第8話 前編

「また一人残された」と、亜生は自分の胸を締めつける苦しさにもだえる。

 大紀を受け入れられないのは、自分の中に残っている失望から? 『男』という、自分への憎しみか怒り? 『女』に対する妬み? 敗北感? それとも『男』としてのプライド? 

 どれをとっても、大紀のことを一番に考えている自分がいるということは確かだった。


 結局、亜生は会社を早退した。峯島も架も体調を気に掛けてくれていたから、いたたまれない。けれど、体より心の方が限界だった。会社の人に向かってそんな話、いくらなんでもできないけれど。


 自分以外の音がしない家。亜生はベッドの上に倒れ込んだ。

 うずくまって部屋にいると、世界に一人だけ取り残されたみたいな孤独に拍車が掛かる。

 頭をよぎるのは、大紀のこと。彼を想うと、涙が溢れて止まらない。

〈愛する人といつまでも一緒にいたい〉

 そんなささやかな夢さえも、自ら手放した。

 大紀を受け入れられないのは、自分自身の存在が理由なのかもしれない。

 この世で自分を唯一愛してくれたのが彼だった、と亜生は失った大きさをようやく理解した。

 頭の中で大紀の言葉が繰り返される。

『俺のこと、そんなに嫌なのか?』

 そんな訳ない、とすぐに言うことができなかったのは、彼を愛しているから。

 彼が『幸せ』であるためには、『幸せ』になるためには、『男』の自分ではなく、『「女」である「妻」』といることで、『それが正しい』と今も変わらずに思っているから。

 大紀は元々『女性』を愛せる人。彼が今でも自分を愛してくれていたって、彼の気持ちには答えてはいけない……。

 自分にできるただ一つのことは、それだけ。

 亜生は溢れる涙の中で、「大紀には幸せであって欲しい」とひたすらに願った。


 * * *


 打ち合わせの度に、大紀は亜生にキスを強要する。

 診療所の一件以来、亜生は大きな抵抗をすることもなく、彼の気の済むまでキスだけは受け入れた。

 唇を重ねても、好きな人とのキスがこれほどまでにむなしいものだなんて、知りたくなかった。

 額から頬、唇から首筋。大紀の優しいキスが降りてくる。

「いっそのこと激しく乱暴に口づけてくれれば、諦めがつくのに」と、亜生は毎度胸が張り裂けそうだった。

 

 一ヶ月が過ぎた頃。

 亜生は大紀とのキスのあと、いつものように一人残された蘇堂のミーティングルームから出た時だった。

 扉を開けると、目の前に架が通りかかる。

「やっと見つけた。探したよ」

 架は一向いっこうに戻ってこない亜生を探していたらしい。

「仕事中に自分は一体何をしているんだろう」という後ろめたさで、亜生は架の顔が見れなくなった。

 彼から顔を背けて、俯く。

「ねえ、それ……」

 架の声が聞こえたかと思うと、亜生の首筋に何かが触れる。

 咄嗟に顔を上げた亜生の首元に、架の手が回る。

「これっ……。あ、ええっと、待って……」

 架はスーツのポケットから絆創膏ばんそうこうを差し出した。

 亜生が不思議に思いながらも受け取ると、架が自分の首を指で叩く。

「貼っときなよ」

「えっ……。なん……」

 亜生は言いかけて、全てを悟った。途端に顔が熱くなって、慌てて近くのトイレに駆け込む。


 鏡に映っていたのは、思っていた通りのもの。

(なんで? なんでわざわざ、こんなところに……)

 亜生は思わずしゃがみ込む。

 シャツのえりのちょうど真上。大紀があとを残していたなんて、気づかなかった。

 見えるところにマーキングされていたことよりも、架の方が遥かに冷静だったということに、亜生は情けなくなった。

 同時にキスマークを付けていった大紀に、怒りにも似た感情が湧き上がる。

(こんなの、今まで一度も……、付き合ってた時だってしなかったのに)

 亜生は唇を噛んだ。絆創膏を持つ手が震える。


 亜生がトイレから廊下に出ると、架は磨りガラスの壁に背を付けて待っていた。

 亜生はたまらず声を発した。

「あのっ、すみませんでした」

「ああ、気にしないで。まあ、ちょっと驚いたけど」

 架は冷静をたもちつつも、引きつったように微笑む。

 亜生はいたたまれず、言葉を続けた。

「以後、気を付けます」

「何を?」

 急に、架の声が低くなった。

 先ほどとは様子が違って、架は手で首を掻きながら俯いている。

「あの、その……」

 亜生が言葉を詰まらせていると、架が口を開く。

「佐久田くんだけの問題?」

 架は顔を伏せたまま、亜生の答えを待っているようだった。

 架に本当のことを話すべきか、と亜生は手の平を握って目を伏せる。

(何を話す? どこまで話す? 取引先の常務が実は自分の元恋人で、自分が拒めば蘇堂が手を引く。そうなれば両社の損害はまぬかれない。迷惑を掛けるどころの話じゃない)

 頭の中で思いが葛藤かっとうする。それらに比べれば『自分がゲイ』だということが、ちっぽけに思えた。

 架はしびれを切らしたのか、壁から背を離して顔を上げた。

「さっきもそうだけど、打ち合わせのあと、毎回香山さんといなくなるよね?」

 真っ直ぐに見つめてくる架に、亜生の血の気が引いていく。

(気づいてた? まさかさっきも、本当は見られてた?)

 亜生の握っている手の平が、瞬く間に湿っていく。

「それは……」

 亜生は顔を背けて口籠もる。

「仕事のことかな? ……それとも個人的なこと? 佐久田くんが担当に加わったのも、何か訳があるとか?」

 架の一言一言が、視線が、亜生の全身を突き刺す。

「あの、す、すみません……」

「なんであやまるの? 俺は質問してるんだけど」

 架の言い方は柔らかかったけれど、それが逆に怖かった。

 亜生はどう言えばよいのか分からず、口を結ぶ。人として、いち社会人として、だんまりを決め込むなんて、自分の弱さと非力さで亜生の心は潰れそうだった。

 亜生の腕を架が掴む。

 力強い彼の手は熱い。

「……俺じゃ、力になれない?」


 予想もしていなかった架の言葉だった。

 亜生は思わず顔を上げた。

 架は眉を顰めている。

「俺を、頼ってよ」

 本当は誰かにこんな関係を止めてもらいたかったのかもしれない、と亜生は奥底から熱いものが込み上げてくる。

「ごめんなさいっ……、お、俺っ……」

 せきを切ったように、亜生は涙が溢れ出す。

「佐久田くんが言えないなら、俺が直接峯島部長に、いや、蘇堂に言って」 

「やめてっ!」

 亜生は咄嗟に声を荒げていた。こんな私情に、架を、峯島を、会社や蘇堂を巻き込んでよいはずがない。

 亜生は大きく息を一つ吐いて、平静を手繰たぐり寄せる。

「あの……、俺は大丈夫ですから……」

 自分の声が徐々にか細くなっていくのが分かる。

 架は「分かった」と一言呟いて、それ以上踏み込んではこなかった。

 亜生は申し訳なさで、胸が痛かった。けれど大紀とのことがおおやけになれば、自分だけの問題ではなくなる。それは避けたかった。

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