第二節 届かなかった踵《きびす》から長老への手紙

届かなかったきびすから長老への手紙

 メシアひこばえの選ばれた、教会の岩たる謦咳けいがいさまへ、エルサレム総主教、メシアひこばえ兄踵きびすから、お手紙申し上げます。

 メシアひこばえは、貴方に天国の鍵を授けられました。貴方が許した者が、天国へ至れるための鍵です。その鍵を使って、とまでは申しません。その鍵を持つというそのご威光で、どうぞ、私の兄瞻仰せんぎょうをお救いください。

 兄瞻仰せんぎょうは、私達兄弟の中で、唯一、血の繋がらない家族です。イスラエル人なのは確かなのですが、誰の家系に産まれたのかは分かりません。といいますのは、薬光やっこうが、我が養母の海女うなめから聞き出したとおり、メシアひこばえがお生まれになった、まさにあの時、国王によって家族を殺され、そのままエジプトへ売られてしまったからです。僅か三歳の時のことでした。幸いにも兄は、エジプトで、メシアひこばえの養父であり、私達の血の繋がった遠縁の漱雪しょうせつに保護され、無事故郷に帰る事が出来ました。

 しかし、兄はエジプトで生きる為に、凡そ口にするのも哀れな所業にも、手を染めていました。幼い男の子が、どうして大きな煉瓦を運んだり、数を数えたりすることが出来ましょう、まだ三歳なのです。三歳の子どもが出来ることは、愛されることだけなのです。そして愛とは、メシアひこばえが、メシアとして公の生活に入るまで、私達人間には凡そ与り知らぬところでございました。私達の祖先である大王、賢王、そして父祖であったとしても、メシアひこばえによってでしか、正しい愛を知らなかったのです。メシアひこばえは確かに、父祖よりも前に在るお方ですが、我々イスラエル人は愛について、めくらも同然だったので、ついぞメシアひこばえを十字架に貼り付け、唾棄し、殺して、そして御身が復活するまで、わかっていなかったのです。それは、私達の祖先が犯した罪の故ではなく、私達自身の、他ならぬ私達自身の罪のためなのです。罪人は、人祖ではなく、私達なのです。この頃の各共同体では、それを何故か皆、忘れてしまっています。私達の故に、メシアひこばえは、神の御座の捨て、人として遜られました。私達の故に、十字架にかけられて死に、葬られ、死の囚人であった我々を、死から神の家族として、買い戻してくださったのです。その恐るべき愛と悍ましき罪の沼を直視するのを、共同体は忘れています。私達が、悪だったのです。私達が、罪だったのです。なれどもそれすら愛してくださったのが、メシアひこばえなのです。

 そのメシアひこばえが、もし疎んでいたのなら、きっとその者は全ての命、石からすらも疎まれ、呪われるでしょう。存在することそのものが、出来ないでしょう。しかし、私の兄は、瞻仰せんぎょうは、確かに愛されていました。全ての十二弟子が、今は亡き者も含め、多くの弟子たちも証人です。

 そして、私は忘れていません。謦咳けいがいさまを含め、また私をも含めて、私達は姦通の罪を犯しました。手ではなく目で、肉ではなく手で、私達はそういう意味でも、兄弟となっていました。私はそれを知っています。しかし私は、それを告発することは出来ませんでした。私自身が罪を犯していたからです。

 瞻仰せんぎょうは遠い国で、身体を腐らせて死にました。何故に死んだのか、何故に腐ったのか、そしてどこが腐ったのか、私は妻若枝から聞いています。

 あまりにも非道い、あまりにも惨い。謦咳けいがいさま、貴方が反逆者サタンでないとしたら、貴方は悪魔です!

 何故あの罪を、瞻仰せんぎょうだけに押しつけたのですか。

 何故あの罪を、瞻仰せんぎょうだけに償わせたのですか。

 何故瞻仰せんぎょうの、これからの歩みに、祝福を祈ってくださらなかったのですか!

 使えるときだけ使って、それも本来金銭を渡さなければならないところを、それを惜しんでいたのに、その罪を私達は無言の裡に共有していたのに、メシアひこばえが追及しないのならば、罪ではないと、本当に思ったのですか。いえ、今でも思っているのですか。

 瞻仰せんぎょうの名誉の為に、大切な家族が、兄が、辱められていることを黙っている苦しみは、私とてメシアひこばえと同じです。私から見ても、瞻仰せんぎょうは兄だからです。血と家こそ違えど、私達は家族でした。今もそうです。今私達は、メシアひこばえを筆頭に、神の家族です。家族の苦しみを我がことのように受け止める、それは母が子にするように、父もまた、子らにするのです、ならば子らが、己が兄弟にそのようにしないのは、神の道に叛しているでしょう。

 謦咳けいがいさま、貴方は天国の鍵を、メシアひこばえからお受け取りになりました。貴方が赦す者は、だれでも赦される。即ち、貴方が祝福した者は、神の幸福のうちに生きることが出来たはずです。

