第17話 前編

 見上げた蘇堂の本社ビルは、相変わらず胸やけがするほどの高層。

 夏の入りが近い太陽が建物一面の窓ガラスに反射して、眩しさが容赦ようしゃなく目を刺す。

 亜生は大きな溜め息が自然と零れて、気持ちとは正反対に両足はエントランスへと向かう。


 ガラス張りの中央にある受付へ進む。大紀の名を口にすると、受付の社員はなぜか「お待ちしておりました」と言って、亜生をエレベーターへ誘導した。

 亜生と迎えの社員を乗せたエレベーターは、いつも行くミーティングルームの階ではなく、高層階で止まる。

 一緒に乗っていた社員に「こちらです」と言われるがまま、亜生は後ろを付いていく。

 片側一面磨りガラスの壁伝いを突き当たって、一番奥の部屋に通される。

 一瞬、ルームプレートらしきものを目に捉えるも、社員が再び「こちらです」と不意に声を掛けてきたので、何が書かれていたのかはよく分からなかった。

 室内を隔てるように、透明なガラス壁がある。社員が一枚だけ磨りガラスになっている扉を叩くと、中から返事が聞こえた。

 社員は扉を開けると、亜生だけを通して扉を閉める。


 青白く明るい、静かな室内。

 手前には黒い革張りのソファーセットとガラスのローテーブルが置かれている。

 陽が照らす正面の窓際に置かれた大きなデスクを挟んで、こちらに背を向けたスーツ姿の男が立っていた。

 確認するまでもなく、大紀だった。


「来てくれて、嬉しいよ」

 背中越しに大紀が言う。

 デスク上にはガラス製みたいなプレートが置かれて、『代表取締役常務 香山大紀』と書かれている。

 亜生は「仕事」と気を引きしめ直して、彼の背に向かって声を掛けた。

「雪代社の佐久田です。早速ですが、資料を持参しました」

 大紀は動く様子がない。

 亜生は気まずさに負けずに、再び彼に声を掛ける。

「本日の確認事項の件ですが、どちらでしょうか」

 その時、電子音が一つ聞こえて、大紀が再び背中越しに答えた。

「見えないようにしたから」

 大紀の言葉に亜生が後ろを見ると、先ほどまで見通せていたはずのガラスの壁が、磨りガラスへと変わっている。

「座って」

 大紀の声で亜生が向き戻ると、彼はこちらを向いていた。

 亜生は自分から一番近いソファーの端へと腰を下ろす。持ってきた資料を取り出そうと鞄に手を触れると、大紀に腕を掴まれた。

「これ、どうした」

 大紀は亜生の腕を引き寄せて、手首を見つめている。

 彼の視線の先には、黒の腕時計。

 架が亜生にと贈ったくれた、誕生日プレゼント。

「別に、どうもしません」

 顔を伏せながら、亜生は無難に答えた。

 大紀からは、今日も亜生との思い出の香りがしている。

「でもこれ、亜生の趣味じゃないよな」

 大紀は腰を曲げて亜生を覗き込みながら、手の力を強める。

「……あいつから、もらったのか?」

 問いかける大紀の漆黒の瞳は、亜生から逸らそうとしない。

 亜生は固唾かたずを吞むと、たまらず話を戻した。

「あの、本題に入りましょう。『直接確認したいことがある』ということでしたよね」

 亜生は仕事の口調で返して、もう片方の手で鞄に触れる。

 その時、大紀が静かに答えた。

「そうだな、あるよ。直接確認したいこと」

 肩までも大紀に掴まれた亜生は、反動で鞄が床に落下した。

「亜生の気持ちだ」

「えっ?」

 亜生が顔を向けると、大紀は眉を顰めていた。

 彼は隣に座って、亜生の両手ごと自分の膝の上に下ろす。

 大紀は静かに息を整え直したかと思うと、亜生の目を見つめながら口を開いた。

「亜生、誕生日おめでとう。あれから一年も経ったなんて、信じられない」

 突然、彼はソファーから腰を上げた。次には床に片膝を突く。

 驚く亜生をよそに、大紀の漆黒の瞳が再び見つめてくる。

「亜生、愛してる。一年前の俺たちに戻らないか?」

 大紀はそう言葉を紡いだ。目尻を下げる彼の両手には力が込められて、震えている。

 こんなに弱々しい大紀を見たのは、初めてだった。


 いつでも、どんな時でも冷静で、付き合っていた十年の間、大紀は亜生の考えを優先して、気持ちをんでくれていた。

 けれど、それがいつも『嬉しい』という訳では決してなかった。

 彼がそうする度に、亜生は心のどこかで、彼にとっての自分の存在は『どうでもいい人』と位置づけられているのではないかと感じてならなかった。『その先がない』とも感じていた。

 わがままだと、自分でも思う。今となっては、大紀の優しさに甘えていただけなのかもしれない。

 けれど、自分自身がこの恋を大切にしすぎていたが故に、彼が『自分以外の人との結婚』を選んだ時に、「なぜ」「どうして」と思う反面「ああ、やはりそうか」と納得した。

 それなのに今、目の前で彼は「戻りたい」と言う。


 終わりを始めたのは彼で、終わらせたのは自分。


 部屋の窓辺に、ガラス越しに黄色がかった陽光が当たる。

 無機質な青白い照明と混ざり合うことなく、まるで自分と大紀のこれからを〈見える形〉で表しているみたい。 

「無理だよ」

 亜生が言葉を零すと、彼の顔は次第に強張こわばっていく。

「なんでだよ……。愛してるんだ」

 大紀は再び両手に力を込めた。

「愛してる、亜生。愛してる」

 何度も繰り返す大紀を、亜生は遮る。

「もう、やめよう」

「なんで、なんでだよ……。俺は……、亜生を愛してる」

 大紀は顔を伏せていく。

 亜生は胸が痛んだ。だけどそれは『愛情』というよりも『同情』に近いものだった。

 大紀は俯いたまま、静かに言葉を続ける。

「もう、どうすればいいか、分からない」

 彼の声が、か細くなっていく。

「俺は、どうすればいい? 亜生がしろと言うなら、離婚だって……」

 大紀のその言葉に、亜生はたまらず声を挟む。

「それを、俺が決めるの?」

 亜生は悔しさが込み上げた。今まで呑み込んでいた言葉が次々と雪崩れる。

「じゃあなんで、今、結婚してるの? 俺のこと、愛してないんだよ」

 亜生が言い終わると、大紀は顔を上げて、眉間に皺を寄せながら見つめ返してくる。

 彼は言葉に詰まっている、と見て取れた。

「話は終わったよね」

 亜生は溜め息混じりにそう言って、大紀の手を離そうとした。

「……離婚、すればいいのか?」

 彼の言葉に、亜生は今度は怒りのようなものが込み上げる。

「なんで今さら、そんなこと言うの? 俺のこと、本当に好きなら……、結婚なんてしてないよ!」


 言い終わった瞬間、亜生は座っていたはずのソファーの上で大紀に組み敷かれた。

 大紀は亜生にまたがって、身動きが取れないように両腕を拘束している。

 亜生は呆れたように言葉を零す。

「なんなの? いい加減にしてよ」

「なんでだよ……。俺は、亜生を愛してる。愛してる……」

 呟く大紀の顔は前髪で覆われて、表情は分からない。だけど彼が言葉を繰り返す姿に、彼が何かに苦しんでいるように思えた。

「大紀くん?」

 亜生が名前を呼んだ時、部屋の扉が勢いよく開く音がした。

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