第19話 後編
簡易応接室を出て亜生が自席に戻ると、恵が椅子に座っていた。
亜生は無理に笑顔を作って「おはよう」と告げるも、やはり恵には見抜かれて、「無理するな」と言葉を返された。
恵の表情から、彼の部署でも蘇堂との件が伝わっているようだった。
程なくして、峯島と架が応接室から出てくると、二人は揃って部署をあとにした。
「俺のせいだ……」
亜生は声に力が入りきらない。
恵は亜生の顔を見つめたまま、眉を顰めていく。
たまらず顔を伏せた亜生は、スーツのジャケットの裾を両手で強く掴んだ。
「亜生のせいじゃない」
恵は立ち上がると、亜生を椅子に座らせた。
「大丈夫。亜生は何もしてないだろ。亜生は悪くない」
恵はそう言って、亜生の頭を撫でる。
けれど、亜生は何もしていなくはない。
現に、大紀のキスを受け入れていた。
流されたとか、絆されたとか言い訳を並べても、それは単なる
亜生が静かに顔を上げると、恵は微笑みを浮かべていた。
「あとでまた来るよ。それと、一緒に帰ろうな」
再び恵は微笑んだ。
恵が部署に戻ったあとも、亜生は仕事に身が入らないまま。
隣の席の架は、蘇堂の件であろう未だ戻らず。
亜生は自分が今回の当事者のために、責任の行く末が不安でたまらない。
自分の席から、抑えた声があちらこちらで聞こえ始める。
会話の内訳は、考えるまでもない。
『蘇堂がプロジェクトを白紙した』ことよりも、亜生と大紀の『不倫騒動』。
同じ部署の「男」が『ゲイ』であったということ、その『ゲイ』が取引先の『常務』である「男」と、しかも『不倫関係』だなんて、誰が聞いても驚く。当の亜生も驚いた。
周りの囁く話がよい内容ではないことは、聞こえなくとも分かる。
亜生はいたたまれず、席を立った。
ここから逃げたいと思う気持ちと、自分の責任だという事実がぶつかり合う。
己の
自分さえ黙っていれば知られずに済むと、そう思っていたのが甘かった。
実際、恵たちはすでに知っているし、架にも知られている。
つい先ほど、峯島にも知られた。
……彼の場合は、同士だけど。
それにしても、十年以上の間ひた隠しにしてきたことを、二ヶ月足らずでこんなに安易に、しかも自分が勤める会社の内外の不特定多数に知られるだなんて。
悪い夢なら覚めてほしい……。
部署を出てから、同じフロア内で、誰もいない場所を探している。
続く通路の大窓は、雨が滴っていた。
窓ガラスに木の葉が一枚張りついているのを見つけて、亜生は立ち止まる。
くたびれた青葉を一点に見つめながら、「一体なんのために、今日まで『ゲイ』だということを隠してきたのか」と、亜生は悲しみと悔しさと怒りと負の感情が絡み合って、打ちひしがれる。
窓ガラス越しに、手で葉へと触れた。固くて冷たいガラスはまるで、自分に対する世間の目のように感じる。
窓の向こうでは黒く重い雲が空を支配して、地上では
その中の一つでしかない『自分』が、そこからも
どうしたって、孤独に
好きな人と過ごした、愛し合ったという『過去』に得た『幸せ』の代償?
この先も『愛すること』『愛されること』すら、自分には許されない?
何をしても『幸せ』でいてはいけないということ?
自分は『恋』すらもしてはいけない?
架を愛している。叶わないことが分かっている『恋』も、『過去は過去』だとしても、今のように『過去』は『現在』と
現実問題、雪代社と蘇堂グループに『プロジェクトの白紙化』という
悔しいし、認めたくないけれど、大紀が言った「両者が損害を
亜生は溜め息が零れる。窓ガラスを吐く息で曇らせる度に、亜生は指でばつ印を書いた。
今の自分を表すみたいに、書いては消えて書いては消えて、そうしているうちに、涙が込み上げてくる。
亜生は書くのを止めて、窓ガラスに額をもたれた。
下唇を噛みながら、涙をこらえ続ける。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます