第7話

 朝から溜め息が止まらない。今日は雪代社に蘇堂の開発部がやってくる。

 別階のミーティングルームへ続く廊下。部署から資料を取りに戻った亜生の足の運びは、重いなんてものじゃない。足首に何十キロもの重りをはめているみたいに、一歩踏み出すにも苦痛が先を行く。

 エレベーターホールの前、部長の峯島と本来の蘇堂の担当者である架の姿が見える。

 二人は蘇堂の面々めんめんを連れて、ミーティングルームへと歩き始めた。

(もう来ちゃったかぁ)

 亜生は本日何十目の溜め息を吐く。

(出迎え、しなきゃだよなぁ……)

 再びの大きな溜め息のあと、亜生が架の傍へ向かおうとした時だった。

 亜生の瞳が、大紀を捉える。

 急に呼吸が乱れて、亜生は息を深く吸った。心臓を針で刺されているような痛みが、亜生を襲う。

「佐久田くん、どうした? 具合悪い?」

 いつの間にか隣にまで来ていた架の声で、亜生は自分が動揺しているということに初めて気づいた。

 亜生は静かに呼吸の整える。

随分ずいぶん顔色が悪いよ。社内の診療所行く?」

 小声で峯島が言うと、亜生は震え出す声をごまかしながら答えた。

「だ、大丈夫で、す」

「いや、ダメでしょ。唇まで青いよ?」

 峯島は亜生と架に問いかけた。

「本当に、平気ですから」

 亜生は無理やり広角を上げる。

 私情で会社や同僚に迷惑を掛けたくない。亜生はこの場から逃げることよりも、やり過ごすことへ腹をくくる。

 峯島の「不調が続くなら必ず言うように」の言葉でさえも、亜生にはわずらわしく思えた。それくらい、今の亜生にはとっては切羽せっぱ詰まったという状況。

 職場に持ち込んだ恋愛のもつれ。

 亜生は申し訳なさと歯痒はがゆさで、情けなくなった。


 無事ミーティングを乗り越えると、亜生は峯島に連れられて席を外す。

 心労といってもよいものなのか、今はただ立っていることさえも精一杯。

 遅れて廊下へ出てきた架が、亜生を見兼ねてか峯島に言った。

「峯島部長。佐久田くんのこと、診療所までお願いします」

 架は蘇堂の担当として中に戻ると峯島に話している。

 彼らは亜生の不調の原因が、先ほどまで目の前に座っていた取引先の責任者だとは思ってもみないだろう。


「私が連れて行きます」

 大紀が扉の前から口をはさんだ。

 当然困惑している峯島をよそに、大紀は言葉を続ける。

「佐久田くんとは昔からの仲ですので、お構いなく。ええっと、場所だけ教えてください」

 大紀は峯島に愛想あいそよく振る舞うと、亜生の体を支えるような素振そぶりで腰に触れてきた。

(ちょっ、何、何なの?)

 亜生は動揺が増して足元がもたつく。大紀はこれ幸いと、亜生の腰に腕を回して抱き寄せる。

 架が声を発した。

「香山さん、このあとも仕事がおありでしょう。彼のことは我々に」

「いえ、私は直帰ですので。お気遣いなく」

「いや、でもっ……」

 架は担当者として、同僚としてか、思いのほか食い下がってくれていたけれど、大紀は思惑通りとばかり、峯島から診療所の場所を聞き出す。

 架は峯島に促されるかのように、二人はミーティングルームへと戻っていった。

(嘘でしょ、何で……)

 亜生は何度も大紀の手を振り払うも、彼は涼しい顔をしている。

「大人しく付いてこい。俺は姫抱きしてエレベーターに乗ってもいいんだぞ?」

「なっ……」

(冗談じゃない! 何言ってんの、この人)

