第16話 前編

 今日は、亜生の二十八歳の誕生日。

 昨年は大紀と二人で亜生の部屋でお祝いをする直前、彼から「自分以外の人との『結婚』」を告げられた。

 あの時は「何も誕生日に言わなくても」と憤りを感じていたこともあったけれど、今は彼に対する想いは「終わった恋」と実感している。

 彼自身が今でも自分たちの『過去』にとらわれている姿を目の当たりにして、あの誕生日の出来事は彼なりの良心だったのかもしれないと、一年経ってようやくそう考えられるようになった。

 恋愛は、特に自分のような人間にとっての恋愛は、誰よりも傷つけ合わずにはいられないのだろう。


 朝、亜生はいつものように自宅マンションを出た。

 梅雨空と揃いの灰色のスーツに身を包んだ亜生は、通い慣れた並木道を通る。

 晴れている訳でもない日が、昨日とは少しだけ特別に感じて、少しだけ世界が違って見えるのは、「一つ大人になったからなのかもしれないな」と、亜生は『誕生日』という今日だけは心穏やかに過ごそうと決める。


 亜生が部署に入ると、自分の席に恵が座っていた。

 恵は前から「誕生日は開けておくように」と亜生に言っていた通り、今夕こんせきは就業後に会社前で美里と合流、そのあと櫂と昭良が待つ店に向かうらしい。

「いいか。今日はみんな、亜生の誕生日を祝うのを楽しみにしてるんだ」

 恵はなぜか鼻息を荒げている。

「そんなに気を使わなくても」と亜生が謙虚けんきょに答えると、恵は少し俯いた。

「去年の分まで祝いたいんだよ。俺もみんなも」


 恵は昨年の亜生の誕生日に何があったのかを知っている。

 正確には、大紀が恵たちの実家に立ち寄った際、櫂が問い詰めたらしい。

 そのあと、恵夫婦は納得しないながらも大紀の結婚式に参列したらしいけれど、櫂は拒否。

 昭良共々、結局は参列しなかったと聞いた。


 亜生はこの一年、申し訳ない気持ちで一杯だった。

 櫂と恵は大紀の従兄弟。親族にも関わらず、その櫂が結婚式にはいなかった。原因が自分と大紀の痴情のもつれだったなんて、本来ならば櫂にも恵にも彼らの親族にも、亜生は合わせる顔がない。元凶である自分の誕生日を、彼らに祝ってもらえる資格なんてない。