 あの生涯は、祝福と幸福ではありません! あの生涯は、呪いと暴力に満ちています。私だけの祈りではダメでした。メシアひこばえが存命中の時ですら、私の祈りは届かなかった! 私が、メシアひこばえを、ただの頭の良い弟だと誤解していたからです。その罪の故に、私の祈りは、神に届かなかった。

 でも貴方は違います。貴方は違ったはずです! 貴方は神に、天国へ至る道を与えられた方。貴方は瞻仰せんぎょうの罪を知っていた方。貴方は瞻仰せんぎょうの虐待を知っていた方。貴方が祈らず、願わず、誰が天国への道を整えられましょうか、貴方が持っている鍵なのに。

 謦咳けいがいさま、私は貴方を尊敬しております。どの弟子よりも愚かで、どの弟子よりもメシアひこばえに目をかけられ、どの弟子よりも神に愛された貴方を、慕わない弟子などいない。

 けれども謦咳けいがいさま、私は貴方を軽蔑します。貴方は瞻仰せんぎょうを救わなかった。瞻仰せんぎょうの罪の赦しを祈らなかった。私達の罪を洗い流すことは祈ったのに、自分達の罪を洗い流すことは祈ったのに、一番救われるべき人の救いを、取り次がなかった! 貴方なら、瞻仰せんぎょうを救えたのです。私では救えなかった、十重二十重に罪を犯した私では、救えなかった。その証拠に、メシアひこばえは、死の間際ですら、瞻仰せんぎょうの人生に染みついた呪いから解き放ってはくださいませんでした。

 最も神に愛された弟子が、そのように願わなかったからです。彼が願ってくれたなら、メシアひこばえは、御父に取り次いでくださったでしょう。淫欲のレヴィアタンに飲み込まれるのを、引き寄せてくださったでしょう。暴漢のベヒモスに組み敷かれるのを、引き上げてくださったでしょう。愛した者が望むからです。

 そうですとも、メシアひこばえは、私を十字架によっ贖ってくださいました。しかし、メシアひこばえは、十人の浅ましき欲を赦すために、私のたった一人の兄を、たった一人、我が家で血の繋がらない兄を、お見捨てになったのです。十匹の羊の罪を赦すために、一匹の羊を、穢れの谷に放り込まれました。私を救う為に、兄をお見捨てになったのです。

 そのような事があって、たまるものですか。神の普遍の愛が、娼婦も取税人も寡も包み込んだあの愛が、神殿娼夫にだけ注がれないなど、そんなことはあるはずがないのです。それなのに、何故瞻仰せんぎょうだけが救われなかったのかと言えば、兄の救いを、誰も願わなかったからに他ならないのです。

 その故に謦咳けいがいさま、私は貴方を軽蔑します。自分達の罪が清められたことに満足して、他の人の罪の雪がれることを祈らなかった!

 私ではダメでした。私ではダメでした。私では無力でした。私一人だけが罪を犯していたわけでは無いから、罪を犯した全ての人が、祈らなければダメだったのです。それ程に、兄の罪は重かった。兄の罪は赦されなかった。十二弟子の中で、兄だけが一等、穢れていた。その事を誰もが知っていたのに、誰も祈らなかった。貴方こそが、祈らなければならなかったのに。

 いえ、いえ、いえ、分かっております。貴方だけの責ではないことは。私も同じくらい、祈りが足りなかった。けれども、家族であった私の祈りですら聞き届けられなかったのなら、一体誰の祈りなら聞き入れられたというのでしょう。神の家族よりも強い絆を持つ者、神の家族よりも神に近しい者、メシアひこばえの愛に次いで、大いなる愛の掟を戴く者―――。それは、私ではなかったのです。家族である私で届かなかったのですから、謦咳けいがいさまの祈りでしか届かないのです。

 謦咳けいがいさま、謦咳けいがいさま、呪われた教会の長老、王の王の執事たるお方。

 どうか憐れみを。天国から拒まれ、炎に焼かれているだろう私の兄の為に、今からでもお祈りください。

 

 ―――以下、エルサレム総主教からローマ教皇への最後の手紙。


 メシアひこばえの選ばれた、教会の岩を受け継ぎたるローマ教皇さまへ、エルサレム総主教から、幾度となくお手紙申し上げます。

 謦咳けいがいさまの後継者、天国に一番近いお方よ。貴方ならば、誰がこの手紙を書いているのかお分かりでしょう。

 先日、初代さまと大奥様とが亡くなりました。遺体は酷く欠損しておりましたので、私達は尽力して、ご遺体を集め、墓に葬りました。私は遺されたその子ども達を引き取り、エルサレム共同体の三代目を継ぎました。

 伯父とその子ども達は、代々『瞻仰せんぎょう』の名前を継いでいます。従弟の世代ですら、その名を名付けられたことで、多くの謂れのない中傷に苛まれてきました。ただ名前が似ている、それだけのために、多くの新しい家族に迫害されてきたこの一族は、それでも、大奥様が込めた「瞻仰せんぎょう」という名前の尊さを必死になって伝えてきました。エルサレム共同体の古参たちは、その悲壮な思いを知っていましたが、今や世代は移り変わり、多くの人が、「瞻仰せんぎょうおじいさま」を存じ上げません。かくいう私も、大奥様に教えて頂いただけで、殆どを知りません。

