第17話 後編

「なんなの……? 何してるのよ!」

 怒り狂った女性の声が、部屋中に響いた。

 次の瞬間、亜生の上に跨っていた大紀が、鈍い音とともに倒れ落ちる。

 突然のことに、驚いた亜生が体を起こすと、傍に架が立っていた。

「大丈夫?」

 架は眉を顰めながら亜生の肩に触れた。

 その時、靴音が近づいて、再び怒る女性の声がする。

「なんで? なんで、いつもいつも、私たちの邪魔じゃまをするの!」

 真横で張り上げられた声の持ち主は、大紀の妻の聖花だった。

 聖花はまさに鬼の形相ぎょうそうで、亜生を睨みつけながら言葉を投げてくる。

「あなたのせいよ! あなたさえ、あなたさえいなければ!」

 聖花が片腕を振り上げた。

 殴られる、と亜生は咄嗟に目を閉じて、両手で頭を覆う。


 けれど、肌が突き当たる音はしても、全く痛みを感じなかった。

 亜生が恐る恐る目を開けると、聖花の腕を架が押さえている。

「恋愛に『誰のせい』とか、ないんじゃないですか?」

 静かな声色こわいろの架は聖花の腕を下ろして離すと、さらに言葉を続けた。

「今、あなたが向き合うべき人は、香山さんですよ」

 架は視線を変える。

 片膝を立てたまま床に座り込んで俯く大紀に、架は言い放った。

「香山さん。今日がなんの日か、ご存知ぞんじですよね。なぜ、こんなことをするんですか」

 その時、何かがこまかく鳴る音が聞こえてきて、立ちすくんだ聖花が、拳を握ったまま下唇を震わせている。

 彼女は先ほどとは違って、どこか悔しさのようなものをにじませた顔をしている。

「何よ……」

 聖花はそう呟いて、髪を揺らしながら体の向きを変えて扉へ向かう。

 大紀が静かに顔を上げた。

 彼は「聖花」と力なく呟くと、慌てるように立ち上がって、彼女のあとを追う。


 大紀は亜生に見向きもせずに、傍を通り過ぎた。


 まるで、彼の視界には、彼女しか存在していないかのように。


 長い恋の終止符が、ようやく打たれた瞬間だった。

 部屋を出ていく大紀の背が見えなくなると、亜生は『呪縛じゅばく』から解き放たれたような気分になって、自然と肩から力が抜けた。

 安堵と、一種の悲痛が入り混じっている。

 だけど不思議なことに、大紀の笑顔だけが思い出として心の中に残っていた。


 亜生が好きだった大紀の姿。

 嫌いになって別れた訳じゃない。

 彼との『縁』はここまでだったというだけのこと。


 亜生は本当の意味で、胸を撫で下ろす。

 その時、亜生は背後から抱きしめられる。


 架の黒髪が亜生の頬に触れて、彼の清涼な香りが鼻元に漂う。

 彼の穏やかな息遣いが、耳元から静かに伝ってくる。

 自分の好きな人は『架』だと、亜生は改めてその事実を噛みしめた。

 けれど今、自分は〈失恋したゲイ〉で、おそらく彼はそれに同情してくれているだけ。

 そうでなければ、抱きしめたりするはずがない。

 彼自身にゲイへの偏見がない分、彼の温かさで余計に傷つく。


「俺はもう大丈夫ですから。……さっきは、ありがとうございました」

 亜生は言葉を掛けながら、架の腕を解いて振り返った。

 眉を顰めている架の顔を見ていると、切なさが込み上げてきて、たまらなくなる。

 今は架の優しさ全てが痛くて、亜生は涙が溢れてきた。


 架への想い。叶わない想い。

 亜生の心をむしばむように広がっていく。


 架の両手が亜生の頬に触れた。

 彼は溢れ出ていく亜生の涙を親指で拭い続けては、目を合わせて逸らさない。


 架の黒い瞳に自分が映る。

 彼の長い睫毛が揺れる度に、左の目尻のほくろに影が落ちる。

 亜生はただただ放心したように、架を見つめていた。


 不意に、架が微笑む。

 次には、亜生は彼の胸の中にいた。

 体中が架の香りに浸されて、耳元に今度は架の心音が伝う。

 気を失いそうになるほどの幸せが、心と体を包む。

 だけど次には、悲しみが押し寄せた。


 架の腕の中にいるべきなのは、自分じゃない。

 いつまでも、この胸にしがみついてはいけない。


 亜生は再び彼の腕を解く。

「ありがとうございます……」

 亜生は顔を伏せたまま架に伝えると、床にある自分の鞄を拾い上げる。

「あの、俺……」

 何かを言いかけた架に、亜生は背中を向けたまま遮る。

「先に社に戻ります。今日は本当にありがとうございました」

 亜生の腕を架が掴んだ。だけど、亜生はこれ以上この場にいるのが耐えられない。

「すみません……。一人に、してください」

 亜生が呟くと、架は掴んでいた手を静かに離した。

 これでいいんだ、と亜生は自分に言い聞かせながら、一人、部屋を出る。


 帰社の道中、亜生は様々なことに思いをせていた。

 冷静になるにつれて〈昔の恋のいざこざを、今の好きな人に見られていた〉という現実に、亜生は頭を痛める。

 同僚として、一人の男として、これ以上はないというほどの醜態しゅうたいさらしたこと。仕事に私情に挟んだこと。迷惑を掛けたこと。それから、架と聖花を巻き込んだこと。

 亜生はこれから架とどう接していけばいいのか、今度は頭を悩ませる。

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