第21話 後編

 場の空気を切り替えるようにして、櫂がソファーに背をもたれる。

「でもさ、本気の時って『けもの』になっちゃうもんだよなぁ……」

「そうかな……?」

 亜生は美里と目を合わせながら、二人で首を小さく傾げた。

「俺なんて、高校生の時に昭良に突然押し倒されてさ。あれから、あいつは時々『獣』になる」

 櫂は腕を組んで、一人納得するようにして頷いている。

 亜生が美里と顔を見合わせて笑っていると、櫂はソファーから背を離して亜生の肩を組んだ。

「あの『恵』だって、夜は『獣』になるんだぞ! なあ、美里ちゃん」

 そう話を振られて顔が赤くなった美里に、櫂は改めるようにして軽く咳払いをした。

「とにかく! 俺が言いたいのはな、亜生の『今』の気持ちが一番大事だってこと!」

 なぜか得意げに胸を張った櫂の姿に、場が和む。

 手で顔を扇いでいた美里が口を開く。

「亜生ちゃん。……大紀さんのこと、今も、好き?」  

 美里の問いかけに、亜生は静かに首を横に振る。


 初めて知った大紀と聖花の過去。

 本当は苦しいし、虚しいし、やるせないとか許せないとか、あってもよいところだとは思う。

 だけど自分でも不思議なくらい、今の亜生の心は穏やかさが戻っている。

 理由も、亜生には分かっていた。


 新條架の存在があるから。


「あのね、今、俺、好きな人がいるんだ。すごく、すごく、好きな人が」

 亜生は言葉を続けるごとに、頬が熱くなっていく。

 架のことを思うだけで、胸の辺りが温かくなるほど、自分は彼が好きなのだと再度自覚した。

 櫂と美里は互いに顔を見合わせると、次には微笑みを浮かべた。

「そうか! 亜生は今、『恋する男』なんだな! そうかぁ。あっ、こないだ髪切った時に言ってたやつだ」

「何? 何? 私にも教えて! 詳しく聞きたい!」

 二人は亜生が口を開くのを、目を輝かせて待っている。

 亜生は息を一つ吐いて、自分の気持ちを声に乗せる。

「実はね、同じ会社の……」

 その時、インターホンが鳴る。


「なんだよ、恵たちか? 今、いいところなのにぃ」

 櫂が両頬を膨らませる。

「鍵、持ってるはずなんだけど。どうしたんだろう」

 美里は腰を上げて、ドアモニターの前へと進む。


 小さく、彼女が呟いた。

「えっ、なんで?」

「どうした? 『獣』たちが帰ってきたんだろ?」

 櫂が無邪気に笑っている間も、インターホンは鳴り続けている。

 美里がこちらに振り返った。

「櫂くん、どうしよう……」

 美里の顔は強張っていて、櫂へ助けを求めている。

 尋常ではない彼女の様子に、櫂は立ち上がって、ドアモニターの前に立った。


 今度は、櫂が小さく呟く。

「は? なんで……。なんで、いるんだよ」

「櫂くん。私、恵に連絡するね」

「ああ、お願い。とりあえず、俺が出るから」

 二人の小さな会話が途切れると、美里はキッチンへ、櫂はリビングを出た。

(なんだろう……。二人とも、どうしたんだろう)

 亜生は一人リビングに残されて、美里の姿を見ていた。

「恵、今どこ? 昭良くんとすぐに帰ってきて」

 電話越しに、美里は声を震わせている。


 その時、櫂の声が聞こえてきた。

 リビングから玄関へと続く扉は閉まっているにも関わらず、櫂の声はそれを通り越している。

 亜生は立ち上がって、櫂の声が響く扉へと近づいた。

 ドアノブに手を掛けた時、櫂の怒鳴り声が聞き取れた。


『ここから先は通さねぇから!』

『お願いだ。亜生に会いたいんだ……』


 開けた扉の隙間から、櫂の背中と、その向こうに、大紀がいる。

(なんで? なんでいるの? なんで……)

 亜生は隙間をそれ以上開けられずに、固唾を吞んだ。


 大紀の頭が何度も下に向く。

 櫂は仁王立ちのごとく、玄関へと向いている。

『ここは、お前が来ていい場所じゃない』

 亜生は握っているドアノブに力が入った。

 今すぐ二人の間に入って止めなくてはと思う一方で、足が動かない。


 自分のせいで二人は今も仲違なかたがいしている。

 自分と関わらなければ、出会わなければ、大紀が怒鳴られることも、頭を下げることもなかった。櫂が怒ることも、声を荒げることもなかった。

 他に考えることがたくさんあるのに、胸だけが苦しくなる。


 櫂の苛立ちが、彼の背中越しからも伝わってくる。

『分かっただろ! お前じゃ、亜生は幸せになれない。いい加減、お前はお前の居場所に帰れ!』

 その時、大紀の後ろに人影が現れる。

 恵と昭良が、大紀の腕を両側から組んだ。

 諭すように恵が口を開く。

『大紀くん、なんで来てんだよ。ていうか、よく来れたな』

『恵、頼むよ。亜生に会わせてくれ』

 大紀の言葉を、櫂の声が上書きする。

『ふざけんなよ、会わせねぇから!』

 亜生は自分が原因の言い合いに見ていられなくなって、扉を押しあけようした。

 美里の手に止められる。

 彼女は首を横に振って、扉を閉めた。


 扉の向こう側の彼らの声が、徐々に静かになっていく。

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