第9話

 亜生とともに蘇堂から戻った架は、部署の自分の席にかばんを置いて休憩室に向かう。


 架はコーヒーのポーションを手にとって、マシーンのスイッチを押す。

 カップに注がれていくコーヒーを一点に見つめながら、架は先ほどまでいた蘇堂の通路を思い返した。


 訳が分からない。いや、本当はなんとなく察しはついていた。知り合いだかなんだかで、先方が亜生を名指しした時から。

 亜生を見るあの人の目は最初から、単なる知人のそれではなく、愛しい人に向けるものだった。

 蘇堂の周りは未だ気づいていないのか? おそらくあの人は用意周到しゅうとうに、いや、もしかすると蘇堂側の口を封じる何かがあるのかもしれない。


 架は自然とこぶしを握っていた。

(俺が付いていながら……)

 誰にでも過去はある。もちろん、自分だって多少の恋愛遍歴へんれきはある。

 だけど、あの人は結婚している。

 それも、「女性」と。

(まさか、あんな……、わざとらしく跡まで付けるとは……)

 下の名前で呼び合う間柄あいだがらだからといって、あの人は亜生に何を求めているのか。

 架は目頭を押さえる。

(佐久田くんも佐久田くんだ。なぜ拒まない)

 苦しんでいるのは歴然れきぜんなのに、彼はあの人を受け入れている。

(こんなはずじゃ……)

 架は調子をくずされた。亜生に会うために異動願いまで出して、手土産てみやげ代わりの蘇堂とのプロジェクトだったというのに。これではまるで噛ませ犬。

 架は大きな息を一つ吐いた。


 二年前、架が出向先から雪代社に出張で戻ったある日のこと。

 当時、入社一年目で営業部に配属されたばかりの知り合いがいた。彼は架の友人仁科にしなの弟で、昔から家族ぐるみの付き合い。挨拶がてら顔を見に寄ったところ、彼から仕事の相談を受ける。