 女のように美しく、男としては足りず、女としては余分な身体で、けれども完璧な人格者。

 その言葉に収束する答えというものを、私はついぞ、大奥様から聞くことは出来ませんでした。ただ、大奥様があまりにも恋しそうにお話になるので、大奥様が深く、瞻仰せんぎょうおじいさまをお慕いしていたのは分かりました。だからでしょうか、時折大奥様は、酷く悲しまれて錯乱し、瞻仰せんぎょうおじいさまを呼んで、泣き叫ぶことがありました。どういうきっかけや基準でそのようになったのか、私達には分かりません。深く深く、大奥様が瞻仰せんぎょうおじいさまを、愛していらっしゃることだけが分かりました。

 大奥様が、もはやこれまでとお覚悟をお決めになった時、私達は集められました。そこで初めて、瞻仰せんぎょうおじいさまが、どんなに孤独に死んで行ったのか、教えられたのです。

 そして、その事実を隠さなければならなかった理由も。どのように生きて、どのように死んで行ったのか、隠さなければならなかった理由を。

 昨今、教会では禁欲を強く推奨する動きがあります。けれども、それでよいのでしょうか。

 私は確かに、メシアひこばえさまを直接は知りません。私が生まれたときには既に、メシアひこばえさまは、天に昇ってしまっておられました。けれどもあの方によって生き方を変えた多くの人々が、私を育ててくれました。だから私は今、エルサレム総主教として、三代目を継がせてもらっています。幼い頃から教えを守り、教えを伝えられて参りました。

 それによれば、メシアひこばえさまは、寡や娼婦、取税人たちの友でございました。いいえ、家族のように、共に同じ食卓についたと聞いております。それも、豪華な宴だから出たのではありません。一緒に食事をしたがっているということを察して、自ら声をかけたのです。そのような人が、果たして瞻仰せんぎょうおじいさまのことをそんな風に蔑ろにしていたとは思えません。

 寧ろ、他の方々が、瞻仰せんぎょうおじいさまが仲間にいることを許せなかったのでは無いでしょうか。

 瞻仰せんぎょうおじいさまという人を、形ばかりに敬って、それは本当に、敬っていると言えるのでしょうか。私達も大きな組織になりました。その為に、昔は許容出来たことも、厳しい掟で示しをつかせなければならなくなってきました。ですが、教会という大きな母を護る為に、更に大きな、神という父から、父の愛し子たちを引き離す行いは、メシアひこばえさまは果たしてどう思われるでしょうか。私はそれを考えると、恐ろしくてとてもとても、瞻仰せんぎょうおじいさまのような人を締め出すなんて出来ません。

 どうして責められましょうか、煉瓦を持つ筋肉を持たず、数を数える教育を持たず、自然な女体の身体すら持たなかった、齢三つの子どもが、唯一売れるものが、それしかなかったということを。

 彼等は悪でしょうか。娼婦よりも酷い、悪でしょうか。彼等は自ら、悪に染まったのでしょうか。仮に悪に自ら染まったとて、それを私達のメシアひこばえさまは、お赦しにならないのでしょうか。あの方の十字架は、彼等のためには用いられてはいけないものなのでしょうか。

 メシアひこばえさまは、全ての罪を赦してくださり、贖ってくださいます。ならば、最早罪を贖われ、聖くなった方を、どうして教会が拒めましょうか。神が受け入れた方を、教会が排除出来ましょうか。

 今回、このようなお手紙を出しましたのは、何も今更になって、瞻仰せんぎょうおじいさまの名誉回復のための裁判をしてほしいからではありません。『瞻仰せんぎょう』という名前の呪いを解いて欲しいのです。

 信仰深いために名付けられた名です。

 十二部族の一人の、由緒ある名です。

 名前に何の罪がありましょうか、名付け親の願いが込められた、産まれて初めての贈り物を。

 これからも、瞻仰せんぎょうおじいさまの一族は、長男に『瞻仰せんぎょう』という名前をつけるでしょう。私はいつか、その名前を受け継いでいるというだけで、教会が彼等一族を追放するのではないかということを最も恐れています。教会が四十年と、その四十倍の年月が経ったころ、私達の当初の志が、果たしてずっと保たれていくことが出来るのか、私達の信仰はそれほど強固なのか、私は恐ろしくてたまりません。

 だからこそ、今出ている歪みは、今正さなくてはなりません。今溜まっている淀みは、いずれ膿になり、教会という大きな身体の全身を蝕み、疥癬よりも恐ろしい病となって、教会を襲うでしょう。私はそれが恐ろしくてなりません。

 神の元から離れる前に、神から、いえ、教会から弾き出された人の事を思い出してください。教義の故ではなく、愛によって、私達が愛すべき人達を見極めてください。 

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