第8話 後編

 翌日、亜生は架とともに再び蘇堂の本社を訪れる。

 乗り込んだガラス張り仕様のエレベーターが勢いよく上がっていくほどに、亜生は縮こまっていく。


 毎度のように、磨りガラスの壁のミーティングルームで蘇堂の面々と顔を合わせた。今日は新顔がいる。

「改めてご紹介します。秘書のクレイシです」

 大紀は隣に立っていた女性に目配せした。

 彼女が名刺を差し出す。

「初めまして。香山の秘書の呉石くれいしさきと申します。香山に対するアポイントや連絡の際は、私にご一報下さい」

 咲は艶のある黒い長髪を後ろで一つにたばねて、唇は「ピンクベージュ」とでもいうのだろうか、グロスが乗る。小柄で細身、全体から女性らしさが漂っていた。

「初めまして。雪代社企画開発部の新條です」

「佐久田です」

 挨拶と名刺を交わすと、大紀が亜生に向かって何か言いかけたようとした。

 咲がさえぎるように口を挟む。

「初めまして、佐久田さん。それから、新條さん」

 咲が子犬のように潤んだ黒目で目尻と眉を下げると、外へと巻かれた長い前髪が揺れた。

 彼女は完璧なまでの微笑みを、架へと向けている。

「では常務、私はお出迎えがございますので」

 咲は大紀にトゲのある物言いで端的たんてきに告げると、ハイヒールの音を残しながら立ち去った。


 そのあとは、いつもと違った。

 本来、打ち合わせが終わろうが終わるまいが、亜生は大紀に呼ばれるがままにキスをされる。

 今日の大紀は咲に割り込まれてからというもの、亜生とは一度も目も合わせようとはしなかった。


 打ち合わせが終わると、大紀は亜生たちに帰社を促すように、自ら進んで部屋の扉を開けた。

「ではまた来週」

 大紀はどこか急ぐように、ぎこちなく微笑んだ。

 亜生は架とエレベーターが上がってくるのを待ちながらも、大紀の様子が気になっていた。

 大紀とキスをしたい訳じゃない。だけど、やけに大人しい彼の様子が頭から離れない。

 到着したエレベーターの中から、大紀の秘書の咲と巻き髪の女性が降りてきた。

 互いに会釈をしたすれ違いざま、エレベーターに乗り込もうとしていた亜生の足が止まる。

 なぜなら、香りに覚えがあったから。

「大紀さん!」

 女性の声に、亜生は思わず振り返っていた。

 エレベーターから降り立ったばかりの巻き髪の女性の後ろ姿が、ミーティングルームから出てきた大紀の胸の中に収まっている。

「本当に来たのか、セイカ」

 大紀の甘さ漂う声に、亜生は胸が苦しくなった。彼が『苗字』ではなく『下の名前』で呼ぶ意味を、亜生は知っている。

 女性の顔は見えない。けれど大紀は笑っている。

 大紀の腰へと女性が腕を回すと、彼もそれに答えた。

 二人は、やけに親密だった。


 再会してからの大紀には、いつも甘い香りが混じっていた。

 あれは、彼女のうつ

「ご無沙汰ぶさたしております。奥様」

 誰かがそう言ったのを聞いて、亜生はいやでも理解した。

 目の前で大紀の腕の中に当然のようにいるのが、彼の『妻』だということを。


 大きな分厚ぶあつい壁が見えた。

 分かっていたつもりだった。だけど、実際にの当たりにして気づいた。

 自分が大紀に選ばれなかったということに。


 大紀の口から「結婚する」という言葉が出た時に気づくべきだった。

 亜生は唇を噛む。

(俺はいらなかったんだ。大紀くんの人生には、俺はもう、いない……)

 どれだけ一緒にいたとか、どれだけの時間を想っていたとか、そういうことじゃない。

 十年付き合っていたって、何十回、何百回と唇を重ねても、事実は事実として変わらない。


 彼を想って身を引いた。彼のために別れを選んだ。別れを告げた。


 そう納得しようとしていたのに、そうではなかった。


『彼』が『彼女』を選んだ。


「佐久田くん」

 亜生は我に返る。

 エレベーターの中から、架が微笑みながら手招きをしていた。

 亜生は逃げ込むようにエレベーターに乗って、『閉』を連打する。

(俺じゃ、なかった……)

 今さらこんなことに気づいても仕方がない。いつまでも女々めめしく彼を想って、いつだって彼のことばかり考えて、キスだって受け入れて……。

 悲しくて、情けなくて、亜生はスーツの上から胸を掴んだ。

(なんで、俺にキスするの? あの頃の香水まで着けて……。なんで……)


「佐久田くん、大丈夫? どうした?」

 亜生の背中が温かくなった。

 架が心配そうに亜生の顔を覗き込んで、背中をさすってくれている。

 亜生はその手にすがりつきたいと思った。

 だけど、胸を掴んでいる自分の手の力を強めた。

「あの、大丈夫です。すみません」

 亜生は顔を背けて、精一杯の強がりで言葉を返す。

 本当は今にも泣きそうなくらい心が痛い。とにかく早く一人になりたい。一人でいることが怖いくせに一人になりたいだなんて、つくづく自分は勝手な人間だと、亜生は自分を責めた。


 * * *


 社に戻ると、亜生の席にメモが置かれていた。

『今日、仕事が終わったら待ってろ。 恵』

 亜生はそれを見るなり、心に落ち着きが戻る。

 恵の存在はいつだって、亜生に自分を認めることを許してくれる気がするから。

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