 内容自体はすぐに解決。けれど度々話に出る『企画開発部の佐久田さん』が、架は妙に気になった。

「優しい」だの「親切」だのから始まって、きわめつけは「美人」。

 正直、「男相手に美人も何も」と架は受け流していたけれど、仁科弟に「架さんも会えば分かる」と言われて企画開発部に連れて行かれた。

 それが、架が亜生に出逢った日。

 架の一目惚れだった。それも生まれて初めての。しかも同じ「男」に。

 亜生とは軽く挨拶を交わした程度。厳密げんみつにいうと、架は名乗ってはいない。仁科弟が「兄の友人」だと言ったから。

 それでも帰り際、架が落とした入館証を亜生が拾って手渡してくれた時、微笑んだ彼を見て「俺はこの子と結婚するんだな」と体に稲妻が駆けた。

 それからの架は、本社に戻るべく(正確には企画開発部に異動するべく)手筈てはずを整えていった。


 全てが順調に進んでいたところに、あの人が現れた。


 架は再び大きな息を吐く。

 湯気ゆげ立つコーヒーカップを前に、架は握っていた手の平を緩めた。

 正直、亜生が同性とも付き合えるということは、架にとっては嬉しい誤算ごさん

 けれど、なぜかあの人に必要以上の気を遣っている亜生へ、現状「ただの同僚」の自分が掛ける言葉なんてどれも届かないだろう。

 それでも自分の気持ちを自覚してから約二年、亜生に会うためだけに生きてきた。

 だけど、自分の気持ちを伝えるどころの話ではなくなった。

 傷ついていく彼を、あの人から守り切る。

 おのれの全てを掛けて。


「あっ。……お疲れ様です」

 架を見るなり、恵は気まずそうに挨拶をする。

「お疲れ様です」

 架は微笑みながらコーヒーカップを手にして答えると、恵に場所をゆずった。

「どうも」

 恵は再び気まずそうに返事をして、ポーションを選ぶ。

 架はカップに口を付けながら、マシーンのスイッチを押した恵に言葉を掛けた。

「……営業部の、幡川くんだったよね。佐久田くんの友人の」

 恵はこちらを見ずに答える。

「そうですけど。何か」

 彼は明らかに「話しかけられたくない」と態度で示しているけれど、架には渡りに船だった。


 彼は、亜生の友人。それも「幼馴染」という深い仲。

 亜生とあの人との『関係』を、知らないことはないだろう。

 けれど万が一、亜生が彼にもあの人とのことを隠していたら……。

 架は様子を窺うように話を切り出す。

「俺、今、佐久田くんと一緒に、『蘇堂』とのプロジェクトを進めてるんだけどね」

 恵の眉間に皺が寄る。

 カップを置いた架は、横目で恵を確認しながら、わざと彼にけしかけるように問いかけた。

「先方が佐久田くんと知り合いだったんだ。二人とも親しいみたいだね。もしかしたら、幡川くんも知り合いなのかな?」

 彼は今度は下唇を噛んでいる。

 架はけに出た。

「……蘇堂の常務で、『香山さん』っていうんだけどね」

 途端に、恵が架の胸ぐらを掴む。

 恵は目を座らせながら、架に呟く。

「声、小さくしてもらっても?」

 架は確信に変わる。


 恵が架の襟を掴んだまま大きく息を吐くと、今度は小声で話す。

「俺にそんな話を振ってくるなんて、どういうつもりですか」

 架は恵を見つめた。

「君があの二人の関係を知ってるのなら、話は早い」

 架は恵に、今日自分が見た光景を説明する。

 恵はあの人が亜生に付けた跡のことを聞くなり、青ざめたような顔になる。

 架の襟から恵の手が離れる。力なく、彼は言う。

「そうですか……。あの、教えてくれてありがとうございました。……絆創膏も」

 恵は俯きながらマシーンに向き戻った。

「すみませんが、このことは内密にしていただけますか。あとは俺がなんとかしてみるんで」

 恵は片手で口元を覆った。

 架は彼の返答に、蚊帳の外に置かれた気分になる。


 確かに彼は、亜生とあの人に何があったのかを知っているのだろう。彼なりの責任から出た言葉なのも理解できる。

 だけど、架は自分の好きな人が目の前で傷つく様を見せられて、大人しくしていられるほど人間ができてはいない。


 架は自然と口が開く。

「佐久田くんに……、あの人が、香山さんが跡を付けたと知った時、気がくるいそうだった」

 架は自分の言葉で嫉妬しっとが込み上げて、再び目頭を押さえた。

 感情が理性を上回りそうな自分がいて、架は正直驚いている。


「……新條さん?」

 恵の呼びかけで、架は目元から手を外した。

 こちらを向いていた恵は、驚いたような顔を見せている。

 架は苦笑いを浮かべながら、恵に話す。

「……俺さ、前からずっと、佐久田くんが好きなんだ。あっ、本人には、まだ、伝えてはいなくて」

 唇が動くごとに、声が震えていくのが分かる。

 架は咄嗟に恵から視線を逸らす。

 情けないけれど、自分の気持ちを口に出したのは初めてだった。

 目元が熱くなっていく。息も浅い。架はたまらず天井を見て、呼吸を整える。

「失礼ですけど、新條さんってその、ノーマルですよね」

 恵に淡々と言われて、架は思わず声が荒ぶる。

「そうだよ! それがなんだ! ノーマルじゃ、俺じゃ、ダメなのか!」

 架は肩を揺らしながら息をする。

 恵にしてみれば、事実確認のような質問だったのだろう。けれど、架は亜生への本気の想いを、「ノーマル」というだけで否定された気がした。

 恵は瞬きを繰り返している。当然の反応。

 架は八つ当たりにも似た自分の態度に申し訳なくなって、その場の空気を直すように軽く咳払せきばらいをした。

「ごめん……」

 すると、恵が口を開く。

「いや……。ていうか、新條さんて婚約してるんじゃないんですか?」

 架は初めて聞く問いに、呆気あっけにとられる。

「なんだ、それ。俺はこの二年、佐久田くん一筋ひとすじだけど?」

 恵は視線を逸らしたあと、首をひねって黙る。彼は何かを考えているようだった。

 無理もない。彼にしてみれば、隣の部署のよく知りもしない人から急に大声で「あなたの親友が好きだ」と宣言されたようなもの。

 架はここ数分間の自分を客観視して、静かに溜め息が漏れた。

 再び、架は天井を見つめる。

(知らなかった……。そんな噂があるのか。今まで佐久田くんのことしか考えてなかったからなぁ……)


「俺は、亜生が大事なんです。もちろん、親友として」

 架が恵に目を向けると、彼は真剣にこちらを見ていた。 

「信じて、いいんですよね」

 恵の本気の眼差しに、架は思わず襟を正す。

「ああ。……信じてほしい。俺を」

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