第三節 ローマの婦人からエフェソの婦人への手紙

ローマの婦人からエフェソの婦人への手紙

 ローマから、エフェソで聖母さまをお慕いし、お世話申し上げる全ての姉妹へ。

 親愛なる皆さん、およそ悍ましい事件が起きていました。私達の聖母、神の母たる海女うなめさまが、天に召されて行かれたのを、ご本人から聞きました。肉体を持って召し上げられた海女うなめさまが、ローマでメシアひこばえさまの為に働く私達のことを案じ、文字通り飛んで来てくださったのです。聖母さまは、最後まで、私達女弟子達の行く末を案じておられ、教会の揉め事にならないように、よく男に仕えるように、と仰っていました。それを私どもは、夫を立てる良い教えだと思っていたのです。ですが、それはそうではなかったのです。

それは海女うなめさまが葛藤なさり、お苦しみになり、息子であり、神であるひこばえさまの母として、ひこばえさまの面子を潰さないために、ご自分を殺した、その為の御言葉だったのです。


 はっきりと申し上げます。婦人たちは、今すぐエフェソの共同体から逃げなさい。


 そこには獣がいます。聖母さまを喰らった獣がいます。悍ましいことに、その獣は自分が狼であると知らず、羊だと思って、今ものうのうと神の言葉を宣べ伝えています。罪を犯し、その罪の赦しを乞うていない舌の持ち主が、貴女方のすぐ傍に居ます。その人のことを、貴女方は慕って、聖母さまを引き取ってお世話した方だから、と、お世話をしているかも知れません。

 その人は獣です。今すぐ離れなさい。

 聖母さまは、私に仰いました。メシアひこばえさまを身ごもった時から、この世全ての苦しみに寄り添うための試練を与えられていたと。それを理解し、覚悟し、その試練に遭いながら後生を送り、尚も祈りの内に、召し上げられました。

 聖母さまの苦しみは、全部で七つあったといいます。

 一つは、謂れのない中傷を受ける苦しみ。メシアひこばえさまを身ごもったことで、聖母さまは、姦通の容疑をかけられ、漱雪しょうせつさまに殺されるところでした。しかし漱雪しょうせつさまに神の啓示が下り、お二方は夫婦として結ばれ、漱雪しょうせつさまは聖母さまを助けられました。

 一つは、子ども達の苦しみを見る苦しみ。メシアひこばえさまの受難は勿論、漱雪しょうせつさま所縁の子ども達を引き取り、その子ども達が産まれながらに背負わされた罪の故に苦しむのを、聖母さまは見て居ることしか出来ませんでした。聖母さまは神ではなかったので、子ども達をどんなに愛していても、彼等の重荷を軽くしてさしあげることは出来なかったからです。

 一つは、子どもを痛めつけられる苦しみ。親としてこんなに辛いことはない、と、聖母さまは繰り返し仰いました。どんな姿になっても愛せる、だからこそ、苦しむ姿を見せ続けられるのが何より辛い、と仰っていました。死ぬまで苦しみ続けるその時間が長ければ長いほど、辛いのだと仰いました。それは言外に、メシアひこばえさま以外の子ども達の、波瀾万丈な生き方にもお苦しみになられたのだ、ということなのでしょう。

 一つは、子どもに先だたれる苦しみ。お腹を痛めた子どもであるメシアひこばえさまは勿論のこと、引き取って愛情深く育てた子ども達も、何人もお亡くしになりました。その悲しみは、母になることを捨てて、天に昇られたメシアひこばえさまの花嫁として生きる私達には、想像を絶する苦しみでありましょう。

 一つは、寡になる苦しみ。聖母さまは、姦通の罪を着せられた自分を娶ってくれた漱雪しょうせつさまを、それはそれはお慕いしておりました。しかし、多くの寡がそうであるように、漱雪しょうせつさまは先だたれました。ですが、聖母さまは、尊敬する漱雪しょうせつさまが、ただの老衰でお亡くなりになったのではなく、引き取った子ども達の穢れの故に、神の裁きを受けたと言われて亡くしました。そして遂に、メシアひこばえさまは、『海女うなめの息子』としか呼ばれず、『漱雪しょうせつの息子』とは呼ばれませんでした。村の全ての人が、聖母さまが漱雪しょうせつさまの子どもを産んでいないことを知っていたからです。

 一つは、神に仕え続ける苦しみ。聖母さまは、ただの一時も、神を疑ってはなりませんでした。神の母と呼ばれた人が、神を疑うなど、そんな事が露見すれば、メシアひこばえさまの努力も、漱雪しょうせつさまの情愛も、自らの忍耐をも台無しにしてしまいます。私達は、苦しみや困難に直面したとき、神を呪うように祈ることが出来ます。ですが聖母さまは、いつでも自分を殺し、穏やかに、勤めて穏やかに、人々の為に、神に仕え続けなければなりませんでした。

 最後に、聖母さまは、罪を赦す苦しみを負われました。どんな非条理も不道も、いつでも優しく微笑んで抱きしめて、罪に怯えることすらしないような極悪人のために、祈りました。どんなに侮辱されても、聖母さまは微笑んでいなければなりませんでした。そして、まるで女神であるかのように、静かに静かに微笑んで、抱きしめなければならなかったのです。つまり、聖母さまは、最早神の母であり、それ以外の何者にもなれなかったのです。

 私達はそれを、エフェソにいるときからずっと聞かされていました。

 けれども、そちらからの訃報に書いていなかったと言うことは、きっと聖母さまは、七つ目の苦しみを背負いながら、天に昇られたのでしょう。本来なら私達も、その遺志に従うべきなのでしょう。しかし私は、この私は、そんなことは出来ませんでした。