 亜生は彼らの申し出を何度も断っていた。だけど彼らはそれすらお見通しで、引くどころか、結局押し切られたのだった。


「迎えにくるからな。逃げるなよ」

 恵は亜生にそう釘を刺して、彼は自分の部署へと戻っていった。

 自分は本当に彼らに愛されている。そう分かってはいるけれど、亜生はその愛を受け取るに自分はあたいしないような気持ちにもなる。

 亜生は自分の席に腰を下ろすと、溜め息が零れていた。


「佐久田くん、おはよう」

 隣で聞こえた声に亜生が振り向くと、架が微笑んでいた。

 亜生は同僚としての「おはようございます」に愛想笑いを付けてから、さりげなく視線を逸らす。

 亜生がここ数週で習得した、架を自然に躱す技。

 架は相変わらず、いや、今まで以上に、何気ないことや特段の理由のない時にでも話しかけてくる。

 その度に亜生はこうして彼からすり抜けては、胸が張り裂けそうに痛む。

 亜生がいたたまれずに休憩室に向かおうと席を立つと、今日は架も後ろから付いてきた。


 コーヒーを淹れようと、亜生はポーションを手にとる。

 亜生の隣に架が立った。彼の着けている香水が、亜生の鼻先を包む。

 架の香りは今では切なく感じて、胸が苦しくなる。

 亜生は気持ちを切り替えるように、同僚として極めて冷静に言葉を紡ぐ。

「新條さんの分も入れましょうか?」

 架は優しい笑みで「ありがとう」と言った。


 今は、二人きり。

 カップにコーヒーを注ぐ音だけが響く。


「誕生日、おめでとう。亜生」

 架の突然の言葉に、カップに添えていた亜生の手が震える。

 不意に下の名前で呼ばれて、心臓が彼の手で掴まれたようだった。

 今朝の恵との会話が彼に聞こえていたのだろうと、亜生はすぐさま気持ちを立て直す。

「ありがとう、ございます」

 無理やり口角を上げて微笑んではみたものの、さすがに架の顔までは見ることができなかった。

「本当は、今晩一緒に食事でもと思ったんだけど。先約があるみたいだし、これだけ渡すよ」

 架はそう言って、カップの傍に茶系の紙袋を置いた。

「えっ……、あの……」

 言葉に、反応に困る亜生に、架は言葉を続ける。

「亜生に、誕生日プレゼント」

「そ、そんな……、いただけません。この前も、香水をいただいたばかりなのに」

 思わず亜生が顔を上げると、架は目尻を下げながらこちらを見ていた。

「それはそれだよ。気に入ってくれると、嬉しいな」

 そう話す架を見ながら、亜生は込み上げてくる彼への想いや嬉しさをこらえる。

(同僚として、誕生日を祝ってくれてる。それだけ。それだけ!)

 自分をなだめるように、言い聞かせるように、亜生は頭の中で何度もそうとなえる。

「あの、ありがとうございます。新條さん」

 亜生はそう答えると、不意に笑みが漏れ出た。

 カップに添えていた亜生の手に、架は微笑みながら手を重ねる。

「よかった。……じゃあ、俺はこれをもらっていくね」

 架はなぜか上機嫌で、カップを片手に部署へと戻っていく。


 架に触れられたところから、熱が全身へと回って、亜生は息を吐きながら両手で顔を扇ぐ。

 目の前に置かれている紙袋には、白いブランドロゴがある。

(これ、たぶん高いよね……)

 紙袋を開いて、橙色だいだいいろのリボンが掛かる黒い箱を取り出した。

 リボンを解く。紙袋と同様のロゴがあるふたを開けると、黒の革状の小さなクッションに支えられるようにして、腕時計が入っていた。

 黒のレザーベルトに、黒のふちりの銀の文字盤。時刻代わりのインデックスと針は同じく銀色。シンプルでありながら、洗練されている。

「すごい。なんか、新條さんみたいだ」

 亜生は思わず言葉と笑みを零すと、静かに箱を閉めた。


『亜生』

 頭の中で、架の声が鳴り響く。

 彼が名前で呼ぶ必要はもうないはずなのに、彼はなぜかそれをやめない。

 けれどそれより、架に名前を呼ばれるだけで、亜生の心は一瞬で飛び跳ねる。


 プレゼントの入った紙袋とコーヒーを持って、亜生は部署に戻った。

 隣の席の架は、数名の女性社員に囲まれながら仕事をしている。

 話が終わりかけたその時、一人の女性が甘えるような声で「今日、社食ですよね? 私もご一緒してもいいですか?」と彼に問いかけた。

 いつものように女性を躱すかと思いきや、架は少し照れたように口を開く。

「今日は先約があるんだ。……ねえ、佐久田くん?」

 架は座っていた椅子をなぜかこちらに近づけた。

 突然のことに、亜生が瞬きを繰り返しながら返答に困っていると、架が言葉を続ける。

「そういうことなんで、ごめんね」

 女性は少し残念そうにしながらも、笑顔を保ちながら部署を出ていく。

「あの、いいんですか?」

 亜生は女性が少々気の毒に思えて架に問うと、逆に小声で彼に問いかけられる。

「『嘘じゃない』っていうか……。ええっと、今日、佐久田くんと一緒に、社食に行きたいな?」

 頬を緩める架に対して、亜生は「なぜ?」と思いながらも、先ほど彼からプレゼントをもらった手前、断るのもなんだか都合がよすぎる気がして、彼の誘いに答えることにする。

「今日は俺も社食なので。俺でよければ、ご一緒させてください」

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