痕の位置は間違っていたのである。ということは、神の奇跡をかたりたい狂信者がでっちあげたとしか思えない。………というのが、彼等の弁である。

 私は聖痕ではなくトランスで神(たぶん)と一致するので、聖痕の是非はここでは問わないが、それだとしても、彼等に対して回答は出来るつもりだ。現実と妄想を区別するのは、コギト・エルゴ・スムの境地に至るまで、非常に苦しい道程だ。そのような苦しみの果てにしか、神はいらっしゃらないのか。答えは否である。故に私はこう答える。

「人間が神に創られたか否かは問題ではない。人が神を必要としたから、神は応えたのだ。」


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天国の鍵穴―神が愛した男外伝― PAULA0125 @paula0125

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