第16話 後編

 テラスが見える社食内、大きなガラスの壁と窓が続く。

 今日の空は晴れ間があるので、外の席で歓談している社員も多い。

 互いにメニューを選び終えると、架は唐突にも「誕生日だから、ごちそうさせて」と、いつの間にか会計を済ませていた。

 先ほどから機嫌がよい様子で絶え間なく笑顔を浮かべている架に少しだけ戸惑いながらも、亜生は昼食を手に彼とともに席に着く。

 向かい合って昼食をとる中、架が不意に亜生の左手に触れた。

「着けてくれたんだ」

 架がくれた黒の腕時計。亜生はそのまま部署の席に置いておくのは物騒ぶっそうだと、実は昼食前、密かに着けてきた。

「はい。あのこれ、ありがとうございます」

 亜生は自然と微笑む。

 架も釣られたかのように亜生へと微笑み返した。


 なごやかな時間が流れていると、亜生は感じていた。

 もちろん、咲のことは頭の片隅にはある。だけど今この瞬間だけは、亜生は「架を独占している」という気持ちに浸っていた。


 何気ない会話の流れに添って、亜生は架に問いかける。

「新條さんの誕生日はいつですか?」

「俺の? 俺は四月。今年はもう過ぎちゃった」

 架はそう言ってなぜか残念がる。その姿が可愛くて、なんともたまらない。

 亜生は手元に目線を落としながら、照れ隠しに話を続ける。

「そうなんですね。お礼に、俺も新條さんに、誕生日プレゼントを贈りたかったんですけど」

 これは本心から出た亜生の言葉だった。

 架は亜生の想像していたよりも斜め上の答えを返してくる。

「それじゃあ、来年の俺の誕生日、一緒に祝ってね。亜生」

「えっ? あ、ああ、はい……」

 亜生は戸惑いながらもなんとか返事をしたけれど、目の前で笑みを浮かべる架を見ていると、自然と頬が緩んでくる。

 昼のほんのひととき、亜生は静かに喜びを噛みしめていた。


 しばらくして、どこからか女性が現れた。

「あの、新條さん。ご一緒してもいいですか?」

 笑顔を向けているこの女性は、初めて見る人だった。

 彼女の首から下がる社員証には『経理部』と書かれている。架と顔見知りなのかだろうか、彼女は期待に満ちたような顔をして彼を見ている。

 架は一度視線を下げたあと、軽く息を吐いた。

「ええっと、経理部? の方ですか。すみませんが、今は彼と食事中なので」

 架はどうやら彼女と面識がなかった様子。

 彼女は二度食い下がった。三度目に架から語気を強めた「すみません」を受けると、彼女は苦笑いを浮かべて静かに去っていった。

「ごめんね」

 架は再び軽く息を吐くと、眉を顰めて微笑んだ。

「いえ、大丈夫です」

 たとえ僅かな時間だとしても、自分が架を拘束しているような罪悪感はどうしても消えてはくれない。

 亜生は思い出したかのように顔を伏せた。

「俺、午後から社外で直帰だったからさ。社食だけど、亜生の誕生日を一緒に祝えてよかった」

 架の言葉に亜生が顔を戻すと、彼は優しい笑みを浮かべていた。

「……こちらこそ、ありがとうございます」

 亜生はそう返しながら、自然と架に見惚れた。

(やっぱり俺……、新條さんのこと、好きだなぁ……)

 その時不意に、架の手が亜生の目の前へと伸びる。その手は亜生の頬を包むように触れながら首へと流れた。

 とても長い一瞬だった。

 架は再び優しく微笑むと「もう時間だ」と言って、仕事に戻った。


 その場に残された亜生は、架の手の温もりと微笑みを反芻はんすうした。けれどその度、架への恋心に過去の戒めが重くのしかかって、亜生は震える唇を噛む。


 * * *


 部署に戻るとすぐに、亜生は部署長である峯島に呼ばれた。

 峯島は昼休憩中に伝言を受けたと言って、亜生にメモを一枚渡す。


『蘇堂の香山常務より。十五時に蘇堂本社会議室』


 なんでも『直接確認したいことがある』らしく、それを受けた峯島は本来の担当である架を直接蘇堂本社へ向かわせると促したけれど、大紀が亜生で構わないと言ったらしい。

 これはあくまでも、仕事上の連絡に過ぎない。それでも亜生は正直、気が重かった。

 だけど私情を挟んではいけないと、亜生は一人、蘇堂本社へと向かう。

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