[番外編]後日談 〜恵の場合〜

 俺の名前は幡川恵、二十七歳。雪代社営業部在籍、既婚。

 今日は昼前から夫婦揃って、幼馴染で親友の亜生の新居にお邪魔する。


 妻の美里は、もう一週間も前から落ち着きがない。

 なぜなら、彼女は今日ついに「亜生ちゃんの夫(となる人)」と会うから。

 俺や亜生との会話の中で、美里は新條さんのことを知ってはいたけれど、直接顔を合わせるのは今回が初めて。

 俺も含めて美里もまた、まるで息子か娘の婚約者にでも対面するかのような気持ち。

 昨晩は夫婦してなかなか寝つけなかったので、真夜中にも関わらず、亜生から新條さんを紹介された時のシミュレーションをした。


 美里が、俺の持つ白い紙袋を見ている。

 来る前に、俺たちはショコラトリーで亜生たちの新居祝いを買っていた。

 美里はどうやら、選んだ手土産てみやげに未だ不安になっている模様。

「やっぱり、バウムクーヘンの方がよかったのかなぁ……」

 小さく美里が唸っている。

 俺は溜め息混じりに彼女をさとした。

「美里……。あれを全部食べるのは、俺たちがいても、さすがに無理だったと思うよ」

 いくつかの店舗に立ち寄った際に、美里がおおよそ一メートルはあろうかという長さのバウムクーヘンを選ぼうとしていたのを、俺は全力で阻止そししていた。

縁起物えんぎもの』と言われるものを、たくさん贈りたい気持ちは分からなくもないけれど、いくらなんでも限度というものがある。


 美里を宥めつつ、俺は新居のオートロックのインターホンを押す。

 会社から一駅、俺の家からも一駅。しかも駅直結型のマンション。利便性が優れすぎ。

「お待ちしてました」

 低く耳障りのよい声が、インターホン越しに返事した。

「どうも、幡川です」

 俺が答えると、ガラスの自動ドアが開く。


「こんにちは。いらっしゃい」

 玄関を開けてくれた新條さんが、白い歯を見せる。

「こんにちは、お邪魔します」

 俺が美里とともに中に入ると、新條さんの後ろから満面の笑みを浮かべる親友が手招きする。

「いらっしゃい。恵、美里ちゃん」

 すでに準備されていたスリッパを履いて、俺と美里は昨晩したシミュレーション通りの挨拶をする。

「本日はお招きいただき、ありがとうございます」

 すると、亜生が小さく笑った。

「どうしたの? 二人とも」

「『どうした』って、挨拶だよ」

 俺が真顔で答えると、新條さんは微笑む。

堅苦かたくるしいのは抜きでいきましょう」

 俺と美里は新條さんに促されながら、広い廊下ろうかを通ってリビングに入った。


 眩しいほどの白い空間。正面にある大きな窓の外には、空とビルに混じって、タワーが見える。

 このマンションは、俺と同じ営業部で現在短期出向中の仁科くんが仲介したと、亜生と新條さんが言っていた。

 仁科くん。彼は一体何者なのか……。


「さあさあ、座って。二人とも」

 亜生の無邪気な声がしたあと、俺は美里と目が合う。

 おそらく、俺と美里は今、同じことを考えている。

『すごくない?』

 俺は美里と顔を見合わせて頷くと、無言の会話が成立。

 そして、俺は本気で安堵する。

(バウムクーヘン、阻止してよかった)


 俺と美里は亜生に言われるがまま、革張りの白いソファーに腰を下ろした。

 亜生はリビングからも見えるオープン型のキッチンの中で、新條さんと楽しそうにお茶を入れている。

「ちょっと、恵」

 俺の隣で美里が囁く。

「お祝い、渡さなくちゃ」

 美里が肘で俺の腕を軽く突く。

 昨晩決めた段取りが、俺は完全に抜け落ちていた。

「そうだな」

 俺が美里と再び頷き合っていると、亜生と新條さんが揃って戻ってきた。


 新條さんが持っているトレイから、亜生がリビングのテーブルに紅茶の入ったグラスを置いていく。

 亜生と新條さんの指に、指輪があった。

 俺はなんだか、急に胸が熱くなる。

 そういえば、亜生は新條さんとお付き合いするようになってからは笑顔が増えて、以前よりも明るくなった。

 思い詰めている様子もなくなったし、少々幸せボケというか、抜けているところは幼い頃の亜生に戻ったみたい。


 幼馴染で親友の俺は、これまで亜生の辛い時期を見てきている。

 その中には、俺の従兄弟のことも含まれているから、正直責任を感じることも多かったのは確か。

 亜生は俺には何も言わなかったけれど、彼は昔から一人で抱え込みやすいところがあったから、俺の知らないところで一人で苦しんでいただろう。

 だから今、亜生がこうやって新條さんに心を許している感じが見て取れて、俺は本当に安心した。


「恵?」

 俺の名を呼んだ美里が、隣で目配めくばせをしていた。

 美里が床に置いている紙袋に何度も視線を走らせているのを見て、俺は再び思い出す。

「あ、ああ。そうだった」

 俺は紙袋を手にとって膝の上に乗せると、中からリボンが掛けてある金色の包みを取り出した。

「あの、これ、ささやかながらですが、新居祝いの気持ちです」

 俺たちが姿勢を正すと、亜生たちも釣られるように背筋を伸ばす。

「ありがとう!」

「ありがとうございます」

 亜生と新條さんは声を揃えると、互いに顔を見つめながら微笑み合う。

 二人は熨斗のしの付いた箱の包装紙のロゴから中身が分かったようで、「あとで一緒に食べようね」と亜生が笑った。


 俺たちと談笑していた新條さんが、亜生の耳元に何か呟いてソファーから腰を上げる。

 彼がキッチンへと歩いていくと、亜生が俺たちに微笑む。

「そろそろ、お昼ご飯にしよう」

 新條さんはキッチンの中を手際よく動いている。

 亜生が俺たちに小さく話す。

「実はね、今日二人が来るから、架くん張り切っちゃって」

 そう言うと、亜生は頬を緩めた。

 なんでも、この家では新條さんが料理担当らしく、キッチンに立つ彼はすでにエプロンを着けて、手慣れた姿で調理している。

「亜生? ちょっと味見してくれる?」

 キッチンから、新條さんは優しく穏やかな声で亜生を呼んだ。

 亜生は俺たちに照れるように笑うと、頬を赤らめる。

「ごめん、ちょっと待っててね」

 俺と美里が頷くと、亜生はソファーから立ち上がってキッチンへ歩いていった。


 美里が、溜め息を吐いた。

「どうした?」

 俺が声を掛けると、美里は表情を緩める。

「亜生ちゃん、幸せそうでよかった」

 俺と美里はキッチンに立っている二人の仲睦なかむつまじい姿を見つめた。

「そうだな」

 俺がそう零すと、美里は囁く。

「彼は『合格』ですか?」

「まあ、うちの娘が選んだ相手だからねぇ」

 俺は小さく唸りながら腕を組んだ。

 美里が人差し指で俺の頬を突く。

「お互い、亜生ちゃんへの過保護は一生ものだね」

 確かに。俺を含めて、美里、兄の櫂、兄の恋人の昭良、少なくともすでに四人もいるのに、さらに過保護がもう一人増えた。

 それも、俺たち以上の溺愛できあいっぷりの。

 俺と美里は顔を向け合うと、互いに笑みを浮かべる。


 再び俺たちがキッチンを見ると、新條さんが亜生の頬にキスをしていた。

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