[番外編]その後の二人

 新しいマンションへの入居日。

 リビングで荷解にほどきしながらも、亜生は今も実感が湧かない。

 金色の十字架の下で愛を誓い合って、銀色の揃いの指輪をして、デートを数回。架に「一緒に暮らそう」と言われてから今日至るまで、約二ヶ月。

 この新居に関しては、あたかも用意されていたかのような好立地こうりっち、好物件。

 地上一階から五階部分には、ファッションやグルメなどの多くの店舗が入り、もちろんスーパーもあるし、日用品までもが揃う。

 亜生と架の『愛の巣』となるこの部屋は、六階から三十階の居住部分の、二十九階。

 営業部の仁科和真が、彼の兄で架の友人の明澄から、架と亜生との交際の話を聞いて、この部屋を紹介してくれた。

 こんなに素晴らしいマンションを仲介する和真は、一体何者なのか……。

 今は短期で出向中の和真。電話では話したけれど、戻ってきたら直接お礼を言おう。


 プロポーズだってそうだけれど、自分の恋愛や物ごとが円滑えんかつに進むだなんて、正直未だ夢を見ているかのよう。

 開けた段ボールの中から梱包こんぽうされた食器を出していると、窓辺まどべでカーテンが揺れた。


 微かに聞こえる喧騒けんそう。窓が額縁がくぶちみたいに、外には青空とタワーが見える。


 髪を靡くそよ風を、亜生は静かに胸に吸い込んだ。

(今日からここが家なんだ。架くんと俺の)

 亜生は自然と口元が緩んで、ようやく架との新生活の始まりを体感する。


 実は先週、亜生は架とともに、自分たちの部署長である峯島へ交際の報告をしていた。

 峯島には日頃お世話になっているし、蘇堂の一件は言うまでもない。

 それに、彼は『同士』だと、自らの胸の内を明かしてくれたうつわの大きな人。

 彼に架と付き合い始めたことを知らせないだなんて、不義理ふぎりもよいところだと、意外にも亜生から提言ていげんした。

 架は反対も反論もなく、むしろ前のめりで賛同してくれた。


 簡易応接室で、何も知らない峯島へ「交際に至りました」と、架とともに亜生が伝えた時、彼は意外にも驚いた様子もなく、笑顔を浮かべながら「そうか。よかった」と、自分のことのように喜んでくれた。


 亜生は峯島に伝えるだけで十分だと思っていたけれど、架は違った。

 峯島に報告したあと、架は「部署の皆にも伝えます」と付け加える。

 亜生は予想もしていなかったことに、自然と架のシャツの裾を掴んでいた。

 蘇堂との、いや、不倫疑惑の時みたく、亜生にとって「公表すること」とは、まさに恐怖でしかなかったから。

 首を横に振った亜生をよそに、架は表情を硬くして「俺たちは、恋人だろ」と一言。

 彼の真剣な眼差しに、亜生は十字架の下で架と誓い合った時の自分の気持ちを思い出す。


 架とともに生きる世界が、道が、今、目の前に、すでに開けていた。


 一生の愛を誓ってくれる彼の決意に、亜生はその時、ようやく「ゲイである自分」から「佐久田亜生」としてこれからを生きる現実を、幸せを、掴む決心が付く。


 ベッドの搬入はんにゅうを見守っていたはず架が、空になった段ボールを抱えながら、リビングに入ってくる。

「亜生、カッターどこだっけ?」

「えっ? あっ、ごめん。俺が持ってきちゃってる」

 床に置いてあったカッターを手にとって、亜生は刃を戻すとを架に差し出した。

「ありがと」

 架は腰を屈めながら受け取ると、亜生の唇に軽く口づけた。

 途端に、亜生は顔が熱くなる。

 驚いて両手で口元に触れる亜生に反して、架はいたずらっぽく笑いながら、再びベッドルームの方へと戻っていく。


 架といると、一瞬一瞬、幸せを感じる。

 単に「付き合いたて」だとか、「今日から同棲する」とかだけではなく、もちろんそれもあるとは思うけれど、毎日自分の心が穏やかでいられるのは、彼の愛が、彼の存在があるから。


「俺って、幸せものだなぁ……」

 亜生は不意に声が漏れていた。

 以前の自分では考えられない、いや、発想さえも浮かばなかった充足感じゅうそくかんに、亜生は自然と頬が緩む。


 そういえば、購入するベッドを見に行った際、架はマットレスの、というかフレームへのこだわりが異常に強かった。

 亜生は「二人で寝られれば嬉しい」くらいに考えていた。けれど、彼は店内に展示されているベッドのふちに腰かけては、何かを確かめるようにしてはずんでみたり、自ら横になって軋ませてみたりしていた。

 架に理由を尋ねたら、「届けば分かるよ」と笑顔で言われたけれど、あれはどういう意味だったのか……。


 架がリビングに顔を出した。

「こっちは終わったよ」

 畳んだ段ボールを器用きようひもで括りながら、架はリビングからキッチンへと向かう。

「ありがとう」

 亜生が返事をすると、架は満足げに口元を緩ませる。

 新しいダイニングテーブルの上は、亜生が荷解きした食器や調理器具。

 架は一つずつ手にとっては、亜生にも置き場所を確認しながらおさめていく。

(本当に、今日から暮らすんだなぁ)

 キッチンを右往うおう左往さおうする架の姿に、亜生は急に胸が一杯になって、目頭めがしらが熱くなる。

「亜生? どうした? 具合悪い?」

 架が心配そうに眉を顰めていた。

 亜生はキッチンに立つ架の元へと、静かに歩く。


 架の胸に頬を付けて、はにかむように亜生は自然と言葉を零す。

「大丈夫だよ。……俺、架くんの恋人なんだなぁって、噛みしめてた」

 亜生がそう言い終えると、架は亜生の腰を抱き寄せて、額と額とを付け合わせる。

 架は、亜生へと微笑み返した。

「恋人で、俺の最愛の人だよ」

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