第四節 長老の寝床に置かれていた手紙

 長老さまがお亡くなりになった後、ご遺体はエフェソの教会の元に送られた。エフェソの教会には、長老さまの叔母に当たる婦人が葬られている。宣教と殉教によって、多くの家族がばらばらになって、各地で死んだ。近場で死んだ二人を同じ場所に葬ってあげたい、と、婦人たちが言ったのだ。私も死体の世話などしたことがないので、それに甘えることにした。

 長く長老さまが床にしていたところを片付けていると、私は床を置いていた寝台に、何か挟まっているのを見つけた。いや、挟まっているというより、中途半端に、律儀に半分ほど埋まって、半分ほど出ている。しかも、何枚も綺麗に端を揃えられて。見つけて欲しかったのだろうか。この寝台には長老さましか横にならなかったから、長老さまが隠したのだろうか。或いは、長老さまにだけ見せたかった告白や祈りが書かれているのだろうか。いずれにしろ、私がこれを拾い上げなければ、この手紙も役目を果たさないだろうことから、何とか破かずに取り出した。半分ほどが重い寝台の下敷きになっていたので、境目が酷く脆くなっている。汗か涙か、所々滲んで、読めない文字もあるようだが、大体のことは読めそうだった。

 そこに書かれていたのはとても衝撃的な内容だった。私はしかし、その内容を、ごく秘密裏に、誰かに打ち明けねば、この重たい罪のともがらを愛せそうにない。なるべく本文を忠実に書き写し、私はある条件に基づいて選んだ教会の司教に、こっそりと送った。


 ―――親愛なる我が兄弟へ。

 私、恩啓おんけいの罪の告白を聞いて下さい。私は生涯に渡り、この罪を誰にも聞いて貰うことは出来ませんでした。もし聞いてもらえたなら、このように死が近づく今、筆を執ろうとは思わなかったでしょう。況して今の私には、老いさらばえて悪くなった目と指先の代行をしてくれる者がいるのですから。

 私は幼いとき、ある花に出会いました。その花は美しい黒つ羽の髪を一つに縛り、育ちすぎた白魚のように鍛えられた指先で鎚を振るい、そして恐らく、弟子達の誰よりも、メシアさまを愛しておられました。あの方は、神を愛した男でした。

 いえ、そもそも彼は、あの花は、本当に男と呼ぶべきだったのでしょうか。私は彼の本質を考えたとき、限りなくあれは、花だったと思うのです。あの方が私より先に殉教して、幾十年。今でも私は、あれは花だったと思います。

 男でいるには足りず、女でいるには余分で、動物としては賢く、道具というには意志がある。故に私は、あの人は花だったと思うのです。私はその花を愛していました。神への愛とはまた異なった感情で、愛していたのです。出来ることなら、私こそ世話をされる身分になるのではなく、私をこそあの花を終生支えたかったのです。私はあの花を愛していたのですから。

 私はこの生涯で、二度、あの花を体液で汚しました。一度目は、唇を、二度目は別の唇を。私以外の何人もの男達が、あの花を使って悦んでおりましたが、私をそのような無知蒙昧な輩と蔑まれているとしりつつも尚、私は、私だけが、あの花を本心から愛でていたと思います。しかし、神は私と花を、一緒に伝道に遣わすことすらしてくれず、私は結局、イスラエルで別れてから一度もあの花を見ることは適いませんでした。

 その代わり、神は私に、あの花を思い起こす力を下さいました。今でも目を閉じれば、あの艶やかな髪に秘められた、すべすべとした、凡そ人間とは思えない体毛の薄い身体を思い出すことが出来ます。思い起こされた花は、私の望む言葉と望む行いを持って、私の孤独な心を癒してくれましたが、いつでもその姿が霧散した後、私だけがあの花を思い起こしていることを嘲笑うので、私はいつも空しさと戦わなければなりませんでした。毎度毎度そのように後悔し、寂しくなると知っていても、私は思い起こさずにはいられませんでした。私は、神が愛された人を汚しました。

 神は私に、多くの幻を見せ、私にそれを語り、後世まで残すようにと仰いました。私はいつかの日に向けて、滅びに一歩ずつ歩いて行くこの世界のために沢山の書を書き記しましたが、同時にそれらを読んだ人々の多くが、私の比喩に気付かず、落ちぶれた十二弟子と言われているのを、私は知っています。それは私の妄想の故ではなく、実際に聞き伝えて知ったことなのです。そのような醜聞の中、私に付き従う多くの者達は、私の幻を神の声だと信じてくれ、私を支えてくれました。私の肉体はいつも喜んでいられました。それは豊穣神殿で試された時も、皇帝に試された時も、パトモス島に流された時も、そうでした。いつも誰かが、死に近づきゆく私の身体を支えてくれました。

