第22話

 二十八歳になって、今日で一週間と二日が経つ。

 大人になると一日が短い。子どもの時は、放課後から遊び始めても、晩ご飯まで時間は十分にあったのに。

 今なんて、朝起きてから昼食をとり終えるまでの間が、体感でいうと一時間ぐらい。

 現在「在宅勤務」という名で謹慎中の亜生は、食器を洗いながら時計を見た。

 時刻は午後十二時半を過ぎたところ。

(早めにお風呂掃除しようかな。夕飯の準備もあるし)

 昨日はトイレ掃除、その前はキッチンの整理と、おかげ様で家の中は綺麗になった。

 直前に外されたプレゼンの行方ゆくえも気になっていたけれど、謹慎中の身で進捗の連絡を入れるだなんて、おこがましい。

 亜生は最近の自分の身構えを正すように、家事にいそしむ。


 浴槽の洗剤をシャワーで洗い流していたところ、家のインターホンが鳴る。

 亜生はシャワーを止めて、濡れている足をタオルでくと、キッチンに向かった。


 亜生はドアモニターを確認する。

 画面には、恵が映っていた。

「あれ? まだ仕事中じゃない?」

 亜生はモニター越しで恵に呼びかける。

「今日は直帰なんですよ、奥様」

 恵が冗談を交えて笑う。

「今開けるよ」

 笑いながらモニターに返事をして、亜生は解錠かいじょうした。


「亜生が会社の近くに住んでてよかったぁ」

 恵はスーツのジャケットを脱ぐと、倒れ込むようにして、リビングのカーペットの上で横になる。

 会社から徒歩で五分ほど。駅からも近くて、公園やスーパーも近くにあるこのマンション。

 家賃は少し割高だけど、急いで決めたにしては、好物件だった。

 昔の恋愛が詰まった部屋から逃げるように引っ越してから約九ヶ月。今では安息の地となったこの家に来るのは、恵ぐらい。

 サーキュレーターの下でネクタイを緩めながら、恵が濁声だくせい混じりの溜め息を吐いた。

「随分疲れてるね」

 亜生は恵に声を掛けながら、キッチンに向かう。

 二つのグラスに氷を入れた。冷蔵庫から、今朝仕込んだ水出し紅茶を取り出して、グラスに注ぐ。

 想定外に時間ができたものだから、呑気に紅茶までたしなむ余裕が生まれていた。


「営業、しんどい……」

 恵はあちらこちらと寝返りを打つ。

「もう夏だっていうのにさ、今時『ジャケットにネクタイ付けろ』とか。……ドレスコードじゃあるまいし」

 なんでも、彼が今日行った営業先に、こだわりが強い曲者くせものがいるらしい。

 亜生は紅茶を入れたグラスを持って、リビングに戻る。

 テーブルの上にグラスを置いて、亜生もカーペットの上に座った。

 この家には今、一人掛け用のソファーしかないから……。

 恵は体を起こして座り直すと、静かに紅茶を飲む。

「……生き返ります」

 恵は途端にほうけた顔をした。

「お疲れ様です」

 亜生は表情を緩めながら、恵を労う。

 同時に、毎日仕事ができる環境にいる彼が羨ましい。……自業じごう自得じとくで謹慎になったのだから、仕方がないのだけれど。

 仕事帰りの彼に対して、自分は表向きは在宅勤務でも、ここ一週間ほど家で悠長ゆうちょうに掃除三昧ざんまい

 亜生は、今度は罪悪感が芽生めばえる。

 テーブルの自分のグラスに手を伸ばして、亜生は紅茶に口を付けた。


 程なくして、恵のグラスがからになる。

 亜生は冷蔵庫に入れた水出し紅茶のポットを取りに行こうと腰を上げた。

 その時、恵が口を開く。

「亜生、話があるんだ」

 恵は緩み切っていた表情を引き締めた。


 サーキュレーターの風に煽られて、恵の前髪が靡く。

 亜生はひとまず腰を下ろして、彼の言葉を待った。

「……『亜生が不倫してる』って話、元凶は蘇堂の……、大紀くんの秘書だった」

 恵が顔を伏せた。

 亜生は驚きで、瞬きが増える。


 大紀の秘書こと咲は、蘇堂の人間。

 確かに「上司の不貞」というか、倫理に反すると思っても、それは間違っていない。

 けれど、自ら自社に損害を与えるだなんて。


