第17話 中編

 架は焦っていた。自分が目を離した隙に亜生が蘇堂に、しかも一人で行くなんて。胸騒ぎがする。

 タクシーの扉が開くと同時に、架は走り出した。

 蘇堂本社ビルの白銀はくぎんのエントランスを抜けて、受付前で声を張り上げる。

「雪代社の新條ですが、常務の香山さんはいらっしゃいますよね」

 返答を待ちながら息を整える架に、受付の人は言う。

「本日はお約束されていますでしょうか」

「いや、していませんが。先に、弊社の佐久田が来ているはずです」

 架は受付のカウンターに両手を突く。

「大変申し訳ございませんが、改めてお約束をお取りいただけますでしょうか」

「そんな……。いや、そう、香山さんからプロジェクトに関する確認のお電話がありまして、担当の私が参りました」

「申し訳ございません。本日はお通しいたしかねます」

「なぜですか!」

 架は再び声を張り上げた。

(上の階に必ず亜生はいる。いるはずなのに、なんでここから進めないんだ……)

 架は歯痒さで苛立いらだつ。受付係に何度交渉しても、答えは「申し訳ございません」の一点張り。

 荒ぶる呼吸をしずめるように、架は天井を見上げた。

 その時、後ろから女性の声がする。

「新條さん」

 名前を呼ばれて、架は振り向いた。

 大紀の妻の聖花が立っている。

 聖花は茶色の長い髪を揺らして、カウンター前に歩いてきた。

「すみません。お話しが聞こえて」

 睫毛だけを瞬かせて、聖花が架に言う。

 次に彼女は受付に向けて話した。

「香山に会いに来ましたの。彼は私の同行者です。お通しいただけますよね」

 聖花は柔らかい口調で圧を掛ける。

 受付係は苦笑いを浮かべると、辿々たどたどしく「どうぞ」と一言。

「ありがとう」

 聖花は微笑み混じりにそう言葉を返すと、体の向きを変えて歩き始めた。

 彼女が言うには、今日のこの時間はあの人は常務室にいるとのこと。

 架は聖花とともにエレベーターに乗り込む。


 内心、架は安堵していた。ここで彼女に会わなければ、亜生の元まで辿り着けないところだった。

 エレベーターのガラスの外が地上を離れて数秒。階の表示を見つめる聖花が、小さく冷たい声を発した。

「……二人は、何かしてるんですね」

 架は返事に困る。自分だって「亜生があの人に呼ばれた」という事実だけを知って、憶測でここまで来た。

 あの人と亜生が何をしているのか、確証かくしょうはない。

 ただ、亜生と仕事の話をしていないことは明白。蘇堂の担当者は、自分なのだから。

「私は、亜生を取り戻しにきただけです」

 架は唇を噛む。

 聖花はにらむようにして一度こちらを見たあと、再び表示に向き戻る。

 架は自然と溜め息が溢れた。

 彼女にしてみれば、自分と夫の間に割って入られて複雑な心境なのは同情する。

 けれど、非は亜生だけにあるのだろうか。

 自分の夫のしていることを、彼女はどこまで分かっているのだろう……。


 エレベーターが上層階で停まる。

 扉が開くと同時に、聖花が言った。

「迷惑なのよ。佐久田亜生に、私たち夫婦の仲を掻き回されるのは」

 捨て台詞ぜりふのように、彼女はエレベーターを降りる。

 架は怒りが込み上げる。どう考えても、掻き回しているのはあの人、香山大紀。それがなぜ亜生にだけ矛先を向けているのか、架は彼女の理屈が理解できない。

 架はエレベーターを降りて彼女の隣を歩きながら、言葉を投げかける。

「それは、こちらの方です」

 聖花の態度も表情も、あからさまに不機嫌だった。

「……常務室に行けば、分かるわ」

 吐き捨てるようにそう言った聖花は、歩調を速める。彼女はどうしても亜生が気に食わないらしい。

 ガラス壁の部屋が続く通路を、聖花は奥へと歩く。架は彼女の後ろを付いていく。


 聖花が磨りガラスの扉の前で足を止めた。

「ここよ」

 磨りガラスの扉の横には『常務室』と書かれたプレートがある。この一室だけ、不自然に壁が見通せないガラスに変わっていて、外から中が確認できない。

 架は途端に血の気が引く。いやな予感しかしない。

 中へ入ろうと、架が扉のノブに手を掛けようとした時、一足先に聖花が扉を勢いよく開け入る。

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