 しかし終ぞ、私の心を穏やかにさせてくれるあの花だけは、私の元へは帰らず。文字ですら私を訪ねてはくれず、ただ一言、あの花が無残に引き裂かれて死んだ事だけが伝わってきました。その時の私の荒れ狂うばかりの悲しみを、封じ込めて振るまわなければならない苦しみを、私の弟子達に話したことはありません。そんな事をすれば、あの花の本質も振る舞いも知らない者どもに、あの花への下種の物思いを抱かせてしまうと考えたからです。私にはそんな事は耐えられませんでした。私は、あの花のことをずっと胸に秘めていなければなりませんでした。それは、神からの幻を記録し続けなければならない私には、とても苦しいことでした。何故なら、自分の考えを常に私は疑っていたからです。

 これは私の都合の良い妄想ではないか、と、疑っていたからです。

 多くの幻は、私にとってはとても恐ろしい風景でした。しかし同時に、それらの困難の時に、必ず人々が助け合うだろうということも理解していました。

 それなのに、今を生きる私を助けてくれるものは、今を悩む私の心に寄り添ってくれる者は、誰も居ませんでした。

 私は花の面影を求めました。そして出会ったのです。あの花の名付け親、あの花を慈しみ育てた、お方に。即ちは、聖母さまです。

 聖母さまは、私の絶え間ない寂しさや苦しみの呻きを聞いて、いつでも私の傍に来てくれました。私は兄と、花と、メシアさまと、とても私の心の支えになる肉体を失ってしまい、いつでも寂しくて仕方がなかった。そんな弱い、ひとりぽっちの男としての私を包み込んでくれたのが、彼女でした。私は打ち解けて行くにしたがって、彼女には甘えても良いし、彼女も頼られることを望んでいると思うようになりました。私はそこからして間違っていたのです。彼女もまた、夫を失い、三人の息子を失い、傷つき弱り果てた、未亡人だったのです。私は彼女と過ごしている間、終ぞその事実に思い至りませんでした。私は、あの花に愛されるように、彼女に愛されようとしました。それは偏に、私が弱い弟子だったからです。私は自分の元に何十人ものメシアさまの孫弟子が集っているのが恐ろしくて堪らなかった。誰かとその苦しみや重圧を分かち合いたかった。その時、男を選んでは、集会や説教の主導権を盗まれるかも知れない。司牧が出来ない女である必要がありました。しかし、私の傍にいた塔婆女は、とてもじゃありませんが、男を立てるような女ではありません。そのような健全な育ち方をしておりません。そういう訳で、私が聖母さまに愛情を求めたのは、仕方のない事であり、必然だったのです。

 私は、全くもって、あの花よりは美しくない彼女に、あの魂の片鱗を見るようになりました。

 そうして私は、聖母さまの中に在る花を愛するようになったのです。

 そこから先は下り坂でした。あの花にはなかったもの、余分だったもの、すべてを整えた身体をした聖母さまが、私の求めに応じて、眠る前に一緒に祈ってくれる。時折伝道を休んで、メシアさまの昔話に花を咲かせる。私は花としたかったことを、全て叶えました。聖母さまの中に住む花と共に、自分の行いたかったこと、頼りたかったことを叶えたのです。

 私は十二弟子の中では一番若造でした。ですので、ええ、精力的に動けることも、若い妄想も、ずっとありました。それらを満たしきる前に、私は弟子になっていたのです。当初は何ともなかった欲が、私の中に沸々と沸いてきて、いつの間にかそれは杯いっぱいにまで膨れあがり、いつ、一滴を耐えきれずに溢れてしまうか分かりませんでした。私は聖母さまの中の花に幾度となく語りかけ、花はいつも答えてくれました。

 けれども、あるとき、私は見てしまったのでした。

 それは皆が寝静まった夜でした。私はふと目を覚ましました。どこからか、女の泣き声が聞こえたからです。集団で泣いているというより、一人だけが泣いているような、そんな声でした。私は気になって起き上がり、試しに女達の部屋を覗いてみましたが、そこでは誰もが眠っていました。家の中の全ての部屋を探すと、物置から泣き声がすることが分かりました。私は声をかけようとして、はたと気付きました。

 その泣き声は、聖母さまのものでした。私は静かに隙間から覗き見ました。

 死んだ夫とおぼしき名前と、三人の息子の名前を繰り返し呼びながら、何に縋るともなく、床にぺたんと座り込んで、泣いていました。私はその姿を見て、いてもたっても居られず、扉を開き、後ろから彼女を抱きしめました。彼女は私に涙を見せたくなかったのか、涙も泣き声もしまい込みました。私は、「泣きたいなら泣いていいんですよ、抱きしめていてさしあげますから。」と言いました。それは確実に、聖母さまではなく、彼女の中の花に言ったのです。私はその時、目の前の、私の腕の中で硬直している人が、別人である事に気付いていませんでした。そして後ろを向かせ、私は花に口付けて、涙を舐めとり、頭を撫でて、大丈夫と繰り返しました。次第に苦しそうに呼吸を速め、震えている花の顔を愛でているうちに、私は花が本当に手の中にいる夢を見ているのだと思いました。私は花の名前を呼びながら、花が女の身体を得た事を喜びながら、服を崩して、肌に触れました。静かに静かに、誰にもこの奇跡の逢瀬を邪魔されないように。経年によって肌は張りがなくなっていましたが、その分ふわふわの感触になっていました。花はすぐに枯れます。そのような命でも、神は慈しんで下さいます。けれども目の前の花は、枯れてなどいませんでした。昔のままの姿で、柔らかく変化した姿で、私に愛されてくれました。私は先ほど、生涯で二度、花と体液を伴った交わりをしたことを告白しましたが、この時のことは数えていません。何故ならこの時、花の身体は女の身体で、花の身体ではなかったからです。私はその時は、ついに花が、私の為に女として足りなかった部分を補って、私の目の前に戻ってきてくれたのだと信じて疑いませんでした。それは、神の幻を疑わないことよりも、ずっと簡単に、疑いませんでした。私は花を愛していたから、花を取り違える事は無いと思っていたからです。

 翌朝になって、女達が騒いでいました。朝食の時間になっても、女達は一部を除いて、部屋に籠もってしまいました。食事の仕度をしてくれたのは、男弟子の何人かだけでした。男に家事雑用をやらせるなんてけしからん、と、多くの弟子達は憤っていましたが、私はそれよりも、女達が何をそんなに怒っているのか、不思議でなりませんでした。しかし女達にいつまでも構っていられず、私はまた部屋で、神の幻を書き留める作業と、それから各地の教会から届いた手紙に返信する作業をしました。

 翌日も、その翌日も、そのまた翌日も、女達は家事をやらず、私はそれについて何も言及しませんでした。彼女達の無言の抗議から、数えて六日目の夜、安息日が始まったばかりの時、突然、塔婆目がやってきて、私に、「明日、聖母さまと一緒に、ここを発つ。男弟子の誰にもついてきてほしくない。」と言いました。男弟子達は酷く怒りましたが、私は許可しました。その時はまだパトモス島への流刑の憂き目に遭っておらず、専らローマの豊穣女神の神殿での、ローマ神官達との弁舌戦中で、女達は神官達が怖いのだろうと思ったからです。私はその求めを許可しましたが、何故か私は女達に感謝されず、寧ろ軽蔑の眼差しや、憤怒の眼差しで睨み付けられました。私はなんて恩知らずな連中なのかと思っていましたが、それを口にして喧嘩をするほど、家に帰ってきたとき、体力が残っていませんでした。言葉の通り、翌日、塔婆女と聖母さまと、何十人もの、というより、殆どの女弟子がここを去って行きました。残ったのは、旅に耐えられないような老婆ばかりでした。それでも彼女達が残ってくれたから、私達は豊穣神殿での戦いに専念することが出来ました。

 暫くして、私の元に、一通の手紙が届きました。それは聖母さまからでした。その手紙によると、彼女は海難の憂き目に遭い、漂着した土地で、女達を立派なメシアさまの弟子にするために共同生活を送っていることや、塔婆女は更に旅を続け、エフェソの方に住んでいるらしい、ということがかかれていました。ところが、手紙を良く見てみると、一枚、綺麗に別の手紙に張り付いていました。私の他には誰も気付かなかったようです。それくらい薄く、丁寧に、貼り付けられていました。私は何か秘密の手紙だろうと察して、部屋に戻り、灯火で手元を照らしながら、ゆっくりとその糊付けを剥がしました。


 手紙には、たった一言だけ、書いてありました。それは明らかに、今までの報告を書いている人物とは、違う人物が書いていました。


 ―――私は主に娶られ、夫に支えられ、そして恩啓おんけいさんの妻にさせられました。


 初めは何のことか分かりませんでした。聖母さまが三度結婚したという話は聞いていませんし、何より私は、ついぞ妻が生まれなかったので、独身です。聖母さまは老いてはいましたが、教団の中では間違いなく一番の地位にいる女でした。そんな女と、この地域の教団の事実上の長である私が結婚しても、確かに不思議なことではありません。しかし、理由がありません。数日間、私はこの不思議な封じられた手紙を見つめて、考えながら眠りに就きました。

 暫くして、私は気付きました。

―――私は主に娶られ、夫に支えられ、そして恩啓おんけいさんの妻にさせられました。


 私の生涯で一番の過ちは、花を愛したことでも、メシアさまの復活の時のことでも、皇帝に逆らい多くの仲間を失った時でもありません。花を聖母さまと取り違えた、あの時のことです。

 このような罪業、一体誰に話せましょうか。どうかこの手紙を読んだ我が兄弟、貴方方の兄弟子を呪って下さい。哀れな聖母さまの為にお祈り下さい。


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