『亜生と大紀の関係』を知っていたのは、自分と大紀をのぞくと、彼の妻の聖花、それから会社では恵と架ぐらいだったはず。

 秘書の彼女ならかしこく立ち回れた気がするのに、余程のことがあったのだろうか。


 いや、問題はそこではない。

 社会的にも、企業としても、『蘇堂』をよからぬ事実から守るための、当然の結論。


 改めて、亜生は己のあやまちが身に沁みる。

「俺、なんてことしてたんだろう……」

 亜生は膝の上で両手の平を握る。

 突然、恵が声を荒げた。

「違う! そうじゃないんだ!」

 片膝を立てた恵が、テーブルに手を突いて前のめりになる。

 亜生は再び瞬きが増える。

「秘書の、腹いせだ……」

 恵は表情を歪めて、テーブルに乗せている手を強く握った。

「腹いせ……?」

 亜生は不意に首を傾げていた。


「腹いせ」とは、どういうことなのだろう。

 むしろ雪代社と仕事をしている方が、架とも繋がりがあって、咲にとっても、よいことだと思うのに。

 いつかの蘇堂の通路で見たように、会う時間が増えれば架と抱き合うことだって……。


 亜生は顔を伏せると、下唇を噛んだ。

「新條さんが……」

 恵から彼の名が出て、亜生は思わず顔を上げる。

「新條さんが、断ったから……。だから秘書が……。逆恨みもいいとこだ」

 恵は腰を下ろしてテーブルに肘を突くと、両手で頭を抱えた。

 亜生は恐る恐る、恵に問いかけた。

「……どういうこと?」

 恵は息を一つ吐くと顔を上げて、説明し始める。

「大紀くんの秘書が、新條さんに相手にもされなくて、そのあてつけで亜生たちのことを蘇堂にしゃべったんだと」

 恵は言い終えるとむくれた顔をして、今度は頬杖ほおづえを突いた。

(相手にされない……? あてつけ……?)

 恵の声から浮き出る言葉が、亜生の頭を駆け回る。


 どうなっているのか。咲と架は付き合っているとばかり思っていた。

 だから、蘇堂の通路で二人の抱擁ほうようを見た時も、咲と目が合った時も、二人がそういうことをする関係だと思い知らされたのに……。


 亜生は再び唇を噛む。

『二人は付き合ってもいなかった』、その事実に安堵している自分がいる。

 情けない。内情はどうあれ、自分が雪代社と蘇堂とのプロジェクトを台無しにしたことに変わりはない。

 未だ取引自体も処遇しょぐうもどうなるのか分かってもいない状況で、架が咲と何もなかったことの方が、自分には重要に感じているだなんて。


 亜生は自然と頭が下がって、膝を見つめていた。

「ねぇ、恵。俺ね、新條さんのことが……、好きなんだ」

 亜生は閉ざすように口を固く結ぶ。

 こんなタイミングで話すことではないと分かってはいるけれど、彼に今の自分の本心を教えないままでいるというのは、道理どうりに反する気がした。


「知ってるよ」

 恵の返事に、亜生は顔が自然と上がっていた。

 彼は眉を下げて微笑んでいる。

「何年の付き合いだと思ってんだよ。親友をめるなよ」

 恵はそう言って、歯を見せて笑った。

「呆れない? 俺のこと。お気楽なやつだって、思うでしょ……」

 亜生は目を伏せる。

 ただでさえ不倫騒動で謹慎中の身なのに、毎日時間を持てあましながら、叶いはしないけれど恋までして過ごしているだなんて、自分でも楽天的で情けない。


「それも、知ってる」

 恵の声に亜生が視線を戻すと、彼は今度はいたずらっぽく笑っていた。

「いつも言ってるだろ? 亜生は、なんでも一人で抱え込みすぎなんだって」

 恵はいつだって、亜生を暗闇からすくい上げてくれる。

 亜生は不意に涙を誘われて、照れ隠しのように小さく笑った。

「俺に甘すぎでしょ」

「それも、知ってます」

 恵は表情を緩めたまま、再びテーブルに頬杖を突く。

「まあ俺も、『過保護』って自覚あるし」

 恵はそう言うと、背伸びをしながら再び寝そべった。

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