第23話 後編

 足の向くままに歩いていると、亜生は突然腕を掴まれて、反動で立ち止まる。

「どこ行くんだよ」

 そう問いかけてきた相手は、振り向くまでもなく架だった。

「…………。あの、手を……」

「亜生」

「……離して、ください」

 架は亜生の腕をさらに強く掴み直して歩き始める。

「ちょ、何っ、なんですかっ」

 亜生の言葉に一切耳を貸さずに、架は一つ先の角を曲がった。


 部署と部署との壁が向き合う通路。

 突き当たりには、採光さいこう用の窓が一枚。手前には大きな鉢に入った背の高い観葉植物が二対、両脇に並ぶ。

 窓と鉢の間には大人一人分ほどの空間があって、その場所だけは植物の葉が通路の目隠しとなって見えない。

 架はそこへ亜生を押し入れた。


 亜生の顔の傍、彼は壁に片肘を突く。

 さらに、亜生を彼の片腕が押さえ込む。

(えっ、えっ? 何、何? 新條さん?)

 亜生の顔に向かって、架の綺麗な顔が近づいてくる。

 架の頬が、亜生の頬に触れた。

「好きだ、亜生。……好きなんだ」

 亜生の耳元に、架が囁く。

(……今、俺の事、『好き』って言った?)

 亜生の心臓は、悲鳴を上げるように鼓動こどうを打ち鳴らす。

「『キスしたい』って意味の、『好き』だから。……キス、しても、いい?」

 架の甘い言葉が、穏やか息が、亜生の脳天のうてんを突いていく。

 亜生は全身が燃えるように熱くなっていくのが分かった。

 下唇を噛んで、亜生は熱を抑える。

「……何言ってるんですか。新條さん、どうかしてるよ」

 亜生が僅かに残る自制心を保っていると、次に架は鼻先を亜生の鼻先へと近づけた。

 少しでも動くと、唇と唇が触れそうな距離で、架が呟く。

「ああ、そうだな。キスに同意を求めるなんて、初めてだ」

 彼の長い睫毛が、亜生の瞼を掠める。

(俺だって、好きだよ。キス、したい……)

 途端に、亜生の脳裏に部署での出来事がよぎる。


 亜生は架の体を押し返した。咄嗟に顔を伏せて、言葉を放つ。

「やめて下さい。新條さんはノーマルなんですよ」

「ノーマル、ノーマルって……」

 架はそう小さく呟くと、両手で亜生の頬に触れて顔を正面に向け直す。

 亜生の目に映った彼の顔は、とても苦しそうに眉を顰めていた。

「そうやって俺の前に、勝手に線を引くなよ」

 亜生は架の両手を振り払おうとしたけれど、彼が許さなかった。

 たまらず、亜生は架から目線を逸らす。

「お、俺みたいなゲイじゃなくても、あなたなら、いくらでも、素敵な女性が……」

「その『ノーマル』の俺が、亜生を好きだって言ってんだ。本気以外に、理由があるかよ!」

 語尾を強めた架は、亜生と視線を合わせる。

 亜生の心臓は、これ以上動かせないというくらいに脈を打っている。

(ダメだよ。あなたもになれるんだ。だから、俺なんかと一緒にいちゃ、ダメなんだ……)


「あなたは、ゲイの俺に、同情してるだけなんだ……」

 亜生は心とは正反対の言葉を選んだ。

 架が好きだからこその、嘘だった。

「好きなんだ、亜生」

 見つめ合ったまま、架が囁く。

 彼の漆黒の瞳が潤んで、表情は憂いを帯びていく。

 亜生は頷きそうになる頭をこらえる。

「好きだ、亜生。好きだよ……」

 そう言い続ける架の手は、震えている。

 亜生の両頬から、彼の熱が伝わり続けている。

 きっと、自分の熱も架へと伝わっている。

 だからこそ、これ以上彼を好きになってはいけないと、亜生は唇を結んだ。

 亜生は架の両手を自分の頬から引き離す。

「失礼します」

 立ち尽くす架に後ろ髪を引かれながら、亜生は部署に戻る。


 午後、架は急遽きゅうきょ一週間の出張が入った。

 亜生は少しだけ安堵する。

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