 亜生には声にする気力がなかった。最後に気が抜けた、というのが正しいだろう。

 結局大紀に両腕を掴まれて、亜生は診療所へ連れていかれる。


 エレベーターを降りた左側、雪代社社内診療所。

 常駐している産業医に、大紀は勝手に説明を始めた。

 亜生が医師と一言二言交わすと、大紀が「私が見てますから、大丈夫です」と、締め括る。

 大紀の申し出を医師は了承。医師は小一時間別件で用があったらしく、診療所を出た。


 亜生が診療所のベッドに座ると、大紀が口を開く。

「大丈夫か?」

 自然と亜生は顔を伏せた。口を閉ざす亜生の隣に、大紀は腰を下ろす。

「この前も思ったけど、少しせたな」

 大紀の手が、亜生の頬に触れる。

 亜生は反射的に手の甲で彼の手を叩いた。けれど振り払ったはずの大紀の手が亜生の腰へと伸びて、瞬く間に彼に抱き寄せられた。

 大紀の心音がスーツの上から伝ってくる。自分と同じ脈の速さに、亜生は戸惑った。彼の考えていることが全然分からない。

 大紀の漆黒の瞳が近づいてきて、亜生は思わず顔を背けた。大紀は片方の手で亜生のあごを持って、唇を重ねた。

 静かに唇をむ、甘いキス。先日のキスとは比べものにならないほどに優しい。

 大紀は少し口を離すと呟いた。

「休んだ方がいい」

 近過ぎて、彼の表情は見えない。分かるのは吐息の温かさだけ。

「大丈夫だ。あとで起こすから、今は横になってろ」

 大紀は亜生を寝かせると、隣のベッドに置いてあった毛布を手にした。

 広げた毛布を亜生に掛けて、彼は微笑む。

 穏やかに上がる口角、口元のほくろが懐かしさを誘う。彼の優しい顔を見たのは、いつぶりだろう。

 亜生は大紀の顔を自然と見つめていた。

 どうしてか、悲しくなってくる。

「なんで……」

(俺じゃなかったの?)

 亜生は喉まで出かかった言葉の続きを、無意識に呑み込んでいた。

 今さら聞いてどうするつもりなんだと、亜生は目を閉じる。


 唇に、唇が重なるような感触だった。

 亜生が静かに目を開けると、大紀は優しく微笑んだまま再び口づけた。

 ベッドのきしむ音と同時に、唇と唇が重なる。

 彼に身をゆだねている自分がいた。ダメだと分かっていても、亜生は彼の唇を受け入れていた。

 恋しい重みが亜生の体にのしかかって、大紀の大きな手は亜生の頭を撫でる。指先が少し冷えた、よく知った彼の体温。

 大紀の手の平が亜生の頬へと静かに滑っていく。彼の指にある『硬いもの』が、亜生の耳元に引っかかる。見るまでもなく『指輪』だと分かる。

 大紀の背に触れかかっていた亜生の手が止まった。

 亜生はその手で大紀の両肩を押す。

(何してんだろ、俺……)

 現実に引き戻されて眉を顰める亜生とは対照的に、大紀は不思議そうに眉を上げて微笑んでいる。

「どうした? まだ、具合よくないか?」

 平然と、というのはこういう態度のことをいうのだろう。悪びれもない、ともいう。

 大紀は亜生を愛しそうに見つめて、頬を親指で撫でている。

 亜生は眉を寄せたまま、大紀を見つめ返した。

「ごめん。こういうのは、違うと思う」

 流された自分も確かに悪い。それでも、彼はもう『人のもの』。変わらない事実。

「違うって、何が?」

 大紀の顔が、少しずつけわしくなる。

 彼の目を覚ますためにも、亜生は声を振りしぼりながら告げた。

「俺たちは、終わってる。そうでしょ?」

 自分の声で悲しくなる。何度も何度も嫌というほど一人で現実を叩きつけられるこちらの気持ちも、少しだけでもさっして欲しい。

 亜生は自然と溜め息が零れた。起き上がろうとして、大紀の腕を退けようした亜生の手を、威圧いあつにも似た低い声が制止する。

「亜生が拒めば蘇堂が手を引くこと、忘れてないか?」

 彼の言葉が、亜生の心臓をつらぬいた。

 大紀は顔を伏せている。それでも、怖い。十年の間恋人でいたのに、こんなにも不穏な大紀を亜生は知らない。

 自分の手が、膝が、体が、震えている。声が出ない。

 小刻みに動く亜生の唇を、大紀の唇がふさいだ。

 彼の手は亜生の両手を拘束こうそくしている。

「んっ、やら! んむ……」

 亜生はようやく声を取り戻す。抵抗しても、大紀の力は緩むことはない。


 瞬間で、大紀との十年の思い出が走馬灯そうまとうのように駆け巡る。恋に落ちた時の、冷静で落ち着いた彼の姿。当時、自分を選んでくれた彼の気持ち。

 彼の全てが宝物だったのに……。


 亜生はどうしようもなく悲しくて苦しくて、歯向かう気力もなく静かに目を閉じた。

 大紀の髪が、亜生の頬に落ちている。

 彼の息が亜生の唇に掛かって、彼の唇が唇に重なる。

 彼の手が、亜生の手首から手の平へとってくる。

 亜生の右手の小指に、細く硬いものが引っかかった。

(指輪っ……)

 途端に、亜生は涙が溢れ始める。

「何で泣くんだ? 俺のこと、そんなに嫌なのか?」

 キスを止めた大紀が、亜生を見下ろした。

 彼の長い前髪が、表情を隠している。

 亜生はすぐに言葉が出なかった。答えが一体どれなのか、分からない。

「……またな」

 大紀はそう言い残すと、診療所から出ていった。

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