第19話 前編

 始業前にも関わらず、部署長の峯島のデスク周辺に人だかりができていた。

 亜生は不思議に思いながらも、自分の席に着く。


「これは、私の責任です」

 峯島のデスクの周辺から、架の声が聞こえてきた。

「けれどこれでは、向こうにとっても不利益ではないか」

 峯島が答えている。

 亜生は何気なく、会話が飛び交う峯島のデスクの方に顔を向けた。

 すると突然、人だかりの視線が一気に亜生へと向いた。

 開けた間から、峯島が言う。

「佐久田くん、いいかな」

「部長! 待ってください!」

 架が制止するような形で声を発すると、峯島が無言で立ち上がった。

 亜生は峯島に呼ばれるがままに簡易応接室へと入る。


 椅子に腰を下ろした峯島の表情は、曇っている。

 加えて、眉間には深く皺が刻まれて、彼は一つ溜め息を吐いた。

 峯島は亜生を見つめて静かに口を開く。

「佐久田くん。一つ、聞いてもいいかな」

 深刻さが漂う峯島の声色に、亜生は思わず息を呑んだ。

 彼が話す内容は、徐々に重くなっていく。

「今から君に聞くことは、業務上、非常に重要なことだ。だから、正直に答えてほしい。私も他言はしない」

 亜生は今度は唾を呑み込んで、そして言葉を返す。

「なんですか?」

 峯島は顔を背けて息を吐くと、再び亜生を見た。

「『君』と『蘇堂グループの香山常務』が『恋愛関係』だというのは、本当か?」


 瞬間で、亜生の頭の中は真っ白になった。

 峯島は構わず言葉を続ける。

「先ほど蘇堂の上層部から直々じきじきに、『雪代社とのプロジェクト全般を白紙に戻す』と言ってきた。理由を尋ねたところ、君と香山常務との不貞ふていが要因だそうだ」


 亜生は今度は目の前が真っ黒になる。

 たまらず俯いた。それでも亜生は何か言葉を手繰り寄せようとした。けれど、声が出てこない。

「君の口から、真実を聞きたいんだ。答えてくれるか?」


 恐れていたことが、起きた。

 長年隠すように積み重ねてきた自分の本当の人生が、明るみに出た。

 それも、間接的にもたらされた状況で。

 ここで大紀との昔の関係を話さなくても、蘇堂グループや雪代社の誰かがそれを知り得るのは、時間の問題。いや、もうすでに知れ渡っているのかもしれない。

 ……もう、ここまで。


 亜生は重い口を静かに開く。

「香山常務とは、高校時代から交際していました……。けれど、昨年に別れています。ですので、現在彼との関係はありません」

 亜生は自分でも驚くほど淡々と答えられたように思えたけれど、それから俯くと、息を吸うのが難しくなる。

「それが、真実かな?」

 峯島の冷静な問いかけだった。

「はい。……これが、真実です」

 亜生は静かに言葉を返して、静かに唇を噛む。


 峯島は椅子に背をもたれると、天井を見つめた。

 それから彼は姿勢を戻すと、今度はなぜか亜生へと微笑みを浮かべる。

「正直に話してくれて、ありがとう。君のことは、私が守るから」

 峯島からの思いもよらない言葉だった。

「えっ、あの……」

 顔を上げた亜生が混乱したまま声を零すと、峯島は頬を緩めて言う。

「個人的なことを聞いて、悪かったね。でも君が不倫しているとは思えないし、私は事実を知る必要があったんだ。これで、まずは、大丈夫だ」

 コトの重大さは変わってはいないけれど、亜生は何だか拍子抜けした。

「あ、あの、部長。お、俺がゲイだということに、驚かないんですか?」

 峯島は軽く答える。

「ああ。だって、俺もゲイだし」

 意外な返事を聞いて、亜生は頭の中の整理が追いつかない。

 峯島は言葉を続ける。

「まあ、俺の場合、最近自分がそうだと認めたんだけどね」

 峯島はいたずらに笑った。


 それから峯島は「今まで女性と付き合ってきたが、何か違うと感じていた」「女性よりもどうしても男性を目で追っている自分がいた」「まさか、そんな訳がない、と本当の自分を見て見ぬフリしてきた」「男性の体に反応した現実に、認めざるを得なくなった」と、彼のその成り行きを話してくれた。


「正直、嬉しいよ。職場に同士がいて。俺は自分がゲイだったということが不安だったから」

 峯島の言葉に、亜生は涙が込み上げた。

「お、俺も、嬉しいです」

 亜生は涙をこらえながらも、今の本音を言葉で伝えることができた。

 峯島は再び微笑む。

「佐久田くん。今回の蘇堂とのことで、苦しい思いをするだろうけど、落ち着くまで耐えてほしい」

 その直後、扉が叩く音が聞こえたと同時に開き、架が立っていた。

 亜生はいつの間にか涙がんでいた。

「失礼します」

 架はそう口を開くと、扉を閉める。


 彼は険しい表情を浮かべながら、亜生の隣に立った。

 峯島はなぜか溜め息を吐く。

「待っていられないのか。意外と盲目もうもくだな、君は」

「すみません」

 架の返事に、峯島は苦笑いを浮かべて首を軽く横に振った。

 二人のやりとりを前にして、亜生は人として社会人として、仕事に対する自覚の甘さを痛感する。「肩身が狭い」とは、まさにこの状況のこと。

 峯島が再び溜め息を吐く。

「あとは私に任せてもらう。新條くん、君は残って。佐久田くんは仕事に戻っていい」

 そう言われるがまま、亜生は情けなさを胸に、一人、部署へと戻った。

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