 聖母さまの御霊みたまは仰いました。本当は、預言されていた八つ目の苦しみがあったのだと。

 それは、処女を強奪される苦しみです。

 聖母さまは、いつか自分の望みでも、家族の望みですらもなく、暴力によって、自分が聖なる女でいられなくなり、メシアひこばえさまの出生すら疑われることになることを知っていました。

 私が何故それを仰ってくれなかったのか、何故その苦しみから守らせてくれなかったのか、と、泣きながら追いすがって叫びますと、聖母さまは仰いました。

 聖母さまは、「全ての苦しみ」に寄り添う、とりなしの聖人になられるのだと。

 その為に全ての苦しみを経験し、それを乗り越えなければならなかったのだと。そうして、年を経て、最早その苦しみに見合うだけの若さも美しさもなくなってから、唐突にその秘密を奪われたのだと、そう仰いました。そしてその苦しみを乗り越える為に、その後何十年にも渡って、その苦しみを秘め続け、神に何故と問うこともなく、私達の起こすいざこざの度に神に祈る生活を続けたのです。

 それでも、死の間際、この苦しみを誰かに知って貰いたい、と、思ったのだと仰いました。そしてこうも仰いました。

 ―――神の身体である教会でさえ、このようなことが起こる。

 ―――神の輩だと思って、油断してはいけない。私のようになる。

 ああ、なんと悍ましい告白でしょうか。なんと浅ましい告白でしょうか。親愛なる姉妹の皆さん、聖母さまがいかにお苦しみになられたのか、この二つの言葉だけで十分、伝わるでしょう。艱難辛苦の末に辿り着いた教会でさえ、聖母さまを裏切ったのです。聖母さまに、この世の全ての苦しみに寄り添う聖なる人になって貰うために、と、私達の神は、聖母さまに苦しみを突きつけ、最後の最後まで、苦しみ続けるように命じたのです。何故逃げなかったのか、貴方を傷付け、貴方を虐げる者から逃げなかったのか、と、私は問いました。すると聖母さまは、安らかに微笑まれ、

「私は主の婢です。御言葉通りに従います。」

 と、仰ったのです。私は信じられませんでした。いいえ、信じたくありませんでした。

 神とは、そんなにも私達女が憎いのかと。人祖たる男を誑かした女が憎いのかと。御自らのご計画に協力した女にさえ、このような仕打ちをするのなら、一体私達はどんな仕打ちを受けるのか、私は恐ろしくて恐ろしくてたまりませんでした。怒りと絶望の、相反する湯と水のようになった私を抱きしめ、聖母さまは仰いました。


 ―――だから、この先どんなに信じられない苦しみがあったとしても、男であるひこばえさまには打ち明けられ無いような苦しみでも、女のうちで最も祝福された私が、貴方の苦しみに寄り添っているから、安心しなさい。


 なんということでしょうか。なんということでしょうか。

 神が聖母さまに、試練を課したのではありません。私達の心の弱さの数だけ、聖母さまはお苦しみになり、自らもまた、奴隷の一人として生きたのです。メシアひこばえさまが人類を罪から買い戻すための生贄だとしたら、聖母さまは、私達が神を信じられなくなる弱さの折に、メシアひこばえさまに赦しと憐れみを嘆願しに行くための奴隷です。聖母さまは、メシアひこばえさまを子宮に宿したときから、既に人間らしい生活や、女の幸せ、義務と言ったことから解放されていました。そして同時に、奪われていました。

 今後私達のうちの誰かが、男に強姦された時、その苦しみを理解する、ただその為だけに、聖なる人の母は、下劣な欲望に傷付けられることを予め教えられていたのです。こんな非道いことがありましょうか。しかしそれですら、神のご計画なのだと、聖母さまは仰いました。聖母さまは、聖母と呼ばれるに相応しい、いえ、それ以上に激しい苦しみの人生をおくったのです。

 その故に、私達は聖母さまを尊敬します。崇敬します。

 けれども昨今、聖母さまを軽視する輩が現れています。メシアひこばえさまを絶対視するあまり、その周りで如何なる犠牲が払われたのか、考えもしない輩が、福音書家の周りにいます。聖母ではなく、『母』であると、それを強調し、あろうことか、お引き取りになった子ども達は、漱雪しょうせつさまとの子どもだった、と言うのです。それは、漱雪しょうせつさまが、ついぞ神への従順の証として、聖母さまを処女の妻として迎え、慈しまれ、守られたということへの大いなる侮辱です。私達はそれについて怒らなければなりません。けれども、男だけで構成され始めた今の教会に、私達の言葉を聞いてくれる人が、どこにいるでしょうか。

 いいえ、いません。きっといないでしょう。聞いてくれる人はいないでしょう。ならば、聞かせる人をつくれば良いのです。

 健康な姉妹達よ、私達を娶ってくれる方を探しなさい。そして、その人との間に子どもを産みなさい。そしてその子どもを、メシアひこばえさまが神であるということを知っている人間として育てるのです。そして、どうしてその方の母が、神の母と呼ばれたその方が、聖母と呼ばれるに相応しいのか、それを教えるのです。これは私達女にしか出来ないことです。

 聖母さまは、私がこのような決断を下すことを理解しておられたのでしょう。だから、きっと私の前に現れてくださったのです。

 親愛なる姉妹の皆さん、今こそ、創世記の言葉を思い出すべきです。―――『産めよ、増えよ、地に満ちよ』と。この世界を、メシアひこばえさまの愛と、聖母さまの慈しみとで満たすために、今こそ私達は、メシアひこばえさまの代理人になる男を見つけ、その方を通じて、メシアひこばえさまの花嫁となり、その御子を産むのです。

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